短編2
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山のなか 完

羆がとった前傾姿勢には、それだけでもうすぐ襲ってくるという、圧迫感がありました。

こうなってはとてもじゃないが後ろ足で下がっていくことなどできず、

私たちはまんじりともせず羆と向き合っていました。

横の女性は震えながら泣いていました。気づけば私も泣いていました。

羆が飛びかかってきた瞬間、私の命が尽きる……

命を失うという恐怖の圧迫感に吐きそうになりながら、私は脳内で謝り続けました。

何に対してという訳ではなく、人はどうしようもなくなったとき、思わず許しを乞うてしまうようです。

(ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ……)

歪む視界の先で、羆の身体が膨れ上がるのを感じました。

―襲われるっ―

刹那、私の身体は、横にいる女性を羆の方へと全力で突き飛ばしていました。

なぜそんなことをしたのか、今でも判りませんし、覚えていません。

ただ覚えているのは私に突き飛ばされ、まるでスローモーションのように、

前方へつんのめる女性の姿と、そこへ躍りかかる羆の姿でした。

あの重傷の身体で、どうしてこんな声が出るのか?

それほどにけたたましい叫声が、森のなかに響き渡りました。

羆は先ほど女性がしたであろう反撃への復讐をするかのように、

女性の身体を片手で押さえ、もう片手と牙で女性の身体を分解していきます。

羆の一つ一つの行動で、辺りに血と肉片が飛び散り、女性の呻き声と血霧が広がります。

惨劇を目の当たりにし、私はなんてことをしてしまったんだと思う反面、

これで自分は助かるかもしれないとも思っていました。

その間も羆は女性の身体を旨そうに咀嚼し続けています。

腕、顔、乳房、腹、脚、内臓。

内臓を喰われ始めた辺りまでは、女性のか細い呻き声が聞こえていました。

ある程度を食べ終わると羆は、女性の身体をくわえ森の中へと引き返そうと、

女性の身体が羆にくわえたその時、すでに鼻も唇も右眼もない女性の顔がこちら側へ向き、

血が滲む、女性の左眼が私を睨んでいるように見えました。

羆が森の奥へと帰って行くと、あとには大量の血液と千切れた右腕、細かい肉片とズボンだったボロボロの布が残っていました。

そのあと私はどう下山したのか覚えていませんが、

下山後、羆に女性が襲われたことは猟友会に伝えましたが、私が女性を突き飛ばしたことは伝えませんでした。

以来、山歩きは止めました。

今でも女性の最後の眼が忘れられません。

怖い話投稿:ホラーテラー 秋さん  

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