長編13
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寮とリンスと私

お線香の匂いが漂う。

線香の本来の役割。

それを思い出すと、今でもぞっとする。

私は入学と同時に寮に入った。

入学と言っても予備校だから、正確には入校だ。

有名大学を受けるという名目で地方から上京。

正直、単に地方の大学に行きたくないという小さなプライドがあっただけ。

実際のところ難関を突破する努力や頭があるわけではない。

親はこんな私の邪な願いを額面通り受け取ってくれた。

何にせよ、寮とはいえ初めての一人暮らし。

私は一年後もしない内に再び来る受験という名の戦争を、しばしの間忘れることが出来た。

ドアのチャイムを鳴らす。

ご近所付き合いは気をつけても気をつけ過ぎることはない。

母から耳にタコが出来るほどそう言われて始まった生活。

部屋の片づけが終わり、次にすることはそうだと決めた。

隣の部屋の人、友達になってくれると良いけど。

「は~い」

中から出てきたのは目を背けたくなるほど露出の高い服を着た人だった。

一月前まで田舎の純情女子高生(笑)だった私には刺激が強すぎる。

「あ、あの! 昨日隣に越してきた者です。つまらない物ですがこれお近づきのシルシに!」

何とか練習してきた言葉を搾り出す。

「あは。新しい人? うふふ。ありがとう。クッキーかな?」

「はい。私が作ったものです。お口に合うかどうか分かりませんけど――」

「ありがとうね。あ、じゃあ丁度いいからお茶しようよ、入って入って」

その人の強引さに負けて私は部屋の中に入った。

どうしよう。

まだもう一部屋の隣に挨拶すんでいないのに。

お互いの情報交換とそれに関連する雑談。

比率に直すと、1:9くらいだろうか。

もちろん9が雑談だ。

初顔合わせで何故かリンスとコンディショナーの違いについて詳しく説明してくれた。

私の髪にけちをつけているのではないかと疑った。

しかしながら、いや、恥ずかしながらと言うべきだけど、私はそのときまでリンスとコンディショナーの違いを知らなかった。

彼女の第一印象はエロ下着とリンスの話だ。

流石にエロ下着という名称は避けたいのでリンスと彼女を呼ぶことにする。

今年で二浪目だという。

これから聞くにはあまり幸先のよろしい話じゃない。

「あ、もうこんな時間。ねえご飯食べに行こうよ」

何時間も話し込み、私たちは友達となった。

……勉強の話はほとんど出ていない。

彼女が二度も浪人する理由を垣間見た。

意外にも初めてのお酒は美味しかった。

年齢を考えるのはこの際忘れて欲しい。

彼女と共に行動すると、大人の階段を上っているはずなのだが、何故か人生の階段を下っている気がするのは気のせいであって欲しい。

ドタドタいう音で目が覚める。

またリンスちゃんがダンスの練習をしているのだろう。

最近毎日のように、彼女はダンスの話をする。

やるならせめてそういう教室に通って欲しい。

だが披露するのは私が行くのを頑なに拒む「クラブ」らしい。

「ラ」にアクセントを付けて発音する場所だ。

ダンスだけが目的じゃないことも言っておく、念のため。

ああ、頭が痛い。

二日酔いにシジミ汁が効くということも学んでしまったダメ浪人生の姿がそこにあった。

彼女と知り合ってから既に三ヶ月以上もの日にちが経っていた。

今ではお互いの部屋を行き交う事にほとんど躊躇がない。

リンスちゃんは見た目の通り、男をとっかえひっかえだった。

夜中に甲高い声が聞こえた時の気まずさを言い表すことは難しい。

強調しよう。

ここは女子寮。

一体どうやって男が入り込んでくるのか。

そんな疑問を持つことすら忘れる。

「男ってホント単純だよ」

ケラケラ笑いながら話すリンスちゃん。

どちらが遊ばれているのかを議論するつもりはない。

