キャリー サイコホラーなのに、人間模様が悲しい

『キャリー』(Carrie)はスティーヴン・キングの小説が原作の1976年公開の映画。
念動能力(テレキネシス)を持つ少女が、母親からの虐待と、クラスメイトのいじめによって精神不安定に陥り、その能力によって殺戮を起こし、町を破壊する物語である。
というのが一般的な解釈だが、(そしてB級にも思えてしまう解説だが)、これほど殺人者・破壊者になってしまった少女に同情・共感する映画はないかもしれない。
ユーイン・エレメンタリースクールに通う少女・キャリーは早くに父親を亡くし、新興宗教に傾倒する母親に育てられている。母親にとってキャリーはいつまでも穢れ無き少女であり、無垢な存在であることを強いられていた。少女が女性に移り変わるの一般的な二次成長すら母親は否定をし(初潮がくることや胸が膨らむ事)、キャリーは母親の顔色を伺う、暗くおどおどした性格の少女でいるしかなかった。唯一の肉親である母親から、「(母親にとっての)良い子」を強いられ続けたキャリーは自分では自我を作る事が出来ない。学校では自己意思の強い女子達にいじめられてしまう。(彼女たちはボーイフレンドといけない遊びをしたりはめを外しつつも、大人になっていく)。ある日性知識のないキャリーは自分に初潮が来た事を病気だと思いパニックに陥る。周りの少女はそれをはやし立て、いつものようにいじめていたが、それを担任の女教師が咎め、キャリーをいじめた者から罰としてプロムの出席資格を奪う。プロムに参加できなくなりキャリーを恨む者、反省してキャリーに歩み寄る者、それぞれが行動を起こしていく中、キャリー自身も担任の女教師からの勧めもあり、自分の意思を確立しようと自分でドレスを用意しプロムに参加しようとする。始めて母親と対立し、大人になろうとしたキャリーに対して、プロムで起こったことはキャリーへの悪意を持った同級生の執拗な嫌がらせ、悲惨な事件だった。折角、他人との交流を始めようとした矢先の出来事にキャリーは絶望し、結局自分には母親しかいないのだ、と失意のまま帰宅する。帰宅後キャリーを待っていたのは、自我を持ち始めたキャリーを必要としない母親だった。母親に殺される直前、キャリーは母親の顔に聖母のような笑みを見る。キャリーは幼年期を終えられず、母親との閉じた世界で朽ちて行くしかない。実際は、キャリーに手を差し伸べる人はいたはずだった。担任の女教師、声をかけてくれた同級生、しかし、キャリーの世界からはそれら全てが意地悪な、怖い人間に見えてしまい自ら世界を閉じてしまったように思える。母と離れられなかった可哀相な娘、というのが印象に残り、サイコホラーとしてよりも、人間模様に注目してしまう作品である。