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『奥の細道』を書いたことで有名な歴史上の人物、松尾芭蕉にはある都市伝説がある。

それは、

松尾芭蕉と服部半蔵は同一人物である

というものだ。
なぜそう言えるのか、以下に理由を見ていく。

『奥の細道』を記すにあたり、全国各地を行脚した松尾芭蕉だが、彼には不可解な点が二つほどある。

一つは、なぜ、関所が数多くあり自由な旅が制限されていた江戸時代であったにも関わらず全国行脚ができたのかという点。
今でこそ人びとは自由にどこへでも行き来ができるが、当時はよほどの要人でもなければ、自由に藩と藩の間を行き来できず、個人が全国を旅するなど気軽にできる事ではなかったのにも関わらず。

もう一つは、高齢にもかかわらず、なぜ長距離の移動ができたのかという点。
松尾芭蕉は旅を始めた当時46歳であり、江戸時代ということを考えると、その年齢は十分高齢者に分類される。しかし、松尾芭蕉は一日に数十キロもの距離を移動したという。特殊な訓練でもしていない限り、老人が一日に数十キロもの距離を移動することはできないのではないか。

これらの謎を解くカギは徳川幕府にある。

徳川家康は日本に特殊部隊、つまり「忍者」を創設したと言われている。
忍者はスパイと兵士を兼ね揃えた特殊部隊であるが、忍者の中でも特に優秀で家康が認めたと言われる人物が服部半蔵であったと言われている。

ちなみに、現代の皇居の門の一つに「半蔵門」という門があるが、これは皇居が江戸城と呼ばれていた頃、この門の警固を担当していた優秀な忍者の名前、すなわち服部半蔵にちなんで名付けられた言われている。

そんな優秀な半蔵に対し、家康は十分に徳川家に尽くした褒美として半蔵の願いであった「自由」を与えることにし、全国を旅した半蔵は俳人として松尾芭蕉を名乗ったというものである。

これが謎の答えである。
時の権力者によって与えられた権利であれば、全国を旅する事も容易であると同時に、元忍者であれば一日に数十キロの移動ができたとしても不思議ではない。

また、松尾芭蕉の出身地からも服部半蔵とのつながりが見える。
松尾芭蕉の出身地はなんと「伊賀上野」だという。忍の地である伊賀上野と松尾芭蕉と服部半蔵、この3つには何かしらのつながりを感じざるをえない。