私はどっちもどっちだと思う。

汚らわしいと思うほど純情ではない。

清いと思うほど達観しているわけでもない。

男の人は怖いという田舎の常識を根底から覆す都会の常識。

金持ちはヘンタイが多い。

真面目そうな人ほどヘンタイが多い。

チャラチャラしている男はヘンタイが多い。

ほとんどの男はヘンタイだ。

することをすれば男はみんな紳士になるか冷たくなる。

ほとんどの男は冷たくなる。

全て彼女の受け売りだ、ハズカシイことに。

予備校にも何とか慣れてきて、クラスの人や先生方も一通り覚えた。

そろそろ真夏になる季節のことだった。

夏期講習を何故別個請求するのか。

予備校生はお金がない。

親にお金の無心をすることの心苦しさを分かって欲しい。

「おはよお」

予備校に対する不信感を一人募らせていると、後ろから間の抜けた声を掛けられた。

昨晩も夜遅くまで大変だったね、という嫌味を限界まで堪えて挨拶を返す。

「おはよ。今日も暑いね」

「うん。ねえ最近ユウちゃんの隣の人見た?」

「私の隣? ああ、結局リンスちゃんのおかげで挨拶いけなかった人でしょ? うーん、そういえば見ないね」

「ひっど。私は最初の頃、ゴミ捨て場で会って、その時にちょっと挨拶したよ」

「抜け駆けかよぉ。浮気モノ」

「ゴメンごめん。じゃあ彼氏の家にでも泊まってるのかなあ?」

「え? お隣さん彼氏いたの?」

「何回か見たことあるよ。って言っても、寮の入り口でチチクリあってるの見た程度だけど」

「チチクリあうっていつの時代の人間だよ」

あはは、とお互い笑い合う。

彼女は楽しそうだが、私の心は複雑だ。

彼氏もち二人に挟まれた部屋の住人の私。

情けない。

夏の気温は私のお弁当を苛める。

蓋を開けると嫌な臭いが鼻につく。

やっぱり魚介類をメインにしたのは失敗だったかあ。

ああ、こんな日に限って夜まで授業があるんだよね。

「ねえ、何か臭くない?」

聞こえてるよ。

ごめんなさい、私のお弁当です。

明日はサンドイッチにするからこっち見ないでお願い。

帰り道、通行人の見る目が私を責めているように見える。

恥ずかしい気持ちになりながら寮に帰る。

部屋の中ではリンスちゃんが既に出来上がっていた。

「おかえり~」

「ただいま、今日は色々疲れたよ」

「おつかれさま。ねえ、何か臭わない?」

お前もか、ブルータス。

「ホントごめん。すぐに洗うから」

「え? この臭いユウちゃんのせいなの?」

「もう責めないで。お願い」

お弁当箱を真っ先に取り出し、中身を生ゴミ入れにいれて更に水で流す。

むせ返るような酷い臭いが部屋に充満する。

窓を開け、換気扇をつける。

虫が最も多くなるこの季節。

何匹か蛍光灯に誘われ迷い込むが、そんなことに構ってられない。

「くさいくさい!」

リンスちゃんは楽しそうだ。

私は泣きそうだ。

昔、父が酷く臭いと思っていた時期があった。

今、父の気持ちが痛いほど分かる。

お父さんごめんなさい。

私は人の痛みが分かる子になりました。

完全に臭いが取れたのを確認する。

あとはこの残り香がなくなるのを待てばいい。

お弁当一つでここまで酷い臭いがあるとは想像もしなかった。

次の日の朝になっても臭いはなくならなかった。

体中に臭いが染み付いている気がして、シャワーを浴びる。

「おはよお。まだちょっと臭うね。これはしばらく残るかも」

リンスちゃんは廊下で会うとそういってのけた。

当事者の気持ちも知らないくせに。

すっかり気が滅入っていた私は、夜になってもクサクサしていた。

出来るだけ自炊をするという当初のルールを破り、外食することにした。

リンスちゃんと一緒に近くのパスタ専門店で夕食を済ませる。

お箸で食べるということを売りにしたそのお店は繁盛していたようで、食べるまでに時間が掛かった。

帰りは夜遅くになった。

門限?

