私が中学生だった頃の話だ。
ある夏の日のこと。その日私が学校に行くと、教室の隅に人だかりが出来ていた。一部の男子たちを中心に、何か騒いでいるようだ。
「何してんの?」
一番近くにいた奴を捕まえ、尋ねると、彼は心底気持ち悪そうな顔を私に向けて、「蛙だよ」 と言った。
「あいつ、ペットボトルに蛙つめて持ってきてるんだ」
その口調からして、彼は蛙が苦手なのだろう。「うえ……」 と呟き、離れていった。私は彼と入れ替わりに、人だかりに身体をねじ込んだ。
騒ぎの中心に居たのは、あまり評判のよくない男子生徒だった。仮にOとしておこう。Oが持っているのは、1.5リットルのペットボトルだった。ラベルは剥がされていて、中には、一匹の茶色い蛙が窮屈そうに押し込められていた。
キャ、と短い悲鳴が上がる。興味本位で見にきたらしい女性陣からだ。
彼は、蛙を周囲に見せびらかして、その反応を楽しんでいるようだった。私の姿を見つけると、「ほれっ」 とペットボトルを目と鼻の先まで近づけてきた。蛙が手足をばたつかせ、容器の側面にへばりつく。
白いお腹には、黒い斑点がまだら模様に浮かんでいる。その背にはぶつぶつとイボもある。大きさは六から七センチほど。若いヒキガエルだ。
Oは、臆さず動じず蛙を凝視する私にいささか拍子抜けしたようだった。幼い頃から哺乳類も爬虫類も虫も魚も散々触れてきた私にとって、ヒキガエルは気持ち悪いどころか、逆に可愛いくらいだ。
ふと、私はそのペットボトルの表面に、小さく文字が書かれていることに気がついた。マジックで書かれたのだろうか。汚い文字だが、辛うじて読める。Oの苗字のようだ。まさか、Oが書いたのだろうか。
そうして、もう一つ。彼がどうやって、ペットボトルの中に蛙を入れたのかという疑問もあった。
飲み口の穴は、蛙の体より明らかに小さい。表面にはいくつか空気穴らしき穴が開けられていたが、それも五ミリほどの直径で、蛙が通り抜けられる大きさではなかった。
一体どうやって入れたのかとOに尋ねると、「俺だって知らねぇよ」 と予想外の答えが返ってきた。
話を聞けば、こういうことだ。
私たちの街から山を一つ越えれば太平洋に出る。その週の休日、Oは友達数人と、海に遊びに来ていた。海沿いの集落にOの親戚の家があり、友人共に泊りがけで遊んでいたそうだが、二日目、彼らはその集落の外れに、一軒の奇妙な家があるのを見つけた。
廃屋かというくらいボロボロの小さな家だったが、家の周囲を囲む塀に上には、大小様々な大きさのペットボトルが並べて置かれていた。「百個くらいあったんじゃねーか?」 とOは言った
Oは最初、猫避けか何かかと思ったそうだが、違った。
その中には、一匹ずつ蛙が閉じ込められていた。大きさはバラバラで、ヒキガエルだけでなく、青ガエルも居たらしい。
透明なペットボトルの中に閉じ込められた蛙は、夏の強い日差しを浴び殆ど死にかけているか、もしくは既に死んで干からびていた。Oが見つけたヒキガエルは、中で暴れたためか塀の上から落ちて日陰に転がり、運よく日差しを免れていたのだそうだ。
「そんなもん持ってくんなよ~」
他の男子が冗談交じりにOを叩く。するとOは、「ウケルと思ったんだよ」 と言って、ニヤニヤ笑った。
「で、どーすんの、それ。あんたが飼うの?」
クラスで二番目くらいに気の強い女の子が尋ねた。そろそろ朝のHRが始まる時間だ。「飼うわけねーだろ」 とOは言う。「じゃあ、逃がすの?」 彼女の言葉に、Oはまたニヤニヤと笑った。
「ちょっと、そこどけ」
Oは、周りの人間を少しだけ後ろに下がらせた。そうして、ペットボトルの蓋の部分を両手で持ち、まるで打席に立ったバッターのように振りかぶった。
中の蛙は、いきなり天地を逆さにされ、なすすべも無く飲み口の部分まで転がる。
「ぱしゃ」 とも、「ぺちゃ」 とも聞こえた。
嫌な予感を感じる暇も無かった。
