長編47
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宋代麗人図

ある日の夜。都内の某商社に勤務している黄田満は帰路についていた。最寄り駅で下車し、徒歩で駅前の繁華街を抜けて住宅街に向かっていく。いつもと同じ道順だった。

十月下旬。うだるような夏が嘘だったかのように今では秋の乾いた涼風がかすかに吹いている。

街路樹に植えられた金木犀の香りが夜の大気に漂っていた。

──もう秋になったんだな。

黄田満は夜空を仰ぎながら一人で呟いた。

この男は今年で三十八歳になる。家のローンもあるので毎日、必死に働き続けている。妻はいるが子供はいなかった。いないというよりも子作りなどをする余裕がないほどに忙しい。ここ何年もまともに休暇を取れていないのである。

確かにそうした生活はストレスや疲労がたまるものだが、同時に彼にとってそれだけが生き甲斐でもあった。趣味といえるものは一つもない。

それは学生時代も同じようなものだった。ひたすら勉学に勤しんでいた満の大学における成績はトップだったが友人は一人もいなかった。周囲の人間のとって遊びも知らない彼の印象は堅物であり、近寄り難い存在だったから仕方がないのかもしれない。

当然ながら女遊びを知らないこの男にとって、初めての相手は見合いで結婚した現在の妻・美佐子だった。とは言っても満自身、本当に自分が妻を愛しいるのか分からない。見合いを受けたのは上司が用意してくれた縁談だったから断れきれなかっただけであり、結婚をしたのもすべて成り行きだった。恋愛感情が芽生えたのではなく、破談になれば上司の顔に泥に塗ることになると考えた行動だったようだ。妻は地味な女でお世辞にも美人とはいえなかったが人並に家事はできたし、夫である彼にも良く尽くしてくれている。

だからこそ、満にとって妻は得体のしれない存在で不気味ですらあったのだ。満は仕事の忙しさを理由に新婚旅行にもつれていかなかったし、いまだに妻を喜ばせるようなことはしていない。普通なら不平や不満をぶつけてくるものだが妻は何も言わない。だからこれまで一度も喧嘩はしていない。妻は笑顔を見せる人間ではなく、一人の異性としてもあまり可愛げのある女ではなかった。満は何を考えているのか分からない妻が不気味であり、自宅ながらもどこか居心地の悪さがあった。要するに家にいたくないのだ。そうした経緯がこの男にしなくてもいい残業をしてでも職場にいる時間を伸ばそうという行動に走らせているのかもしれない。

時刻は深夜零時過ぎ。黄田満は繁華街から住宅街の間に架けられた橋を渡り終えたところであった。自宅にたどり着くまで残りわずかいう距離だった。

しばらく住宅街を歩ていると前方にある外灯が見えてきた。その外灯の下には一人の見知らぬ女が佇んでいた。

満は何となく気になって外灯の前で立ち止まった。女もこちらを見ていた。

あまり異性に性的興奮で我を失ったことがないこの男にしては珍しい行動だった。

だが、外灯に照らされたその女の顔は美しかった。男ならば誰もが見とれてしまうだろう。

女は一八歳から二十歳ぐらいに見えた。瞳が潤い、妖しく艶やかに光る濡れた唇が魅惑的だった。

どこか男を誘うような、挑発しているような笑みを浮かべていた。

それによく見れば女が身にまとっているのは一枚のシルクでできた衣だけだった。天女の羽衣のように薄っぺらい布切れである。

布越しに桃色の乳首が透けて見えていた。そこそこ大きな胸だった。

普通に考えれば異常者だ。深夜で人通りが少ないとはいえおかしい。しかもこんな季節に。

最初、満もおかしいと思った。だが、女を見ているうちに言いようのない興奮をおぼえてきた。まるで性に目覚めた思春期の少年がヌード写真を見てしまったような衝撃と興奮。彼の下半身はズボンの中でいきりたっていた。

こんなことなど一度もない。

鼓動が高鳴っていた。血流は早まり、体中が熱くなってくる。

毛穴から大量の汗が噴き出してきた。彼は自分の生理反応に戸惑っていたが女を見ずにはいられなかった。次第にこの女を犯してしまいたいという欲求が昂ってくる。

女は声も出さずに口をパクパクさせていた。満は相手の唇の動きを読んでみる。

わ・た・し・を・だ・い・て

──私を抱いて。

女はそう彼に訴えていたのだ。

満が女に触れようとした瞬間。突然、女は走り出した。

彼もそのあとを追いかけてゆく。一心不乱に走り続けたがなかなか追いつくことができない。

気づいた時には女の姿を完全に見失っていた。

ひどく落胆したせいなのか、さっきまであった欲求と熱は消え失せていた。

──俺は何をしているのだろう?

冷静になって辺りを見渡して見れば、そこは見知らぬ路地裏だった。

ふと、時間が気になって腕時計に目を向ける。

時刻は深夜二時を少しまわっていた。

大変だ。早く帰らなくてはいけない。明日も仕事だというのに。

入り組んだ路地裏をうなだれながらトボトボ歩ていると、あるものが飛び込んできた。

それは道路の端に置かれたネオンの看板。

”骨董屋 異邦人”と表記されていた。

満は骨董品に関心などなかった。が、どういうわけか、引き寄せられるように店の入り口へと足を運んでいた。

建物は木造の一軒家だった。築四十年ぐらいといったところだろう。

入り口は窓枠にガラスがはめ込まれた引き戸になっている。カーテンで仕切られているので店内を窺い知ることはできなかった。だが、それでもカーテンの隙間から灯が漏れているところを見ると営業はしているのだろう。

満は意を決して引き戸を開け、カーテンをめくって店内に足を踏み入れた。

狭い店内だった。

照明は裸電球だけで店内はほの暗い。

四方の壁には幾つもの陳列棚やガラスケースがおかれていた。用途不明の皿や壺などが並んでいる。

店の一番奥には事務机が置いてあり、そこには店主らしき恰幅のいい男性が座っていた。

年齢は五十代後半に見えた。

男性は手にしている掛け軸を眺めていたが、こちらの存在に気づいて顔を向けてきた。

「いらっしゃい。こんな時間にお客なんて初めてだよ」

「はあ……」

とてもじゃないが、裸の女を追いかけているうちにここまで来たなどとは言えなかった。

「お客さん。何をお探しですか?」

「いや、その……ん!?」

反応に困った満の視線は店主が手にしている掛け軸に注がれていた。それは古めかしい美人画のようだった。

「どうされました?」

「そ、それは……」

「ああ、これに興味を持たれたのですね。ご覧になりますか?」

「はい」

満は店主から掛け軸を受け取り、そこに描かれた美人画をまじまじと眺めた。

女の顔を見て驚いた。

さっき、遭遇した女の顔そのものだったのだ。

絵は鮮やかな桃色で染められた蓮の花の池の中洲に亭(東屋)があり、そこに置いてある長椅子に若い女が絹の服を着た姿で腰かけているという中華風の構図だった。

彼はそれがどうしても欲しくなった。

「あの、これを売ってはいただけませんか?」

「うーん……どうしたものかな」と店主は表情をくもらせ、腕を組んで悩みだした。

「ダメですか?」

「いや、これは売るのをやめにしているんだよ。それに……」

「それに何です?」

「この絵は『宋代麗人図』といってね。中国は宋の時代に描かれたもので相当に価値があるんだが、これを手にしたものはみんな不幸になるといういわくがあるんだよ。実際、これを売りつけてきた前の持ち主は女の幽霊が出たと叫んでいたんだが、数日後にはあっけなく死んじまったっけな──」

店主はこの絵がいかに縁起の悪い代物かを延々と語ったが、満の耳にはほとんど入っていなかった。彼の意志は固く、どんな手段を選ぼうとも自分のものにするつもりだった。

たとえ、この店主を殺してでも……。

満は店主の話を途中で遮り、再び譲ってほしいと訴えた。

「売り物じゃないから相当に高くなるけど、それでも買うつもりかい?」

「もちろんです。クレジットカードは使えますか?」

「ああ、使えるよ」

金額は相当に高額だったが彼の収入では買えないものじゃなかった。

満は満ち足りた気持ちで店を後にした。不思議なことに迷い込んできたわりには意外と容易く帰宅することができた。

妻は帰宅が遅れたことや骨董品を買ってきたことに心配したが、適当に話をごまかして自室にこもった。夫婦の営みは皆無だったので別々の部屋で寝ているのである。

この夜、満は不思議な夢を見た。

見知らぬ古ぼけた土壁の家にいた。

家には妻に似た女が何やら口うるさく怒鳴っている。おとなしい美佐子が自分に怒鳴ることはなかったのだが、その勢いに押され、彼女が現代ではありえない麻の着物を着ていることにも頓着せず、外に飛び出してしまった。