門限は破るためにある。

これもリンスちゃんの受け売りだ。

入り口のところに誰かが立っている。

真夜中に必要な警戒心が働く。

だけど、その人を確認すると意味もない警戒だと理解した。

ああ、お隣さんか。

「リンスちゃんお隣さんがいるよ」

「あ~、ホントだ。お~い!」

「やめて、今何時だと思ってるの?」

「ユウちゃんの方がうるさーい」

リンスちゃんの口を塞ぎ、お隣さんに会釈をして早々に立ち去る。

ワイン飲ませたばっかりに恥をかいた。

「…………でしょ」

お隣さんが何か言っていたが、それよりも近所迷惑なこの物体を早く部屋に押し込めたかった。

「ねえ、ユウちゃん。まだ何か臭う気がしない?」

そういえば、まだ臭いがする気がする。

もういい加減取れてもいいはずなのに。

臭いというのは不思議なものでしばらくすると慣れてしまう。

私が気付かないのもムリはない。

だけど、すれ違う人にそう思われていると思うとぞっとする。

その日、珍しくリンスちゃんと一緒に帰路についていた。

リンスちゃんの昼間の活動は謎だ。

志望校と学部が違うため、学校ではほとんど顔を合わさないが、学校に行っている気配も見られない。

「あ、お隣さんだよ」

リンスちゃんの指差す先には私の部屋のお隣さんがいた。

「こんばんは。もう学校終わったの?」

「…………」

無視。

ああ、確かにこの子の隣にいると遊んでいるように見えるかもね。

私の住んでいた田舎では「けばけばしい服装=遊んでいる=悪」という等式がまるで法律であるかのように蔓延していた。

でも無視は酷い。

会釈をして、私たちは横を通り過ぎた。

「…………るんでしょ」

また何か言っていたが聞き取るには距離が開きすぎていた。

ドンドン扉を叩く音がする。

リンスちゃんだ。

「ねえ、彼氏に嫌われたかも!? さっき私の部屋に来たら何か臭いって言われたんだけど」

あまりにも酷い。

あまりにも酷いが噴出してしまった。

どうだ、臭いといわれる気持ちが分かったか。

「笑い事じゃないよ! これだから男ってのは信用できないのよね!」

彼氏に悪いと思っているのか、それとも腹を立てているのか。

彼女の感情はカメレオンのようだ。

くるくるくるくる色が変わる。

換気のために窓を開ける。

最近やたらと虫が増えてきた。

暖かくなると、私の大嫌いな虫たちも元気になる。

だけどこの際、蚊でもコバエでも入ってきてくれて構わない。

下を見ると、お隣さんはまだ一人立っていた。

再び別の日の夜。

寮の前にまた誰かいる。

またお隣さんかと思ったが、どうやら男の人のようだ。

警戒のレベルを上げる。

管理人さんは何をやっているのか。

その人の横を通り過ぎようとすると、あのぉ、と声を掛けられた。

怖い。

リンスちゃんでも誰でも良いから助けて。

「あの、すみません。えっと、302号室のAってご存知ですか?」

「Aさんですか? あの、その――」

自分の自意識過剰さに顔が赤くなる。

痴漢と思ってしまったことをこの際謝りたい。

彼は私の部屋の隣人に用事があったのだ。

「えっと、俺、いや僕はAと付き合ってるんですけど。……付き合っていたんですけど」

話を遮るように、携帯が鳴る。

リンスちゃんからだ。

ごめんなさい、と断り通話状態にする。

お隣さんに用事がある男の人が来ているという事情を説明する。

リンスちゃんが三階の部屋から手を振りながら顔を出す。

「ねえ、声、響いてるよ。管理人さんにばれる前に部屋に上がってもらおうよ」

リンスちゃんの誘導で建物の裏から中に入る。

ゴミ捨て場の入り口から中に入っていたのか、歴代のリンスちゃんの彼氏たちは。

妙なところで納得をした。

お隣さんの部屋のチャイムを鳴らしても、返事は返ってこない。

電気もついていないようだ。

まだ帰っていないのだろう。

リンスちゃんの部屋で待機という流れになった。

恋愛問題がアフガンの紛争問題よりも重要な私たち十代の乙女(笑)はさっそく尋問を始めた。

体の良い事情聴取。

いや、人の恋愛に首を突っ込みたがる女子の習性と言っても良い。

彼の説明によると、彼女と連絡が取れなくなって心配したからだという。

「こっちから別れ話切り出してから音信不通になって。話したいこともあるのに……」

「振ったんなら何でそこまで心配するの? 他人でしょもう。傷を広げるだけだよ! そっとしておいてあげなよ」

リンスちゃんは酷いことを言う。

だけど、そういう風に言いたい気持ちも分かる。

「いえ、その……」

彼氏君は非常に居心地悪そうだ。

目線がキョロキョロ定まらない。

「言いたいことはバシッと言って、ウジウジしないで!」

「えっと……」

リンスちゃん、と私は彼女をたしなめるために声を掛ける。

これでは心配した彼氏が悪い人みたいではないか。

別れたとしても、人間の関係はそんなに簡単に切れないものなんだよ。

良い人じゃないの。

連絡取れないからって心配してわざわざ来たんだよ?

「さ、彼氏君。ゆっくりで良いから、話して、ね?」

彼氏君は私の「優しい」言葉に後押しされたのか、おどおどした態度を改めた。

ふふん、私だって女子力くらい持っているのだ。

彼氏君はこう言い切った。

「はい。彼女が妊娠したんで中絶費用のことで話さなきゃ、と」

「サイテーだ、アンタ」

「最低だ、彼氏君」

前言撤回。

最低だ、この男。

それからの展開は私たちのお説教タイムだった。

傍観者であるはずの私たちにそこまで言う権利はないのだろうが、私たちは興奮していた。

一通り彼氏君をこき下ろした後、さらに彼氏君が言った一言がリンスちゃんを激昂させた。

「何か、臭くないですか?」

その部屋の主であるリンスちゃんの怒りたるや半端なものではなかった。

血管が切れてしまうのではないかというくらいの怒り。

しかし、却って私は冷静になることが出来た。

なぜならリンスちゃんの怒り方がヒステリック過ぎてちょっとだけ滑稽に見えたからだ。

そしてその疑問は私もずっと感じていたからだ。

「ちょっと落ち着いて、リンスちゃん。ねえ彼氏君、その臭い、いつからそう思ってた?」

「え? 最初にゴミ捨て場みたいな所を通って感じました」

「その後は?」

「三階に着いてからまた臭いがきつくて、この部屋はまだマシかな?」

まだマシって何よ!