Oが、蛙の入ったペットボトルをフルスイングしたのだ。遠心力でペットボトルの底の部分に叩きつけられた蛙は、その大きな口から赤い塊を吐き出し、潰れて、死んだ。
悲鳴と、短いうめき声が同時に上がった。
見ると、私の隣で、クラスで二番目に気の強い女の子が尻餅をついていた。Oはそれを見てケラケラ笑っている。挙句の果てには、ペットボトルの蓋を開けて中の匂いを嗅ぎ、「うわ、くっせぇ」 などと言って騒いでいた。
「どうせ干からびて死んでたんだしな」
Oの言葉だ。だからといってここで殺す必要は何処にも無い。しかし、そんなことをOに言っても無駄だということは分かっていた。私は、内蔵の飛び出た蛙の死体に対してではなく、O自身に対して気持ち悪さを覚えながら、ただ軽蔑の視線を送るだけだった。
その後すぐにチャイムが鳴り、蛙の死体が入ったペットボトルは、証拠隠滅のためOによって廊下側の窓から学校裏の林に向かって放り捨てられた。
とはいえ、Oのこのような問題行動は、私たちのクラスにとってありふれたものだったので、HRでも問題には上がらなかった。
問題は、次の日からだった。
Oが学校に来なくなった。
最初は誰もが、ただの風邪か、もしくはサボりだろうと思って何も気にしていなかった。ところがそれが、三日四日と続き、ようやくクラス内にも、どうしたのだろうという雰囲気が生まれていた。
Oの親は当初、単なる体調不良だと学校に伝えていた。しかし、一週間ほど過ぎたところで、隠しきれないと思ったのか、学校側にも真実を伝えた。
両親が言うには、どうやらOは、自分の部屋から出てこなくなったらしい。自分の部屋に鍵をかけ引きこもり、母親が食事を運んでくる時だけ、僅かにドアを開けるだけだという。
理由は分からない。
担任の先生や、仲の良い友人が家を訪ねたそうだが、Oはドアを開けず、「開けるな」 「見るな」 と叫び追い返した。
突然引きこもりだしたOに、両親も困惑していたそうだ。幾日かかけて、母親はドア越しに、ようやくその理由を聞き出した。
「……体中に、イボが出来てる」 とOは語った。顔にも手にも足にも。水泡のようなイボが皮膚をまんべんなく埋め尽くしているのだと。しかし、それを聞いて母親は不審に思った。彼女は、食事を運ぶ際に、僅かな隙間からだが彼を見ている。少なくともその手には、イボのようなものは見当たらなかった。
ある時、食事を運ぶ際に、母親は意を決して扉を開いた。Oはものすごい形相で、何事か叫びながら、力ずくで母親を追い出した。けれども、やはり彼の体にはイボなど無かった。
ただ、おかしなところはもう一つあった。引きこもってからのOは、喋るときに、良く声を詰まらせるようになった。会話の節々に、「……っく……っく」 と喉の奥から空気を搾り出したような音が引っかかる。
Oの友人のうちの誰かは、「蛙の鳴き声のようだった」 と言った。
引きこもり始めて、十日が過ぎた。
その頃には、Oはもはや言っていることすらおかしくなっていた。食事もとらなくなり、自分で鍵を閉めているにもかかわらず、「出られない」 「ドアが開かない」 「透明な壁がある」 などと言い出した。さらに、「熱い」 「かゆい」 と訴えるようにもなった。
さすがに手の施しようが無くなり、父親が無理やり鍵を壊し、Oを引きずりだして病院に運んだ。
その体にイボは見当たらなかったが、代わりに体中をかきむしったらしい傷跡で埋め尽くされていたそうだ。
入院中に何があったのかは知らない。
精神科に入院していたOが、退院し、学校に戻ってきたのは、新たな年も明けた約半年後のことだった。
戻ってきたといっても、以前の彼とはまるで違う。口数も少なく、良くも悪くも騒ぎ好きだった性格は影をひそめ、いつも何かにおびえている様な、陰険な奴に変わってしまっていた。しかも、話す際には必ず、「……っく……っく」 と声を詰まらすのだった。
時間を夏に戻す。