あてもなくうろついていると、恰幅のいい五十代後半の男に声をかけられた。

「みんな不幸になるんだよ……」

何を言っているんだこの男は。それより仕事に行かなくては、と気がはやりつつも舗装されていない土煙の舞う通りの街並みを眺めながら歩いていたのだが、そこでふと見かけた女に目が釘付けになってしまった。

あの女だ──満は女と邂逅した際に覚えた興奮がまざまざとよみがえるのを感じた。

そして、その女に声をかけた。

女は満の言うがままについてきた。家に二人で戻ると、美佐子の怒号が案の定、飛んできた──いや、もしかしたら家を飛びだしていた間中もずっと、がなりたてていたのかもしれない。

美佐子の額に浮かぶ血管をぼんやりとみながら、傍らの女に気がいっていた。

「今日から一緒に住むから。部屋はまだ空いているよな?」

妻がよい返事をするわけもないが、言うに任せて満は女を用意した空き部屋にいれた。男は夜にその女のもとへ忍び込むことを考えていた。

家人が寝静まり、頃合いだと満は女の部屋の扉に手をかけ、少し手前に引いたときだった。月明りが青白く、しかし、強烈にさしこんできた。

その向こう、薄っぺらい布切れごしに女の白い肌が透けてみえる──と、瞬く間にその絹のような白い肌が黒い獣毛に覆われていくのだった。満は驚き、扉を思いきり開いた。それと同時に、女と思っていた「それ」が窓から飛び跳ねるように消えたのだ。そのあとを追うように窓から身を乗り出した。

「それ」を探して走るうちに、遠くに蓮の花が咲き誇る池が夜の暗いなかでも明るく目にとまり、近づくとその池の真ん中あたりに屋根のある亭があるのがわかった。その屋根の下の長椅子にあの女が座っていた。

満は引きずりこまれるようにその隣に座った。なんだか頭の中に霧がかかったようになり、女だと思ったら再び黒い獣毛に覆われた化け物になっていたのだが不思議と恐怖を感じるより、性的に興奮している自分がいた。

その口が開き、咆哮とともに生暖かい息が頭にかかり、首の頸動脈にしっかりと牙がめりこんでくるのがわかるのだが、下腹部がさらに熱くなり、満の興奮がさらに濁流となって激しい快楽を呼び込むのを覚える。満は何度も精を吐き出した。何度も果てていた。

それを繰り返しているうちに夢から醒めた。

体中に疲労を感じたが、同時に心は幸福感に満ちていた。

この日から女は毎晩のように現れた。基本的には食われるのだが、日によっては人間の女として交わることもあった。首筋に甘嚙みと吐息を吹きかけられて深みにハマっていく。

いや正確ではないな、女は実際いたのだ。その肌の質感、夜伽のリアルさは実物としか思えない。

彼と一晩抱き合った後、朝になると姿を消してしまう。

いつしか会社にも行かなくなった。

黄田満にとってはもう何もかもがどうでも良くなった。

あの女さえいればいい。あの女さえいれば幸福のなのだから……。

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神御呂司村の事件から一か月後、俺は土御門さんの「怪奇探偵舎」で助手として正式に仕事をするようになっていた。

 もちろん、探偵舎と言っても普通の興信所とは全く違う業務内容である。怪奇探偵舎は怪異が関わっている事象全般の相談を請け負っている組織だ。必要に応じて調査を行い、問題を解決させる。

 探偵舎の事務所は八王子駅前のテナントビルの二階にある。間取りは2DK。

玄関から入ってすぐ手前には応接用に用意されたソファーが二脚、テーブルを挟んで向き合うように設置されているのが見える。

近くの壁際には本棚が幾つか置かれており、怪しげな呪術書や古めかしい巻物などが保管されていた。そこからさらに部屋の一番奥にはビルの外が見える窓になっていて、窓の前に土御門さんのデスクが置かれている。そして、天井近くの壁には神棚が南向きに設置されていた。

事務所で一番新鮮に感じたのは土御門さんのリクルートスーツ姿だった。いつもは祓い仕事で身に着ける巫女服しか見ていないから驚いた。 

 スタッフは事務員が一人だけ。その事務員は土御門さんのお兄さんだ。

名前は土御門琉惺(つちみかど りゅうせい)という。

 土御門という人物が二人になってしまったので今後は彼らのことを「聖歌さん」「琉惺さん」と呼ぶことにした。

 琉惺さんは一見、身体は華奢に見えるのだが意外と筋肉質だった。おまけに高身長で顔もなかなかに美男子だった。女のように背中まで伸びた髪をいつも紐で結わえている。性格は真面目で誰に対しても親切な人物だ。事務仕事のほとんどはこの人に教えてもらっている。人にものを教えるのが上手でいたずらに怒鳴ったりもしないのでこちらも自然とモチベーションが上がってくる。

人使いが荒い聖歌さんとは顔だけでなく、性格まで違うために俺は二人が義理の兄妹かとも思ったことがある。それでも本人に話を聞いてみると、れっきとした実の兄妹だという。同じ腹から生まれてもこうまで個性が違うものかと驚いてしまったが、よく考えてみれば外見や性格まで似すぎているのもそれはそれで気味が悪いかもしれない。正反対の二人だが兄妹仲は良い。琉惺さんは嫌な顔を一つせずにニコニコと微笑みながら聖歌さんの世話を焼いている。俺は彼を菩薩様のように慈悲深い御仁と密かに尊敬している。

ちなみに土御門家は古くから陰陽師を生業してきた一族であり、親族のほぼ全員が陰陽術を極めているそうだ。二人の上には歳の離れた兄弟が何人もいるらしい。いずれも祓い屋としては猛者ぞろいだという。

琉惺さんも陰陽師としての基本的な術──例えば式神を呼び出して何かさせるぐらいはできるらしい。本人曰く「戦闘や調査力に関して聖歌には遠く及ばない」そうだ。その為、琉惺さんは事務所の留守番やサポート役に徹しており、聖歌さんは一人で怪事件を受け持っている。

聖歌さんは思った以上に多忙な生活を送っているのかと言えば意外とそうでもない。冷静に考えれば、そもそも怪異が関わる事件などというのはあまり頻繫に発生するものではないのだ。俺や叔父、それに聖歌さんたちのような霊感の強い人間だけが日常的に怪異に遭遇しやすい運命にあるだけであり、霊感が無い普通の人々にとって不可解な事件などは都市伝説やオカルトのフィクションでしかない。それに怪異にまつわる相談をもちかけてくる依頼人もごく少数であるために毎日、怪奇探偵舎の事務所は閑古鳥が鳴く有様であった。

聖歌さんは毎朝、眠そうな顔で事務所に入ると琉惺さんや俺に挨拶もせず、デスクに用意されたリクライニングチェアーに座る。背もたれに身体を預け、ゆっくりとシートを倒していく。そして、両足をデスクの上に投げ出して、スマートフォンを取り出せば彼女のベストポジションの完成である。聖歌さんが動く時は仕事の依頼があった時と、彼女が昼に頼んでいる出前のいなり寿司が来る時だけである。

それで俺の仕事はというと、電話番なのだがほぼ間違い電話か勧誘電話ばかり。インカムマイクを使うので物理的な負担はないのだが暇であることに変わりはない。想像では忙しく仕事に追われる聖歌さんの姿をイメージしていたが現実は真逆だった。依頼が来ないのは仕方ないことだが‥‥それにしてもである。宣伝とかしたり、仕事などを探しても良さそうなものだがそれもしない。それを提案しても返ってくる返答は「えっ。面倒くさ~い」や「仕事なんてそのうち来るって」とそっけないものばかり。

そんな現状に俺はふと、聖歌さんは仕事が少ないのにどうやって生計を立ているのか気になり、本人に聞いたことがある。

「聖歌さん」

「なあに?」

「こんなに仕事が無くて大丈夫なんですか?」

「はあっ? 大丈夫よ。うちは警察からも依頼があってね。一つの仕事でかなりの報酬が貰えるのよ。だから、稲生くんは心配しなくても良いのよ」

「そういうもんですか。本当は仕事をさぼりたいだけじゃないんですか?」

「うるさいわね!」と聖歌さんは少しむっとした。

「仕事なんてね、気張っても仕方ないのよ。私はこの業界で怪異探偵なんて呼ばれているけど、そんなにカッコいい仕事じゃないわよ。地味だったり、不愉快な思いをすることだってあるんだから」

「例えばどんな?」

「そうね」と今度は少し機嫌を直したらしく、ニヤニヤしながら得意げに語り出した。まったく喜怒哀楽が激しくて疲れる人だ。

「例えば依頼人の男性が呪いに苦しんでいて、呪いを解くために原因を突き止めたら昔に別れた女だったっていうこともあったわ。それでその女に丑の刻参りをやめるように苦労して説得したのよ。あと、マンションの管理人さんから頼まれて迷惑な住民を恐ろしい幻影で脅かして追い出したこともあるわ」

