バルバドスの動く棺桶

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19世紀の初め、カリブ海に浮かぶバルバドス島、この島のオイスティンという村で起きたある出来事である。

このオイスティンという村には、チェイス家という名家の墓がある。
この墓はかなり立派なものであり、大きさは3メートル60センチ × 1メートル80センチ。
下半分は地下に埋まっており、サンゴ石とコンクリートで出来ており、墓というよりは、一つの部屋のような感じである。
墓の内部には火葬されずにそのまま遺体が納められた棺桶が納めてある。

オイスティンの近くの教会の墓地には、もう300年近くの歴史が存在していた。
そこにチェイス家の地下墓所がつくられたのは、18世紀の初めのことであった。

バルバドスがイギリスの植民地だった1807年の7月31日の事、トマシーナ・ゴダード夫人の遺体を納めた木製の棺が、まだトーマスに所有権が移る前のこの地下墓所に埋葬されることになった。
しかし その地下墓所には過去に安置されていた者が居た。

墓碑銘によると、西暦1724年5月15日に死亡したリチャード・エリオットの遺体が、そこに眠っているはずであった。
ところが、墓所の入り口を封印しているコンクリートを削り落として大理石の石戸を開いてみると、中は空っぽであった。エリオットの遺体も、それを納めていたはずの棺も、跡形もなく消えていたのだ。
人々は薄気味悪い思いで首をかしげながらも、ともかくゴダード夫人の棺をそこ に安置して元通り入り口をコンクリートで封印した。

何故リチャード・エリオットの遺体 が消えたのかは全くの不明で当時人々の中で解明できた者はいなかったという。
墓所の入り口を封印しているコンクリートを削り取って、重い石戸をどかし、棺を中に安置して、また石戸を元に戻して入り口を再びコンクリートで封印しなおすという作業は、4人がかりで何時間もかかるようなたいへん重労働だったのであったにも関わらず誰の仕業であったのであろうか?

そしてその年1807年、この地下納骨所の権利がトマス・チェイスの渡った。
トーマス・チェイス卿はかつてこの島のサトウキビ栽培で一財産を築いた男であり、彼の成功は黒人奴隷の労働力なくしては築かれなかったといわれている。
しかし、彼の名を後世に残したものは彼本人と彼の身内に関する別の要因があったのである。

1808年2月22日
この地下納骨所に最初に安置されたチェイス家の血縁者は、2歳でなくなったメアリ・アンナ・マリア・チェイス であった。
トマシーナ・ゴダード夫人が納められて以来この墓が開けられた事はなく久々に墓の扉が開けられた。

1812年7月6日
メアリ・アンナ・マリア・チェイスの姉にあたる10歳になるドーカス・チェイスが自殺をした。
父であるトマス・チェイスは奴隷所有者で、無慈悲な男と言われており黒人奴隷に対する非情かつ残酷な仕打ちをくり返していた。
黒人奴隷を酷使した労働力の上に築かれた富。そしてドーカス・チェイスは父からも酷い虐待を受けていたといわれドーカス・チェイスは こうした事に心を大変に心を痛めておりついには 父に対する非難の意味を込め絶食を続け餓死したのである。

ドーカス・チェイスの遺体が鉛の棺に入れられて、キリスト教教会墓地にあるチェイス家の地下墓所に収められることになった。
ドーカス・チェイスの葬儀のため棺は2人の男により墓地まで運ばれた。
棺を納めようと封印のためのセメントを削り落とし、重い大理石の戸を開けると、葬儀の参列者は中の様子がおかしいことに気がついた。

その時チェイス家の地下墓所にはトマシーナ・ゴダード婦人の棺と、ドーカスの妹メアリ・アンナ・マリア・チェイスの棺が安置されていたのであるが、2つの棺は明らかに元の場所から移動しているのである。その様子はというとまるで投げ出されたかの様に壁の方に逆さに動かされていた。