彼が家に引きこもっている間、クラスは、『蛙の呪い』 の噂でもちきりだった。蛙の幽霊がOに取り憑いただの、爬虫類の呪いは比較的強力だの。中には、イボガエルに触れるとイボが移る、といった古くからの迷信も含まれていた。
いくらなんでもOがかわいそうだ、という意見もあった。
確かに、自業自得だとは思う。ただしそれを言うなら、私だってこれまでの人生、蛙を殺したことくらいある。
こういう言い方は、人間至上主義と呼ばれるのかもしれないが、たった一匹の蛙を殺しただけで、果たしてあれだけの症状が出るものなのだろうか。同情はしていなかったが、不思議ではあった。それに、他にもいくつか気になることがある。
飲み口より大きな蛙をペットボトルの中に入れる方法。 ボトルの表面に書かれていた、Oの苗字。そうして一番は、そのペットボトルが何本も並んでいたという、海沿いの家についてだ。
当時、私はオカルトというものに目覚め始めていた。そうでなくとも、不思議や謎に一番関心のある年頃だ。それに、一度気になると動かずにはいられない。自分で言うのもなんだが、私はそういう困った性格の持ち主だった。
そうして我慢しきれなくなった私はその夏、Oが言っていた海沿いの家に向かうことに決めた。但し、単独ではさすがに心細いので、友人を一人誘ってだ。
その友人は、『自称、見えるヒト』 であり、私がオカルトにはまるきっかけとなった人物と言っていい。
「おい、次の休みにさ。Oが言ってたカエルの家に行ってみようぜ」
学校にて、友人に向かってそう切り出すと、彼は、無表情の中にもひどく面倒くさそうな顔をして、
「……呪われても知らないよ」
と言った。
彼はくらげ。もちろん、あだ名だ。
その日、私は朝早くから自転車に跨り、まずは待ち合わせ場所である街の中心に掛かる橋へと向かった。私たちが一緒に行動するときはいつも、地蔵橋と呼ばれるこの橋を使う。
くらげは先に着いていて、私のことを待っていた。
不思議なのだが、この橋で待ち合わせをしたとして、私は彼を待ったことがない。いつも彼は先に待っていて、黙って川の様子を眺めているのだった。
一度、彼がどれくらい早く来ているのか調べてやろうと思って、わざと待ち合わせ時間より四十分も前に橋に出向いたことがある。しかし、その時ですら、彼は私より先に着いていた。
「や。待ったか?」
自転車に乗ったまま声を掛けると、くらげは、ゆっくりと首を横に振り、「……さっき来たところだよ」 彼はいつもそう言うのだが、それが果たして本当なのか嘘なのか。真相は闇の中だ。
「行こうぜ」
と言うと、彼も自分の自転車に跨った。
Oの言った海沿いの集落に行くには、山を一つ越えなければならない。
見上げると、空には薄い雲が広がっていた。天気予報では今日は一日中曇りとのことだったが、さてどうなるだろう。
二人で自転車を漕ぎ、山の峠を越える。すっきり晴れた日と違って、眼下に見える海もどこか灰色染みていて、汗で体にへばりついたシャツや、湿度の高いむしむしした気温も相まって、何だか余計に疲れた気がした。
太平洋に到着してからも、海沿いの道を少しの間、東へむけて走らなければならない。目的の集落に到着したのは、昼前だった。広い松林の間を縫うように細い道がいくつかあって、ポツリポツリと民家が点在している。
集落の入り口に一軒の駄菓子屋があったので、情報収集に休憩もかねて立ち寄ることにした。店の中には、小柄で糸の様に細い目をした五十台くらいの女性が居た。彼女は私たちを気付くと、「あんたら、ここらでは見ん子やね」 と言った。
「隣町から、山を越えてきたんです」
私が正直に答えると、「あんらまあ」 と驚いていた。
私とくらげはそこでアイスを一つずつ買った。料金を払うついでに、「この辺りで、ペットボトルを周りに並べてる家ってありますか?」 と訊いてみた。すると、おばあさんが糸のような目をこちらに向けた。
「そんなこと聞いて、どうするん?」
口調は柔らかいが、私の質問は、あまり好ましいものではなかったようだ。
私は、その顔に子供らしい満面の笑みを浮かべて見せる。