「ま、マジでそんな仕事もやるんですか!」

俺はあまりのショックに言葉を失った。

怪奇探偵舎というから人々を救う英雄的なものを期待していただけに失望したのだ。とはいえ、師匠であることに変わりはないのでつき従っていくしかない。

退屈で地味な汚れ仕事の手伝いだけで一生が終わるかと思われた時、自分にとっては初の依頼がいきなり舞い込んできた。

それは怪奇探偵舎に所属してから二ヶ月が経った一月中旬のこと。

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とある日の昼下がり。いなり寿司で腹を満たした聖歌さんが寝ぼけた顔で応接用のソファーに寝転がっている時、事務所のインターホンが鳴った。

琉惺さんが颯爽と事務所の玄関口に向かい、ゆっくりとドアを開ける。

入り口に現れたのは三十代後半ぐらいの女性だった。体型は痩せ気味。顔は地味でどこにでもいそうな主婦という印象を受けた。

「あのう‥‥私は黄田と申します。早急に解決して頂きたいことがありまして」

「どうぞどうぞ」聖歌さんはその声を発するかどうかのタイミングでソファーの上ですでに起き上がって居住まいを正していた。応接用テーブルのすぐそばにいた俺が間近で見ていた彼女の寝ぼけた顔が嘘のようだった。

依頼人──黄田美佐子は軽く会釈した後、聖歌さんと向き合う形でもう片方のソファーに座った。琉惺さんがティーカップを二つ載せたトレイを手に給湯室から歩いてきた。ティーカップにはコーヒーが注がれている。彼は芳ばしい匂いと湯気が立ち上るカップを聖歌さんと美佐子に差し出した。

聖歌さんは愛想笑いしながら口を開く。

「私は土御門聖歌と申します」と自己紹介をしつつ相手に名刺を差し出した。

「今回はどのようなご依頼でしょうか?」

美佐子はコーヒーを一口だけ飲み込んだあと、本当に言っていいものかと悩んでいるような表情を見せた。少し間が空いた末、ようやく意を決したように語り始めた。

「実はうちの主人のことで相談がありまして‥‥」

彼女は三十七歳の専業主婦。都内にある商社で勤務している夫・黄田満(三十八歳)と二人暮らしで子供はいないという。

「最近、主人の様子がおかしくて心配しているんです」

「様子がおかしいというのは具体的にどのような?」

「三ヶ月前、主人がどこかの骨董屋で掛け軸を買ってきたんです」

美佐子によれば夫の満はある日、細長い木箱を腕にかかえて帰宅した。

それは何かと訊いてみると、近くの骨董屋で掘り出し物をみつけたと誇らしげに夫が言った。美佐子が箱の中を見てみると、一幅の美人画が入っていた。その値段を聞いて美佐子は呆れたが、家計を圧迫するほではなかったのでそれ以上問い詰めることはしなかった。

ところが夫はその翌日から突然、欠勤が続くようになった。今まで一日も休むことなく働き続けていただけにおかしいと美佐子は感じた。最初はうつ病など精神的な病を抱えたのかと思い不安になって病院へ行くことを勧めたが、頑として言うことを聞かない。しかも夫は一日中、どこかへ行くこともなく自室に引きこもってばかりいるというのだ。体調そのものが悪くなったわけではなさそうだったが、美佐子は夫が何をしているのか気になった。食事に呼んだ際に夫の返事がなく、呼びかけようとそっと部屋のドアを開いたときだった。

夫が自室の壁に飾った美人画に向かって微笑みながら聞き取れないほどの小さな声で何事かを語りかけていた。部屋にいる間ずっと椅子に座り続け、掛け軸に語り続けていたのかと想像すると、ただことではないと思った美佐子が彼を引きずるように連れて行った精神科の医者から正式にうつ病と診断された。

現在は休職中だが復帰できる見込みは低く、休職期間の終了後に退職に追いやられるのは確実。そこまで言うと、美佐子はうなだれながらため息をついた。聖歌さんを含め、俺たちは続きを話すのを待った。

美佐子の問いかけにも夫は何も語らなかった。奇行もおさまらない。食事は妻が部屋に運んだものを口にしているようだがトイレと入浴以外は相変わらず部屋から出ようとしなかった。時折見る夫の顔は衰弱して目に隈が出来ていた。美佐子は原因が美人画にしかないと思って処分しようとしたが激しく夫が抵抗するので現状維持しかできない有り様で…。そこまで言うと美佐子は口をつぐみ、下ろした手を握りしめた。

「その美人画は持ってこられましたか?」

静かに聖歌さんが尋ねた。

「いえ。本当はこちらへお持ちしようと思ったのですが主人が許してくれませんでした。ですが、スマートフォンで撮影した写真ならあるのでご覧いただけますか?」

美佐子はそういうとスマホを取り出した。彼女は慣れた操作で液晶画面に写真を表示させ、そのままの状態で端末を聖歌さんに手渡した。

聖歌さんは液晶画面に視線を向ける。俺も横から写真を覗き込んだ。

絵は鮮やかな桃で着色された蓮の花の池の中洲に亭があり、そこに置いてある長椅子に若い女が腰かけているという中華風の構図だった。

女は一八歳から二十歳ぐらいに見えた。瞳が潤い、唇が妖しく艶やかに光る魅惑的な姿で、生きた人間の女が恋する相手にするように、挑発を見せているようで動悸が激しくなり、引き込まれるような錯覚を覚えて怖くなった。

掛け軸の右上隅に筆で『宋代麗人図』と記されている。

聖歌さんはしばらく画面に表示された絵を凝視した後でスマホを美佐子に返した。

美佐子は深刻そうな面持ちで、

「やはり、この絵が主人の異変に関係しているのでしょうか?」

「今の段階では何とも申し上げられませんが、明日から調査を始めようと思います」

「そうですか。怪奇探偵舎のホームページを拝見したのですが、値段がおいくらかかるのか書いていなかったので不安もありますが…」

「値段はその都度、調査の結果や仕事の内容、かかる時間で経費等が変わってくるので何とも言えませんが、この絵には何かある。興味を持ったので、お支払いはかなり勉強させてもらいますよ」

俺はいつか聖歌さんから聞いた仕事への報酬とかなり差があることに突っ込もうかと思ったが、それより先に

「ありがとうございます。私としては夫が元気になってくれれば不満はありません」

俺はその健気な美佐子の様子に口を挟むことができなかった。彼女はソファーから立ち上って深々と頭を下げ、どこかまだ不安が残っているような表情のままで事務所を後にした。

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翌朝、聖歌さんはデスクでコーヒーを飲みながらゆったりとしていた。ちょうどその目の前を俺が通りかかった瞬間にいきなり話しかけてきた。

「さあ。稲生君。君が待ち焦がれていた依頼よ。しっかり手伝ってね」

「な、何ですかいきなり!」

「私は今から依頼人の自宅に調査へ向かうけど、君にはお使いでも頼もうかしら」

「お使いですか?」

「そうよ。今回の美人画に関する情報を集めて来てもらいたいのよ」

「どこに行けば良いんですか?」

「妖神街にある骨董屋よ」

「妖神街ってどこです?」

「ああ、稲生君には話してなかったわね。簡単に言うと妖怪の桃源郷かしら」

聖歌さんによれば色々な事情で現世では生きにくい妖怪、妖怪と人間の混血者である「妖人」たちが隠れ潜んでいる隠れ里があるという。

大昔は里程度の集落だったようだが現在、大都市にまで発展しているために「妖神街」と呼ばれているそうだ。街の周囲には現実世界と隔絶するための結界が張られている。

ただ、妖神街と現実世界を行き交う行商人が存在するために例外的な交通手段が一つだけあった。それは妖神街の支配者が発行している通行手形と呼ばれるものだ。幸いにも聖歌さんは行商人を引退したという知人から通行手形を譲り受けたという。

「これが通行手形よ」

聖歌さんはおもむろにデスクの引き出しから手帳ぐらいの大きさの四角い木片を取り出した。色は黒。表面は光沢があってつるつるとしており、板の中心部にはミミズがのたうち回ったような文字が赤く三つ記されていた。梵字だとは思うが俺には何と書いてあるのかさっぱり分からない。お守りのように白い紐がついていて首から下げられるようになっていた。

「絶対に失くさないでね。紛失したらこちらとあちらの往復ができなくなるから」

聖歌さんは忠告をしながら俺の首に通行手形をかけてくれた。

俺は彼女にそう言われてふと、気になることが頭に浮かんだ。

「あの、聖歌さん」

「なに?」

「もし、仮にこれをあちらで紛失したらどうなりますか?」

「それは当然、現実世界には二度と帰ってこれなくなるでしょうね。だけど、失くさなければ問題はないわよ。不安そうな顔をせずにはりきって行きなさい。ちゃんと護衛に兄さんをつけるから!」

「‥‥それなら頑張れそうです」

俺は琉惺さんが同行してくれると聞いて安心した。自分が怪奇探偵舎で働いている間、ヘルパーの坂口は事務所で待機しているのだが‥‥彼をそんな危険な場所には連れていけなかった。神御呂司村では一度だけ奇怪な現象に巻き込んでしまったので申し訳ないと思っていた。それが琉惺さんならば守ってもらえるというメリットも高くなる。

