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福井県福井市つくも1丁目中央大通り

九十九橋

【九十九橋】

九十九橋(つくもばし)は、福井県福井市の橋である。
足福井県道6号福井四ヶ浦線上にある現在の橋は1986年に架け替えられたものである。
福井市ではこの橋を境に橋北(きょうほく)、橋南(きょうなん)と分けられる。

この橋の近くにあった北ノ庄城は、かつて柴田勝家のものであったが、秀吉との戦いに敗れ、勝家はその城で自刃した。

その後、勝家亡き後はこの徳川家康の次男で秀吉の養子になっていた羽柴秀康であったその後、3代目の藩主となった松平忠昌(ただまさ)により、「北」は「敗北」に繋がるので縁起が悪いとし、その城の名を「福井城」と改めたのである。

しかし、この改名の頃から、巷では妙な噂が流れはじめた。
毎年、勝家とお市の方の命でである旧暦の4月24日の丑三つ時になると、数百騎にもなる騎馬武者の行列が九十九橋を渡って南へと進んで行く姿が目撃されたという。
さらに、その騎馬武者は全員首が無かったという。また、従えた馬も首が無く、その傷口からは真っ赤な血を滴らせながら、城めがけて行進していったという。

そして、その騎馬武者行列が現れた翌朝には、決まって数人の死者が出るといわれ、夜中にその行列を見た者、またはその話をしゃべった者、さらにはその話を聞いたものを含めた人間達が、またたくまに血を吐いて死んでいくという。

では、なぜ見たものも、聞いたものも死ぬという呪いが、噂として広まる事ができたのか?
それには、享保十七年(1732年)、近くで表具屋を営む佐兵衛という者の逸話が残っている。

この左兵衛、「どうしても噂の首なし武者を見てみたい」と普段から考えており、この首なし騎馬行列の姿をなんとか記録に残そうとしました。もともと絵も上手かったため、彼はその光景を絵に残せば、自分が死んでも絵が残ると考え、計画を練りはじめた。

ついん、勝家の命日の夜、この男は計画を実行に移す。九十九橋のたもとの柳の影に隠れて待っていると、ついに目の前に騎馬行列が現れた。その姿は、まぎれもなく首が無しの武者と馬。しかも、柴田の馬印もしっかりとその目で確認たという。
その後、男は慌てて自宅に戻り、見た光景を絵にしたため、それをある武士から修理を頼れた桐の箱に隠した。
しかし翌日、男はやはり自分の寝床で死体となって見つかる。葬儀の後、箱の修理を依頼していた武士がその絵に気がつき、すぐに庭先のたき火の中に投げ捨てる。だが、火がついたまま宙に舞い上がった絵から突如として首なし武者の姿が浮かび上がったと思うと、そのまま武者は屋敷へと飛び、武士の屋敷や周囲の民家まもろとも大火事にしたという。

以来、福井の人々は勝家の命日である4月24日の夜は、家に籠って灯りを消してうずくまり、万が一外でくつわの音がしても、決して外を見ないでやり過ごすよう心がけてきたといわれている。

また、この言い伝えをすっかり忘れ、その夜に外出した老婆が、やはり首なし武者に遭遇したのだが、老婆は翌朝死ななかった。
なんだ、これは迷信なのだと思って家族に話した後、1年後にこの老婆が水死体で発見されたという。

この九十九橋も、明治になってに架けかえられてからは、首なし武者が出現する事はなくなったといわれる。

しかし、その橋の当時の姿を再現した物が、「北ノ庄城址・柴田公園」に展示されてからは、あの九十九橋で、武者の姿を見たという噂が聞こえ始めたともいわれる。

しかし、この武者と出会ったからといって必ず死ぬわけではない。
福井の言い伝えによれば、この武者に出会い、相手から「何者か?」と問われるので、その時「勝家公の家臣である」と答えると、命までは奪われずに住むと伝えられている。

一度、この武者を見たい人がいれば、必ずこの合言葉を覚えておいて欲しい。