リンスちゃんは怒りが止められないらしい。

どうどう。

「ねえ、私たち鼻が慣れちゃって良く分からないの。どこが一番臭ってたの?」

「それは――」

彼氏君が言い終わる前に扉がドンドンドンドンと執拗に叩かれた。

しまった、うるさかったか。

「やばい、管理人さんかもしれない。隠れて!」

扉を開けると、そこにはお隣さんがいた。

しかし、表情は険しい。

「ああ、ちょうど良かった。今ね――」

「……シッテルンでしょ?」

その感情のこもっていない声。

冷たい表情。

現実感のない存在。

紫色の唇。

尋常でない雰囲気に固まり、私たちは次の言葉が出ない。

「ねェ、どこ? どコにかクしたの? どこニかくしタの? ねええ。ネええエええ」

怖い。

彼女の口と言葉が合っていない。

口が開いたままなのに、何でこんな音が出せるの?

スローモーションの動きと早送りの口調、そんな状況を理解できるだろうか。

滑るように私たちに近づく。

彼女の顔が近い。

ねっとりとした口調。

口に何かがつまっているような。

彼女が体を動かす度に、ねちゃりと嫌な音が聞こえる。

「ねえええええ、わたしのおおおおおおおぉおおぉおぉぉ、どこおおおおおおおおおおおおおおお」

首がカクカクと振れる。

壊れたプレーヤのように言葉が、音が伸びる。

その時、トイレの扉が開き、隠れていた彼氏君が廊下に飛び出した。

「うわああ!!!」

私たちを置いて逃げ出す彼氏君。

酷い。

だがお隣さんの目標は変わったようだ。

「まァってよおおおおおおおおまってよおおおおヲをヲヲヲウォオヲヲおを。モウダイジョウブだからあああ、モウイナイからああ。かえろおおねえかえろおおおおよおおヲお。ずっとイッしョっていっタァああア。ずっとずっとずウウウウウウウウウウっと」

粘つく声。

音程のおかしな声。

ひねる様に体を動かしながら、またも滑るように移動する。

とっさのことだ。

私たちもその姿を追いかける。

廊下を走る彼氏君。

エレベーターはすぐには来ない。

避難する場所はない。

彼氏君は壁伝いに逃げ、手に当たったドアに手をかける。

そこは私のお隣さんの部屋。

つまり、彼氏君の元彼女の部屋だった。

鍵は掛かっていなかった。

ドアを開けた光景、状況を忘れることが出来ない。

扉の内側から黒い小さな大群が雲の様に廊下に飛び出す。

わーんという音と共に視界を遮る雲。

足がたくさんある小さなムカデのような虫が何匹も廊下を這う。

蝿と小さな虫が溢れかえる。

凄まじい臭いが廊下に充満する。

吐き気を催す、臭い。

何かが腐った臭い。

まさか。

彼氏君の絶叫を聞き、私たちはそこに何があるのか理解した。

先ほどまでのお隣さんは居なくなっていた。

だが、お隣さんはその部屋にいた。

ずっといた。

警察の方の話によると、死後相当の日付が経っていたと言う。

お風呂の中。

カミソリ。

夏の暑い日の密室。

これ以上は言うまでもない。

「リンスちゃん、終わったよ。帰ろうよ」

「ユウちゃんって結構凄いね」

「なにそれー、どういう意味?」

「だって何日も壁挟んで死んだ人と一緒に暮らしてたんだよ」

そういうリンスちゃんは、私の部屋の隣で彼氏とチチクリあってたんでしょ。

思うだけで口にはしなかった。

第一発見者の一人である彼氏君は事情聴取が出来ない有様だという。

私たちは時には隣人の部屋で、時には自分の部屋で、時には警察署で、色々なところで色々なことを聞かれた。

清掃会社の人たちが彼女の部屋をキレイに片付けた後、お線香を焚いていた。

やっぱりこういうことはちゃんとするんですね、と素直に感心して口に出した。

お線香には形式的な意味ではなく、実質的な意味があるのだという。

「元々、お線香はご遺体の臭いを消すために作られたんですよ」

そう説明してくれた。

お線香の匂いが漂う。

お線香の本来の役割。

それを思い出すと、今でもぞっとする。

怖い話投稿:ホラーテラー そうめんさん  

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