「稲生君。安心してや。わてが無事に案内するさかい」

琉惺さんは俺の隣に来てくれて肩を軽く叩いて励ましてくれた。

聖歌さんはこちらの様子を見て笑った後、もう一つ注意点を付け加えた。

「道中は問題ないわね。ただ、あの骨董屋の店主はクセが強いから気をつけてね」

「何を気をつけるんですか?」

「まあ。行けば分かるわよ。別行動にはなるけど、終わったら事務所に合流ね。情報を共有した後に対策を考えるから」

「分かりました」

俺は彼女のどこか含みのある言い方が気になったが、怪奇探偵舎で働く上での登竜門だと思って覚悟を決めることにした。

「稲生君。妖神街への行き方は兄さんが知っているから。それじゃあ、私は今から依頼人の自宅を訪問しにいくから」

聖歌さんはそういうと黒い巫女服に着替えて事務所から出ていった。

あとに残された俺と琉惺さんは妖神街へ行くための準備をしてから出発することにした。

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黄田夫妻の自宅は閑静な住宅街にあった。中古の一軒家だということらしいがよく管理されており、それほどみすぼらしい印象はない。近所の幼稚園から子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。

午後二時過ぎ。外は肌身を凍てつかせるほどの木枯らしが吹きすさんでいた。

土御門聖歌は黒い巫女服の上にコートを羽織り、黄田家を目指してとぼとぼと歩いていた。路上を行き交う通行人の姿はまばらだった。

聖歌は真っ青な顔で身震いをし、白い息を吐き、両手をさすりながら歩いていた。道路沿いに続く住宅団地では建物と建物の間を強風が轟々と唸り声を上げながら吹き荒れている。そこから十五分ほど歩いた先は一軒家の民家が立ち並んでいる地区になっていた。しばらく道なりに歩き続けた後、その先にあるT字路を右折したところに黄田宅がある。

聖歌はわずかに錆びついた門を開けて敷地内に足を踏み入れた。門から玄関口まで続いている道を歩いていると突然、前庭にある犬小屋から一頭の柴犬が咆哮した後に彼女を目がけて飛びかかってきた。聖歌は一瞬だけ腰を抜かしそうになったが気合で正気を保ち、すかさず眠らせる術を相手にかけた。柴犬は地面に倒れ込んでそのまま眠り込んでしまった。

「ちっ、だから犬は嫌いなのよ! よくこんな獣なんて飼えるわね」

聖歌はうんざりした顔で愚痴を一人こぼしながら玄関口に向かった。

玄関のインターホンを鳴らすとすぐに美佐子が出てきた。

「お忙しいところありがとうございます」

「いえ、仕事ですから。それで例の絵はどちらに?」

「こちらです」

美佐子は少し疲れた顔で玄関近くの階段を指さした。

聖歌は美佐子と差し障りのない程度の会話をしながら二階に上がり、彼女の案内で黄田満が引きこもっている部屋へ向かった。

ドアをノックしたが応答はない。

聖歌は美佐子の許可を得て室内に踏み込んだ。

部屋は窓をカーテンで閉め切っているせいで薄暗い。

美佐子の夫は窓際付近に置かれた椅子に座っていた。部屋に入ってきた自分の妻や聖歌の存在には何の反応も示さず、ただひたすらに前方を見続けている。それもただ一点を見ていた。視線の先には白い壁があり、そこには一枚の掛け軸がかかっていた。美佐子が言っていた掛け軸の絵──『宋代麗人図』である。

美人画と一メートル距離を空けて向き合う夫の顔色は蒼白で痩せ細っている。美佐子の話によれば彼の年齢は三十八ということだが髪の毛は白一色に染まっていた。白髪のせいで見た目は実年齢よりも老け込んでしまっているのだ。

顔は無精ひげが目立っており、髪も伸びるにまかせているので浮浪者のようだった。

彼はすでに現実ではないどこか遠い場所を見ているような様子。恐らく、すでに頭の中は美人画しかないのであろう。

聖歌の目には黄田満の身体から生気が白い煙のように抜け出ていき、絵に吸い込まれていく様子が見えていた。

「奥さん、これは危険な状態ですよ。何もしなければ明日にでも死んでしまいます」

「そ、そんな‥‥」

「ですが、今晩中にどうにかすれば助かる可能はあります。あと、これはさっそく回収させていただきます」

聖歌は足早に動き出し、満の視界を遮る形で絵の前に駆け寄った。そして、壁に飾られた掛け軸の絵を取り外すそうと手を伸ばした。

──と、聖歌の背後で獣が敵を威嚇するような唸り声が上がった。

彼女が振り返ると目の前には椅子からおもむろに立ち上がった満の姿があり、憤怒の表情を浮かべていた。吊り上がった眼は白く濁っており、それはすでに人間のものではなかった。さっきまでは感じられなかった強い妖気が彼の全身から漂っていた。

「ウォオオオオ!」

満は雄叫びとともに聖歌に向かって走り出し、拳を突き出してきた。

聖歌は身軽に攻撃を真横に避けたことで負傷することはなかったが、壁には大きな穴が穿たれた。

満はなおも彼女に襲いかかってきた。だが、聖歌はそうはさせないと言わんばかりに懐から一枚の呪符を取り出し、呪文を発した後にそれを相手に投げつける。

その瞬間、投げられた呪符は無数の鎖へと変化して満の身体に巻き付いた。呪符の追加効果で身動きの自由を奪われた彼は床に倒れ込み、そのまま気絶してしまった。

美佐子は豹変した夫の姿に驚いた様子だった。

聖歌は美佐子にはこのままでは満本人に危険が及ぶので彼を催眠術によって眠らせたことを伝えた。

「あ、あの‥‥夫は大丈夫なんでしょうか?」

「少々、手荒になってしまいましたがご心配なく。今日中に解決するのでこの絵は回収します」

「私はどうすれば」

「無事に解決できたらご連絡しますから、それまでご主人を見守っていてください」

聖歌は掛け軸を丸めて桐箱に収め、それを抱えて黄田家を後にした。

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午後二時過ぎ。俺は琉惺さんの案内で妖神街への入り口に向かった。

彼の話では妖神街の入り口へと通じる場所は、迦楼羅町の外れにある『はぐれ鳥居』をくぐった先にあるということだった。

ひとまず、俺たちは町はずれを目指して八王子駅前の停留所からバスに乗り込んだ。俺は車椅子のまま昇降リフトで車内へと進み、琉惺さんは通常口から入って二人分の料金を運転手に渡した。バスは発車を伝えるメロディと同時にエンジン音を唸らせて動き出した。

車窓の景色は目まぐるしく変化していった。多くの通行人と車両が行き交う交差点を通り過ぎ、徐々に繫華街から遠ざかっていく。バスは住宅街を通過した後、今度はその先にある緩やかな坂を上がっていった。左右に墓石が見渡す限り居並んでいる。そして坂を越えた先にはすっかり葉が落ちた森が広がっていた。進んでいく度に道幅が狭くなっていく。もうこれ以上進むのは困難だろうという辺りでようやくバスは停車した。つまりここが終着地点ということらしい。

停留所の看板には「下迦楼羅」と書いてあった。下迦楼羅と言っても人は住んでいない。小さな山や森、草地があるだけの場所だ。

随分前に叔父から聞いた話によれば、戦国時代までは下迦楼羅と呼ばれる集落があったそうだ。

ところがこの土地を支配していた豪族と北条氏の間に戦が起きてしまい、集落も戦火に巻き込まれてしまったそうだ。

最終的に戦いは北条氏の勝利に終わり、破れた豪族は降伏してその傘下に加わった。だが、下迦楼羅と呼ばれていた集落は住民のほとんどが虐殺された上、回復するまで相当の年月が必要なほどに住居や田畑まで破壊されたので人が住めるような土地ではなくなっていたらしい。それに拍車をかけるように集落があった周辺では「夜になると、戦いの犠牲になった人々の亡霊が集団で彷徨っているらしい」という噂が流れてしまい、北条氏も縁起が悪いとして新たに開墾するのを諦めたという。それ以降、この地は忌地と呼ばれるようになったそうだ。

現在、ここに停留所が存在する理由としては集落跡に供養塔と霊を弔うために建立された寺にあるという。それは戦いを生き延びた者の子孫が先祖たちを供養するためにこの地を訪れるので大正時代に停留所が設けられたそうだ。そうした経緯からこの地と何の関係もない者が訪れることはないという。

バスから降りてみると、辺りは小さな山々を背景に殺風景な草地が広がっている。他にはなにもない。運転手は「こんな辺鄙な場所に何の用があるのだ?」と言わんばかりに不思議そうな顔でこちらに何度か視線を送った後、すぐにバスに乗り込んで発車した。走り去るバスの姿が遠ざかっていった。運転手が見せた反応も当然と言えば当然であった。