それを見た人は皆思った。黒人奴隷を無慈悲に扱ったトーマス・チェイス卿に恨みを持つ黒人による仕業であろうと。
そして墓の所有者トーマス・チェイス卿も、これはきっと黒人奴隷の悪戯だろうと思い、鉛の想い棺桶をちゃんとした位置に置き直し、二度とこんな事が出来ないように墓の扉をコンクリートで固めたのであった。

それからわずか1ヶ月後の8月の事。
今度は当のトーマス・チェイス卿が 突然発狂し突然死したのである。
そして8月9日、自分の所有していた墓に自分が納められることになった。

墓を開いてみると、2人の少女の棺は前に安置した場所から明らかに動いていた。墓の北東の隅にあった2つの棺は、対角の南西の隅に移動していたのだ。島民たちは慄然とし、日が沈んだあとは誰もこの墓地の周辺に近づかなくなった。

トマス・チェイスが没して4年後、1816年10月、チェイス家の親戚、生後11ヶ月のサミュエル・ブリュースター・エイムズが突然死、その1月後の11月に父サミュエル・ブリュースターが黒人奴隷たちの反乱で命を落とした。
多くの見物人の中墓を開け埋葬しようと見てみるとやはり酷い有様で、その時は最初に安置された夫人の木の棺は壊れ 遺体の手足がはみ出ているほどであった。
この時 政府と教会の牧師トマス・オーダーソンによりこの墓の構造が徹底調査され、その結果人間はおろか水一滴入る隙間さえなかったという。

さらに1819年7月に無名の人物であるがトマシーナ・クラーク夫人 が亡くなった。
その時の埋葬の頃には島中に知れ渡っており、多くの見物人に加えバルバドス総督カンバーミア子爵までが見物に加わった。

封印に使ったセメントを削り落とし、戸を開けようとしたところ、何かがこすれる音がした。トマス・チェイスの鉛の棺が入り口まで移動して戸に当たっていたのである。他の棺もバラバラに移動していたが、ゴダード婦人の木製の棺だけは元の位置から動いていない。
カンバーミア子爵が真っ先に墓所に入り、細部をくまなく調べたものの、やはり何の手がかりもつかめずに終わった。
棺を元通りに並べ終えた後、子爵は床に砂をまくよう命じ、戸には個人用封印を施した。

1820年4月18日、コンベルメレ総督の官邸のパーティーで、この墓の事が話題に上がった。
コンベルメレ総督が酔った勢いもあり、中がどうなっているのか見に行ってみようと言い出したのだ。人々も興味本位から賛同し、墓を開けてみる事になったのである。
墓に行ったのは全部で9人。扉のコンクリートに異常は無い。扉を開けると、子爵の封印には異常はなかった。
しかし、中は混乱の様相を呈していた。
前回同様、ゴダード婦人の棺は移動していなかったが、他の棺はみなひっくり返り、壁には叩きつけられた跡が残っていた。
砂の上には足跡ひとつなく、この謎が解けることはなかった。
カンバーミア子爵 は全ての棺を別の場所に埋葬するよう命じ、それ以降、この墓所は無人のままとなっている。

事件は謎のまま、月日がたつうちに人々の記憶から薄れていった。
やがて、当時のことを知る人々はみな死に絶え、墓所の怪事件のことはすっかり忘れられ去られた。

しかし それから120年たった1943年、別の地下墓所に、新しい遺体が埋葬されることになった。
そこは、1841年にエヴァン・マクレガー元総督の棺を埋葬して以来、封印されたままになっていた。
ところがその墓所を開いてみると、マグレガー元総督の棺は、安置してあった場所から明らかに移動していたのである。
そして同じ墓所に埋葬されていたはずのアレクサンダー・アーウィンの棺が、跡形もなく消えていたのだ。

この現象は、ほぼ200年以上が経過した現在でも解明されていない謎として記録されている。