泥田坊は北陸は越後(新潟県)の農村に出たという妖怪。
狩野派の妖怪絵師、鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』には田圃の泥の中から半身を乗り出した坊主頭の姿で描かれている。一つ目で、鋭い爪の生えた三本の爪を持つ。
昔この国にたいそう働き者の男が住んでいた。来る日も来る日も畑仕事に精を出し、荒れ地を徐々に耕していった。その甲斐あって米も作れるようになり、収穫も徐々に多くなっていったという。
ところがこれからようやく暮らし向きが良くなって行こうとした矢先に、男はこの世を去ってしまう。男の死については詳しく語られていないが、日々の過酷な農作業のほかに、新たな水田を開拓するために身を粉にして働いていたことから、その疲れによって身体を壊したのであろう。男には家族があったので、妻子を養う為に必死で働いていたと思われる。
しかし遺されたこの男の息子というのが、本当の親子かと疑うような怠け者であった。
息子は父が亡くなると、口うるさい人間が居なくなったのを幸いとばかりに酒びたりの日々を送るようになった。
昼間から酒を飲んでは家で寝て暮らしていた。
父親がようやくの思いで切り拓いた田畑も、当然の事ながら世話をする人間を失ってからは雑草が生い茂り、そのまま元の荒地へ逆戻りしようとしていた。
さて、父親が遺した僅かな蓄えなど息子の放蕩にかかれば、すぐに底を衝いてしまう。
結局は息子の放蕩が祟って、父親が必死の思いで開墾した田畑を手放すほか為す術が無くなってしまった。
荒れてはいるが、元々は多くの米を収穫していた田圃である。
田畑を買い取った人間は「大変いい田圃が手に入った」と大層喜んだ。
ところが、ある晩のことである。
田圃を買い取った家の人間がいつもの見回りに出掛けると、暗闇にまぎれて例の田圃の中に人影がある。
稲泥棒や勝手に水門の開け閉めをする不届き者も多い。誰何の声を上げて灯りを高く掲げ人影を照らし出した。
しかしそこに居たのは人ではなかった。
一つ目に三つ指の真っ黒な何者かが、泥の中から這い出てきたのである。
そして真っ黒な何者かは腕を振り上げ「田を返せ、田を返せ」と叫んだという。
それ以来、月夜の晩になると田圃の中から恨めしそうな叫び声が聞こえるようになり、いつしか人々はこの声の主を泥田坊と呼ぶようになったのだという。
亡くなった父親の無念がその姿に化したものか、息子の執着が化したものかは分からないが、まことに物悲しい妖怪である。
以上が泥田坊に関する一般的な怪談である。
また妖怪研究家・多田克己氏の解釈では泥田坊の「泥」は泥濘を表し、転じて埋立地の上に建設された歓楽街、新吉原を意味しているという。「田を返せ」とは「田を掘り起こす、作物を育てる」という意味合いから男女の交わりの隠語でもある。「北国」もまた江戸における吉原の異称であった。
つまり酒と女におぼれて新吉原で放蕩の限りを尽くす旦那衆に対して、石燕自身が皮肉って掛けた言葉から生まれたのが泥田坊だという解釈である。
山田野理夫の著書『東北怪談の旅』に収められた山形県の昔話では、好色で怠け者の妻が夫の留守中に山の中で見知らぬ若い男(その正体は蛇の化け物)に出会って契りを交わし、それが夫にばれて離縁を言い渡された際に田圃から泥田坊が現れ「蛇の子を産むよりも田植えをしろ」と言い放ったという。
ここでの泥田坊には無念や怨恨の感じはなく、むしろ農業、田圃の守り神のような姿で描かれているのが面白い。
泥田坊とは母なる大地とそこに鍬を入れて生活する人間との境界に住み、お互いの意思を橋渡しをする存在なのかも知れない。
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