「例のはぐれ鳥居はどこにあるんですか?」と、俺は琉惺さんにこれから向かう場所について尋ねた。

「まずは下迦楼羅の集落跡を目指すとしよか。はぐれ鳥居はその跡地の鬼門の位置にあるんや」

「えっ、そんな不吉な場所に行って大丈夫ですか?悪いものに襲われるとか」

「なあに心配あらへんよ。ちゃんと寺院によって供養されているなら問題はない。ただ‥‥」

琉惺さんは笑顔で不安げな俺を諭しながらも「ただ、妖神街に向かう上での注意点がある」と言った。

「まず、聖歌も言っていたように通行手形は絶対に失くしたらあかんよ」

「それは理解していますけど、この通行手形は一つしかありませんが二人で行けるんですか?」

「良い質問やね」

琉惺さんはまるで講義中の教師のように言った。

「妖神街を行き交う行商人は二人組で行動するんや。だから君が首にかけている通行手形一つあれば問題はない」

「そういうもんですか」

「そうやで。それから妖神街を入ってからの注意点は骨董屋に入るまで仮面を外さへんことや」

「仮面?そんなもの持ってきてないです」

「わてがちゃんと持ってきたから安心してや」

「なるほど。だけど、何で仮面なんて必要なんですか?」

「それは我々の身を守るためや」

「妖怪や妖人からという意味ですか?」

「そうや。彼らの中には行商人を襲う連中もおるからな。この仮面をつけることで妖怪の仲間だと思わせることができるんや。骨董屋の店主は味方の妖人だから心配ないんやけど」

「要するに妖怪に変装して潜入するわけですね」

「せやな。あと、二つ目の注意点やけど、骨董屋に辿り着くまでは一言も発してはあかんよ」

「分かりました」

「ほな、はぐれ鳥居を目指そうか」

琉惺さんは切れ長の目を細めてニッコリと微笑んだ。

俺は琉惺さんに導かれて集落跡地を目指して動き出した。

森に位置する停留所から集落跡がある草地の方に向かっていく。枯れ葉を踏み鳴らしながら先へと突き進んでいった。

草地を五メートルほど移動したところに『慰霊塔』と刻まれた石塔が空に向かってそそり立っていた。慰霊塔から見て東側に寺院が建っていた。

慰霊塔から北東の方角、つまりは鬼門にはぐれ鳥居がそびえていた。だが、一般的な鳥居のイメージとは異なっていた。七メートルぐらいの高さがある太い石柱が二本だけ地中から突き出し、軽自動車が通れるぐらいの幅を空けて並んでいた。二つの石柱は互いに注連縄でしっかりと結んであった。注連縄はちょうど琉惺さんの頭上をかすめる位置にある。

俺は琉惺さんと一緒に慰霊塔から動き出し、はぐれ鳥居の前で立ち止まった。

琉惺さんはおもむろにはぐれ鳥居を見上げた。

「さあ、心の準備はええか? ここからは会話できへんけど、今のうちに訊いておきたいことがあったら言うてな」

「そうですね‥‥妖神街まで続いている道は危険ですか?」

「まあ、完全に安全とは言い難いな。だけど、わてのあとを付いてくれば大丈夫や。これでも自分は何度も聖歌と妖神街に通っているんや。さあ、これが君の仮面や」

琉惺さんはそう言うと、木彫りの仮面を取り出した。仮面は顔全体を覆いつくせるほどの大きさがあった。

俺の仮面は鳥の頭部を模したものだった。琉惺さんのは狐の顔を模した仮面。

すでに仮面をつけていた彼は俺の顔にも仮面を取り付けると、そのまま先導するようにはぐれ鳥居をくぐっていった。俺もそのあとをついていく。

はぐれ鳥居を通過した瞬間、一時的に意識が飛んでしまった。

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意識が戻った時、俺たちは真っ暗な空間にいた。

目の前にいた琉惺さんは陰陽師の式神術で蒼白い人魂を呼び出し、そいつを空間に浮遊させた。そして、人魂を先行させることで足元の照明代わりとして利用した。ゆっくりとしているのでまず見失うことはない。足元をよく見るときれいに舗装された石畳が一直線に続いていることを知った。

俺は自分の目の前を歩ている琉惺さんの背中を追いかける。辺りはどこまでも漆黒の闇ばかり。あるのは一本道しかなかった。

時折、不可解な現象が起きた。気味が悪いほどの生温い風が横から吹いてきたり、どこからか人間の集団の呻き声のようなものが聞こえたりもした。それぐらいで終われば良かったのだが怪異は道を進んでいくごとにエスカレートしていった。気づいた時には目の前を横切っていく亡霊や化け物共の姿を視認できるようになっていたのである。

甲冑を身に着けた骸骨の一団。色鮮やかな十二単衣を身にまとった首のない女たち。野菜や獣の顔をした人型の妖怪。ありとあらゆる異形たちが道を横切って闇に消えていった。

俺はあまりの驚きに何度も声を上げそうになったが、必死に堪えて先を進んだ。奴らが何もしてこなかったということは仮面の効果を信じるに十分足りる証拠だった。

それからどれぐらい時間が経ったのかは覚えていないが、気が付いた時には白い霧の中にいた。闇は消え去っていたが道はなおも続いていた。俺は眼前にある琉惺さんの背中を必死に追いかけた。

次第に霧が晴れていき、荒涼とした風景が露わになった。厚い雲によって太陽の光が遮られた灰色の空。大地は血のように赤く染まり、草木は一本も生えてはいない。動物の痕跡も存在しない死の世界が広がっていた。

異界の光景に圧倒されながらも先を進んでいくと、道の両側に石灯籠が出現し始めた。延々と建ち並んでいる灯篭には緑色の火が灯されていた。その石灯籠の一群を越えた先に巨大な赤い城壁がそびえていた。万里の長城を思わせるほどの迫力がある。街への入り口である大門は鋼鉄で造られており、不気味に黒光りする鉄の門扉の高さは10メートル。幅は旅客機が通過できるほどの広大なもの。

扁額には大きな文字で『妖神街』とあった。

門前には守衛らしき二人の男が武装した姿で立っていた。いずれも2メートルは優に超えるだろう長身で筋骨たくましい体格。髪型は長髪。黒い髪を後ろで束ねていた。服装は紺色の紋付袴。腰には脇差し。手には柄に蛇の装飾が彫られた槍を持つ。

彼らの外見はほぼ人間に近かった。だが、額から一本の角が前方に向かって生えており、肌の青白さも異常で普通の人間ではないことは明らかだ。

俺たちが門に近づいた瞬間、門番たちがこちらに向かって槍を構えた。そして、芝居がかった口調で口上を述べる。

「我らは門番の夜行と申す者。ここを通りたくば、通行手形を提示されよ!」

「‥‥」

俺は槍の穂先を突き付けられたことに恐怖を抱いた。だが、琉惺さんに肩を叩かれたことで正気を取り戻し、首からかけていた通行手形を男たちに見せた。

男たちは通行手形を確認できたことに納得して頷くと、警戒を解いて大声で叫んだ。

「開門!」

その声に応じるように門が轟音とともに開かれた。

俺はこうして妖神街への第一歩を踏むことになったのである。

城壁内の領域は思っていたよりも広大なものだった。街はよく整備されており、住宅や商業地区など目的別に分けられていた。碁盤の目のように区画された街並みは唐代の長安、平安期の京都を彷彿とさせた。

俺たちは妖神街の南に位置する城門を越えた後、街を東西に分断するように真っ直ぐ北へ向かって伸びている大通りを歩き出した。大通りといっても現代風の舗装ではなかったが、御影石がつややかに光る石畳が見通す限り続き、俺の電動車椅子のゴムタイヤが時々滑る感じは受けたが、おおむね快適に進むことができた。後から気づいたが大通りから外れる支路にまで御影石のが敷き並べられており、レベルの高い街だという印象を受けた。

大通りに面して延々と並んでいる建物の建築様式はごちゃごちゃとしていた。民家は中国の王朝時代風のものもあれば、江戸時代の下町長屋のようなものまである。ただ、どの家も共通して軒下に灯篭が吊るしてあった。薄暗い曇天の下、無数の煌々と光る灯かりはどこか幻想的であり、不気味でもあった。

建物はユニークだが街中を行き交う住民たちもなかなかに個性的だった。和装の姿で人のように二足歩行しているタヌキやキツネなどの獣たち。大きな葛籠を背負ったのっぺらぼうの行商人。河童とムジナの飛脚。侍の姿をした鬼や天狗。一つ目の和尚と付き人の豆腐小僧。空中を飛び交う人魂や生首の化け物。百鬼夜行が日常的に混雑しているこの街は確かに異界──妖神街と呼ぶにふさわしい場所だ。

俺たちは骨董屋を目指して大通りから東の商業地区へと続く支路に移動した。

東の商業地区。そこは新宿歌舞伎町と横浜中華街を合わせたような繫華街といった印象。どこから電力を引っぱってきているのかは不明だが、ネオンの看板は色鮮やかに街を照らしていた。現代の日本の雰囲気を漂わせている。だが、妓楼とおぼしき中華風の巨大な楼閣がそびえていたりもするのでわけがわからない。両端がせり上がった妓楼の大屋根は黄金に輝く鳳凰の彫刻で飾り立てられ、朱色に染まった柱や壁にもところどころ金で装飾されていた。五階建ての楼閣ではあったが他に高い建物が無いために一際目立っていた。

その妓楼を中心に風俗店が幾つも軒を並べていた。たまたま通りかかった店先には人間の美女に化けた妖婦たちが通行人に媚びた笑顔と嬌声を投げかける。それを眺めていたせいでこちらにも話しかけてきた。

「あら、そこの魅力的なお兄さんたち。ワタシと遊んでいかない? 安くしとくわよ」

俺はつい気になって返事をしそうになった。だが、声を出そうとした寸前で琉惺さんに肩を叩かれ、声を出してはいけないことを思いだす。頭では妖怪だと理解していても妙に魅惑的に感じさせる力が働いたのかもしれない。おそるべき妖神街。娼婦とて油断ならない。

俺たちは妖婦たちから逃げるように先を急いだ。

人混みをかきわけて路地裏へ続く小道に入った。路地裏に入った時、辺りはだいぶ暗くなっていた。

闇が濃くなると同時に道沿いに点在するガス灯の火が点いた。路地裏は明治時代のように和風と洋風の建物が混在していた。この街は場所によってまったく異なっている。まるでいろんな土地や時代が合わさって都市を形成しているようだった。住民のほとんどが現実世界のいたる場所から移住してきたことを考えれば、街に統一性がないのは仕方がないのかもしれない。

そんなことを考えながら道を進んでいると突然、琉惺さんが立ち止まった。彼が立っている先は突き当りであり、そこには一軒のこじんまりとした洋風の店がひっそりと佇んでいた。

屋根の色は赤。壁は黒。軒下に吊るされた木製の看板には漢字で「骨董屋 悪羅」と書かれていた。

琉惺さんは辺りに通行者がいないことを確認して仮面を外した後、ようやく口を開いた

「さあ。ここが例の骨董屋や」

「やっと着きましたね」

「長い道のりやったやろ?」

「そうですね。何年も旅をしてきたような気分ですよ」

「さあ。店の中へ入ろうか」と琉惺さんはそっとドアノブを掴んだ。

ドアが引き開けられた瞬間、店内から耳をつんざくほどの大音量でヘヴィメタル調のBGMが流れてきた。俺は鼓膜が破れるのではないかと心配しながらも琉惺さんと一緒に店内へ入った。

店内の照明は蛍光色ばかりで目がくらみそうだった。内装の色まで赤と黒を基調としているせいで気持ちも落ち着かない。

店の商品棚には奇妙な物が陳列されていた。

底から呻き声が聞こえてくる壺。

生きた人間のようにまばたきする西洋人形。

緑色の液体で満たされたガラス瓶に保存された胎児。

煙を噴き出している錆びついた洋風のランプ。

血濡れた腕が飛び出している玉手箱。

どれも不気味で因縁めいていそうな一品ばかりだった。幾つもの商品棚が整然と並んでいる一画を通り過ぎた先にはカウンターがあった。店主らしき女が椅子に座り、カウンターテーブルの上に置かれたノートパソコンをいじっていた。

女は三十代前半ぐらいに見えた。体型は細身だがそれなりに身長もありそうだった。

髪の色は暗い赤。長い髪に櫛を差して花魁風に束ねていた。

唇や耳にピアスが反射して光る。

端正な顔立ちに鼻筋がすっと通った美人だ。だが、アイシャドウと口紅がラメ入りの紫色であるため、けばけばしい印象が強かった。

蜘蛛の姿が刺繡された赤を基調とした着物を羽織っている。裸に着物を無造作に羽織っているので胸元が露わになっているが本人は気にしていない様子だった。

女は俺たちに気づいてノートパソコンを閉じた後、まずは琉惺さんの方に視線を向けてきた。

「あんたは聖歌の兄貴じゃないか。相変わらずいい男だねえ。襲ってしまいたいよ」

女は口紅をさした唇の両端を吊り上げ、わずかに白い歯を見せながら琉惺さんに微笑んだ。赤い舌がのぞいて、そこにもピアスをしているのがうかがえた。

「あんたに犯されるぐらいなら死んだ方がましや。こちらにも女性の好みというものがありますわ」と琉惺さんは笑顔ながらも毒舌で受け流した。

「相変わらずノリが悪いねえ」

「押しの強すぎる女性は嫌われますで。そんなことより今日は後輩を連れてきましたわ」

「おや、そちらのお連れさんが新入りかい」

女は見慣れない俺の顔に興味を持ったらしく、今度はこちらへ視線を移してニッコリと微笑んだ。

「さあ。稲生君。ご挨拶しなはれ」

「はい。あっ、あのう‥‥はじめまして。俺は最近、土御門聖歌さんの事務所で働かせて頂いている稲生正芳です」

俺は緊張気味に自己紹介した。すると、女は緊張したこちらの様子がよほど可笑しかったのかケラケラと声を立てて笑った。

「ふふっ、アンタが噂の稲生君か?」

「はい。そうですけど‥‥噂って、俺のことを知っているんですか?」

「あの女狐から色々と話は聞いてるよ。何だか難儀な人生なんだってね」

「まあ、そうですね」

俺は女の詮索するような言葉を受け流し、

「ところで女狐って聖歌さんのことですか?」

「そうだよ。あいつは犬嫌いだし、いなり寿司が好きだろ。まるでお稲荷様じゃないか。だから女狐って呼んでる。ちなみに」と女は話を中断するとおもむろに懐から煙管を取り出した。そうして火をつけると、煙をくゆらせ始めた。少し間が空いた後、女は思いだしたように会話を再開した。煙がゆらゆらと天井に立ち上っていく。

「ちなみにアタイの名前はアラクネ。骨董屋の店主をしているもんだよ。妖怪土蜘蛛と人間の混血だからね、女狐には蜘蛛女って呼ばれてる」

「聖歌さんと付き合いは長いんですか?」

「まあ、腐れ縁って感じだね。時々、魔導骨董絡みの事件がある時は相談を受けているのさ」

「魔導骨董? 何ですかそれは」

琉惺さんは助け舟を出すことなく、俺のことを見守るように無言で微笑んでいた。

「何だい、そんなことも習ってないのか。魔導骨董ってのはね、恐ろしき力を宿している骨董品のことさ。簡単に言うと‥‥タチの悪い付喪神ってところかね」

「付喪神って、物に持ち主の思念が長年にわたって宿ることで生まれる怪異ですよね?」

「その考えでだいだいあってるよ。だけどね、付喪神って呼ばれるぐらいだから大抵は悪さなんてしない奴らさ。どちらかと言えば幸福を招いたりする存在でもある。ところがこの魔導骨董の場合は持ち主を惑わし、悪しき道に陥れて破滅させてしまう」

「その悪しき道っていうのは?」

「人間界でいう犯罪だったり、非道徳的な行動かね。殺人、窃盗、詐欺、裏切り、強欲、強姦、暴力。数えたらきりがない。どんな邪な欲望も叶えてはくれるんだが、最終的に持ち主本人や身の回りの者、あるいは社会全体に害をなす。ゆえに魔道に導く悪しき骨董品と呼ばれている。まあ、アタイはそういうヤバイ商品をあつかっているんだけどね」アラクネは得意げにニヤリと笑った。

「そんな危険なもの大丈夫なんですか?」

「安心しな。人間に売ったりはしないよ。アタイのお客は神・妖怪・妖人たちさ。この三者は呪いに耐性を持っているから一方的に魔導骨董の力を利用できるのさ」

「ということは人間は呪いに耐性を持っていないということですか?」

「そうだね。どんな人間も基本的に耐性をもっていない。不幸にもそんな人間たちの手に魔導骨董が渡ることがある。アンタが相談しに来た件もこの魔導骨董と関係があるんだよ」

「えっ、どうしてそのことを?」

「女狐から電話でおおむねは教えてもらったのさ。アイツも過保護だねぇ。さあ、持ってきた写真を出しな」

俺は依頼人からメールで添付してもらった掛け軸の画像をスマホで開いてアラクネに手渡した。

アラクネはスマホを受け取ると食い入るように液晶画面を見つめる。

「なるほど‥‥これは厄介だね」

「相当に危険な代物ですか?」

「そうだね。何しろこの絵には邪悪な妖怪が封印されているから。しかも封印の力が弱まっている」

「妖怪ってどんな?」

「中国は宋の時代に悪名高い妖怪がいたのさ。ただし正確な名前は不明だが俗に画皮と呼ばれている。山で遭難した人間の魂と肉食獣の死骸が融合して具現化した怪異とされている。昼間は襲った人間の皮を被ることで本人になりすまして街に紛れ込む。夜になると人間を惑わして捕食するという狡猾な奴さ。ところが官吏を殺したことで目立ってしまい、道士に封印されてしまったんだがね」

「絵に封印なんてできるんですか?」

「まあ、それなりの技術は必要だが可能ではある。転魂模写という相手の魂を書画などに封じる道士の術だよ」

「封印されているのにどうして今回の事件は起こってしまったんですかね?」

「恐らく封印に使った掛け軸本体が劣化してきたんだろうね。何しろこの術は敵を完全に抹殺するものじゃないし、封じた人間が子孫に語り継いで慎重に管理するものなんだよ。ところがこの道士は一代限りで稼業が終わっちまったらしい。きっと、あとに残された掛け軸を誰かが普通の骨董品と勘違いして売りに出しちまったんだろうね」

「そんないい加減で良いんでしょうか?」

「まあ、専門家としては最低だろうさ。でも、祓い屋なんてほとんどは守銭奴だからね。金をもらえばあとは知らないって奴も結構いるもんだよ。途方もなく長い年月に渡って管理されなかったせいでこの掛け軸は封印が破れ、覚醒した妖怪の魂が持ち主本人を誘惑して生気を吸い取り、自分の姿を実体化しようと目論んでいるのかもしれないね」

「なるほど。だから依頼人のご主人はおかしくなっているのか。それで対処法は?」

「燃やすしかないね。アタイの予想では今晩を過ぎれば実体化は完成するだろう。でも普通に火をつけてもその掛け軸が燃えるだけだし、そういう状態だと画皮の魂は宙に逃げちまう。だから、逃がさずに仕留めるにはまず、これを掛け軸にかけてから火をつけな」

そう言うとアラクネはあらわになった胸をまさぐるように懐からガラス製の小瓶を取り出した。瓶の中には緑色の不気味な液体が入っている。

「アドバイスありがとうございます。じゃあそれを……」

俺が受け取ろうとすると、アラクネが急に意地の悪い笑みを浮かべた。

「ちょっと待ちな。この瓶のお代は?」

「え?お金を取るんですか?」

「当り前じゃないか。これは商品だよ。相談に関しては後日女狐からたっぷりいただいてやるつもりだけど、こっちは別料金さね」

「そんなの聞いてないですよ。それに今、持ち合わせもないんですけど」

「そういうことだろうとは思ったよ。お代の代わりに、週イチで一人でここに顔を出しなさい。たっぷり可愛がってあげるから」

アラクネが舌のピアスを唾で絡めながら言い放った。

「あんた、さすがに週イチは地獄やで。ここは地獄みたいなところやけど。ここはせめて月イチで勘弁してもらえへんやろうか?」

俺が言葉につまっていると、琉惺さんが今度は助け舟を出してくれた。アラクネは渋々といった様子だったが、月イチでも満足したようで、小瓶を受け渡してくれた。

「あと手を出したらあかんで?聖歌が知ったらタダじゃ済まへんと思うけどなぁ」と琉惺さんは帰りがけに店のドアを開けたところで振り返り、アラクネに楽し気に言い放った。

「おととい来やがれ!」

アラクネからそんな罵声を浴びせられたような気はしたが俺はそそくさと外に出ていたし、それを見るや琉惺さんが素早くドアを閉めたので、あくまでそんな気がしただけだった。

俺たちが事務所に戻ったのは夜の九時過ぎだった。

事務所を出発したのは二時だったから七時間近くも外出したことになる。とても市内を移動したとは思えない時間だ。自分の体感的には一、二時間程度の時間としか感じなかったが妖神街と現実世界の間には時差があるらしい。琉惺さんによれば、妖神街では時間がゆっくりと流れているために外界と大きな時差が生じてしまうのだそうだ。聖歌さんは近くのお使いに行かせるような口ぶりだったが実際は危険に満ちた冒険だった。いつもは鬱陶しいとしか思えない事務所周辺の繁華街の雑踏ですら心地よく感じられた。どうにか人間の世界に帰ってこられたことに安堵したのかもしれない。

事務所の中に入ると聖歌さんがソファーの上で横になってくつろいでいた。テーブルの上には掛け軸を納めた桐箱が蓋を外した状態で置かれていた。

「おかえり。こっちは掛け軸を回収してきたわ。それよりも稲生君、妖神街の旅はどうだった?」

聖歌さんは俺の顔を見るなり楽し気に笑みを浮かべた。

「冗談じゃないですよ。アレはお使いっていうか苦行ですよ」

「でしょうね。何でも修行と思って頑張りなさい。それよりもあの蜘蛛女から情報は得られたの?」

「まあ、変な人だったけど、しっかりと教えてくれましたよ」

俺はため息交じりに掛け軸の美人画に封印されている正体について話した上で解決策を伝えた。

「なるほど。画皮が正体だったのね。燃やすのに必要な物はしっかり持ってきた?」

「もちろんですよ。琉惺さん、聖歌さんにアレを渡してください」と隣に立っていた琉惺さんに言った。

「ああ、アレやな。しっかり持ってるで」

琉惺さんはポケットから小瓶を取り出して聖歌さんに手渡した。

聖歌さんはソファーの上で起き上がり、受け取った小瓶をまじまじと眺めた。

「ふーん。蜘蛛女にしては良いものを持ってるじゃない」と、聖歌さんは不敵にほほ笑んだ。

「それは何なんです?」

「これはね。西洋の錬金術師が作った対魔物用の燃焼オイルよ。このオイルなら燃やせるわ。ただ

…」

「どうかしましたか?」

「これは威力があるけど、扱いをミスすると辺りが火の海になってしまうのよね。ここで処分をするのは難しいわ。場所を考えないと」

聖歌さんは少し困った表情を浮かべながら考え込んだ。それからしばらく静寂が室内を支配した。数分後に俺が何かいい手段は思いついたのかと尋ねた瞬間、聖歌さんは妙案を思ついたらしく「あっ!」と声を上げた。

「あの場所が良いわ」

「どこです?」

「実は数週間前、とある廃墟に巣くっている悪霊を祓ってほしいという依頼があったのよ。もう悪霊は祓ってあるんだけどね。廃墟を管理していた地主さんの話だと、あと三日後に取り壊すって言っていたわ。だからそこで掛け軸の絵を始末するとしましょう」聖歌さんはそう言うとソファーから降りて立ち上がった。

「ちょい、待ちいな」とさっきまで黙っていた琉惺さんが動き出そうとする聖歌さんを制止する。

「まさか、許可なしにやるつもりやないやろな?」

「別に。何も話してないけど」

「それはあかんやろ」

「ダメなの?」

聖歌さんは何が問題なのか分からないと言わんばかりに不思議そうな顔をした。俺と琉惺さんは聖歌さんのどこか常識から逸脱している感性に啞然としてしまい、互いに顔を見合わせてため息をついた。ただ、急いで始末する必要がなるのも事実ではあるし、彼女の指示に従うしかない。

「ほな、今回は聖歌に任せるとしよか」

「そうですね。妖怪に復活されても困るし。まあ、マズイことになったら聖歌さんの責任ですからね」

「何よ、二人とも心配しちゃって。どうせ壊す場所なんだから大丈夫よ。近隣に被害が出ないように配慮するから安心して」

俺と琉惺さんは不測の事態に対する全責任を彼女に取ってもらうことで納得した。

こうして三人で廃墟へ向かうことになったのである。

深夜一時過ぎ。俺たちは廃工場にたどり着いた。

巨大な廃墟は闇の中でひっそりと佇んでいた。トタン屋根はいたるところに穴が開いており、コンクリートの外壁にも経年劣化によって生じた亀裂が走っていた。また、壁面の窓ガラスが破損している為、屋内に向かって冬の凍てつく風が唸り声を上げながら吹き込んでいる。

“立ち入り禁止”の看板が掲げられた入り口のゲートはチェーンと南京錠でしっかりと施錠してあった。そこを聖歌さんがどこから持ってきたのかも分からないチェーンクリッパーでチェーンを切断していく。巫女の装束に大きな工具は不釣り合いでどこか滑稽なものがあった。

俺は犯罪者の仲間になったような気分だった。完全に不法侵入である。もし、誰かに見られたらどうしようかという想いがいっぱいで心中、穏やかではなかった。

こちらの不安をよそにチェーン自体が錆びついていたせいか数分で廃墟の中に入れる状態になった。

俺たちは廃墟の中へと入っていった。

すでに工場の機械類は外に運び出されているらしく、屋内にはがらんとした空間が広がっていた。足音や車椅子のモーター音が反響するぐらい何もない。あるのは剥き出しになった鉄骨の柱だけだった。

どこからか漂ってくるのか分からなかったが時折、わずかにガソリンのような臭いが鼻腔を刺激した。機械類のメンテナンスに使用する潤滑油の臭いかもしれない。

聖歌さんと琉惺さんは廃墟の中で転がっていたドラム缶を発見すると、これを使って例の掛け軸を処分することに決めた。

琉惺さんはドラム缶を立てると、それが転がっていかないように同じく敷地内で見つけたコンクリート製のブロックを地面に置いて重石代わりにした。理由はアラクネがくれた燃料オイルはよく燃えるらしく、もしもそれがドラム缶ごと強風で吹き飛ばされて、割れた窓から外へ飛び出したらどこに引火するか分からないためだった。

辺り一帯が火の海になれば不法侵入以上の重罪である。扱いには充分に注意が必要だった。

聖歌さんは持ってきた掛け軸を無造作にドラム缶の中へと投げ込んだ後、その上から小瓶のオイルを全部ぶちまけて火を放った。

着火した瞬間、轟音とともに紫色の火柱が凄まじい勢いで天上まで立ちのぼった。掛け軸が燃え上がると同時に人間の悲鳴が屋内に響き渡る。

「ぎやあああああああああああああああああああああああ!!」

それは女の断末魔のような声だったが次第におぞましい獣の咆哮へと変貌していった。地獄から沸き起こってきたような重低音であり、さまざまな動物のものが混ざった身の毛がよだつ不気味な鳴き声。

聖歌さんは動揺もせずに祝詞を唱えながら、白木の棒で作った祓串を一心不乱に振り続けた。次第に火柱の高さが低くなっていく。それとともに紫だった炎の色がまぶしいオレンジに変わり、普段目にする炎の熾火のようにドラム缶のさびた穴から火の勢いそのものが押し込められていくように思えた。このまま祓いきれるのかと安堵した。そのまま火は小さくなり、最後の輝きが凝集され、そして終わる……。と、その直後異変は起こった。

爆炎。轟音。衝撃波。すべてが一瞬で起こり、ドラム缶が跡形もなく弾け飛び散り、俺の前に琉惺さんが立ちふさがり、手を振り払ったかと思うと鉄片が宙に飛び、ナイフと一緒に近くの地面に突き刺さった。琉惺さんは手に投げナイフを持っていた。どうやらこちらに破片を数本のナイフで撃ち落としてくれたようだ。俺が琉惺さんに感謝しようと口を開きかけた時、目の前に大きな黒い影が降ってきた。

地面に降り立ったのは頭がイタチ、胴体が剛毛に覆われた大猿という姿の妖魔だった。全身の獣毛は焼け焦げていたが強靭な筋肉が発達した巨体からは凄まじい殺気が漂っており、そこに奴が存在しているだけで充分に脅威を感じられた。

妖魔は祝詞を唱え続けている聖歌さんに襲いかかろうと地面を蹴って跳躍した。だが、聖歌さんの祝詞を唱える声量が上がった瞬間、妖魔の体は鈍い音と一緒に地面へと落下した。まるで上空から巨人の腕が現れ、跳躍してきた妖魔を叩き落したようだった。

妖魔は必死に起き上がろうとするがうまくいかず、何度も地面に倒れ込んだ。

奴は口からよだれを垂らしながら歯茎を剥きだして悔しそう咆哮した後、人間の腕のように発達した前足で自分の首を脊髄ごと引き抜いてしまった。辺りに生臭い体液が飛び散った。胴体は崩れ落ちて青い炎に包まれたが、首だけとなった妖魔は血をぼたぼたと垂らし、脊髄を尾のように揺らしながら空中に飛び上がった。

首だけでも幅二メートルはあった。妖魔の生首は獰猛さを感じさせる鋭利な牙を剥き出し、血走った赤い目玉を光らせて飛び回っていた。生首は空中を浮遊しつつ、誰に喰いかかろうかと目玉をぎょろぎょろと動かしていた。

「正芳君、相手の目を見てはだめよ!」

聖歌さんが祝詞を中断し、必死に警告してくれたがすでに遅かった。

気づいた時には強い金縛りが全身に走っていた。指先も動かせない状態に陥っていた。

奴は空中で一度だけ制止した後、こちらに向かって凄まじい速度で下降してきた。大きな口を開け、今にも鋭い牙で喉元に喰いつこうかという勢いだった。

もうダメだと諦めて瞼を閉じようとした時、自分の体全体が青い光に包まれた。妖魔の生首は巨大な障壁に弾き返されたかのように天井へと吹き飛んでいった。神御呂司村の時と同様にまた俺は救われたのかもしれない。

聖歌さんはこちらの無事を確認して安心したのか、再び祝詞を唱え始めた。

生首は予想していなかった抵抗に動揺したもののあきらめず、俺を狙ってさっきよりも早い速度で飛びかかってきた。

だが、生首が俺に触れようした瞬間、琉惺さんがしなやかに長い腕を伸ばすと、懐から取り出したナイフを獣の額に目がけて投げた。ナイフは空気を切り裂きながら一直線に飛んでいき、見事に獣の額に突き刺さる。

「グウォオオオオオオオオオオオオオ―ン!」

妖魔の生首は間の抜けた悲鳴を上げた後、地上へと落下していった。炎は消滅し、獣の頭部だったものは灰と化して地面に四散した。

「今のナイフは一体?」と、俺はふと琉惺さんに訊いた。

「ああ、あのナイフには特別な刻印が刻まれてあるんや」

「刻印?」

「そうや。破邪の刻印ゆうてな、怪異を打ち払う効果があるんやで」と琉惺さんは得意げにほほ笑んだ。

俺が彼の妙技に感心していると、聖歌さんが呆れた顔をしながら間に割り込んできた。

「兄さん。自慢話はその辺にしてもらえる? 私が祝詞を上げていなかったら皆、食い殺されていたんだからね。正芳君も感心してないでもう帰るわよ。仕事はおしまい」

俺は怪奇探偵舎の一員としては初の仕事をどうにか無事に立ち会うことができた。

こうして一人の犠牲も出さずに事件は解決した……と言いたいところだがあまり後味の良い結末ではなかった。

三日後、事務所に訃報が入った。依頼人の美佐子が電話で「実は主人が亡くなりまして……」と知らせてくれた。原因不明の突然死だったという。

聖歌さんは助けられなかったことを謝罪したが美佐子はできることは充分にしていただいたと感謝した上で後日、報酬はお支払いしますと約束してくれた。

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黄田美佐子が事務所に姿を見せたのはそれから一週間後のことだった。

俺は夫を亡くしたことで悲しみに暮れる美佐子の姿を思い浮かべていた。だが、彼女の様子は予想していたものとは大きく異なり、幸福感を漂わせて嬉々とした表情を浮かべていた。そればかりか前回は地味な印象だったが、この日は全身をブランドの服やバッグで身を固めていた。心なしか化粧も派手なものになっていた。とても夫と死別した人間とは思えない。

美佐子はソファーに座るなりトランクケースを開けてテーブルの上に置いた。中には現金で五百万円が入っていた。

彼女と向き合う形でソファーに座っていた聖歌さんもさすがに目を見開いて驚いた。

「今回の報酬は二百万円とお伝えしたと思うのですが……」

「ああ、別に良いんですのよ。感謝の気持ちと思って下されば」

「とは言ってもこんな大金、独り身となられたあなたにはかなりのご負担になるのでは?」

「心配はいりません。夫の死で多額の生命保険金が入ったものですから。それにこの度、私は資産家の男性と婚約しましたのよ。ですからこのぐらいの額をお支払いするのに苦労はありません」

「そうですか……他人の私が言うのもなんですがご主人を亡くされたばかりですよね? お気持ちの整理はついていらっしゃるのですか?」

「ええ。もちろんです。とは言っても主人が生きていた間は再婚なんて考えてもいませんでしたよ。だけど主人が死んだ瞬間、気づいてしまったんです」

「何をです?」

「ずっと前から主人のことを愛していなかったことにです。もっと言えば、あんなイカレタ男に抱かれるぐらいなら死んだほうがましよ。先に死んでくれてせいせいするわ。自分で手を汚す手間も省けたしね」と美佐子はそっと目を細め、赤い口紅をさした唇がほころんだ。

「そうですか。それならば有難く頂くとしましょう。ご依頼、ありがとうございました」

聖歌さんはあきれ果てているらしく、相手の顔を見ずに話を打ち切った。その声にはどこか冷ややかなものがあった。

「ええ、お金は幾らあっても困らないでしょ。ご自由にお使い下さい。私はこれで失礼します」

依頼の美佐子は満足げな顔で颯爽とした足取りで事務所を出て行った。

その傍らにじっと聞き耳を立てていた俺と琉惺さんはどちらともなく

「人間のなかにも妖怪がいるんですね」

「ウチのいる女のほうがおっかないけどな」

と見つめる方向にいた聖歌さんが憮然として二人を睨みつけながら

「何か言った?」

「いいえ何も言ってません」

俺と琉惺さんの息がぴったり合ったのだった。

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