「あ、私たち、夏休みの自由研究で、『海沿いの変わった場所』っていうのを調べてるんですよ。いくつか集めて、マップを作成しようと思ってて。それで、この辺りに変わった家があるって聞いたものですから」
隣で、くらげが私をじっと見つめていた。何が言いたいのかは分かっている。自分でも、良くもこうぽんぽん口からでまかせが出てくるものだ、と半ば呆れつつ半ば感心していた。
「ああ、そうなんね」 と言って、おばさんは納得したように何度か頷いた。内心ほくそ笑む。この演技で騙せない人間は私の母親くらいだ。
「確かに変わっちゅうけど……。あんまり見に行かん方がええよ」
おばさんが言うには、『ペットボトルの家』には、老人が一人住んでいるらしい。予想は出来ていたが、彼女の口ぶりからしても、あまり快い人物では無いようだ。
「そのペットボトルの中には、何がおると思う?」
こちらを脅かすような口調だ。私も興味津々な振りをして、「……何でしょう?」 と言う。
「か、え、る。……蛙が、入っちゅうんよ」
知っている。でも、驚いてみせる。
「ペットボトルに入れて逃げれんようにして、太陽の光で焼き殺すんよ。……あの人はね。カエルを殺すのが趣味なんよ」
その老人は、そうやって焼き殺した蛙の死骸を、ペットボトルに入れたまま、集落の他の家の門の前に置いていくのだという。「うちの前にも置かれたことがあってねぇ」 軽くため息を吐きながら、おばさんは言った。
「どうして、そんなことするんですか?」
「とっと昔にね。何か村でごたごたがあったらしいんよ。妹か弟が病気で死んだんやったかな……。詳しくは知らんけんど。それをまだ根に持って、嫌がらせしに来るんやと」
嫌がらせに、蛙の死骸を置いていく。まるで子供の発想だな。と私は思った。Oみたいな人間がやってそうだ。
しかし本当に、ただの嫌がらせなのだろうか。
その時の、家の前に置かれていた蛙の死骸はどうしたのかと訊くと、気持ち悪いからペットボトルごと捨てた、とのこと。当然の答えだ。
「その家って、どこにあるんですか?」
おばさんは、あまり答えたくなさそうだったが、「遠くから見るだけですよ」 という私の言葉に、「うーん。まあ、見るだけやったら……」 としぶしぶ教えてくれた。
大体聞くべき事は聞けたので、私とくらげは彼女に礼を言って、店を出ようとした。その際、ふと一つだけ聞き忘れていたことに気付き、私は振り返る。
「あの、ここの辺りに、『Oさん』 っていますか?」
私の言葉に、おばさんは、細い目を何度か瞬かせた。
「二つ隣の家がOっていうけど……。それがどうかしたん?」
「その人の家にも、同じペットボトルが置かれたことってありますか」
「……どうやろねぇ。でも、あると思うよ。この辺りの人は、皆やられてるはずやから」
お礼を言って、店を出た。
店の外にあるベンチに二人で座り、そこで、ちょっと柔らかくなったアイスを食べる。私は普通のアイスクリンで、くらげは最中をだった。文字通り、アイスをぺろりと平らげた私は隣のくらげに尋ねる。
「なあ、……呪いって、本当にあんのかな?」
今回Oに起こった出来事。その原因はやはり、『呪い』 なのだろうか。但しそれは、『カエルの呪い』 といった可愛らしいものではなく、人間が人間にかけた、誰かが誰かを不幸にするための呪い。
自業自得とはいえ、Oは、そのとばっちりを受けてしまったのではないか。
わざわざ最中のブロックを手でちぎりながら食べていたくらげは、最後のブロックを口に含み、こちらがいらいらするほどゆっくりと飲み込んでから、「……あるんじゃないかな」 と言った。
「ほら、昔から、蛙に触るとイボができる、って言うし」
「そりゃ、迷信だろ」
「……似たようなものだと思うけど」
くらげを見やる。その口調は、どこか、いつもの彼と違う気がした。くらげは、無意識だろうが、私の視線をかわすように立ち上がり、アイスの開き袋を綺麗に四つ折りにして、傍にあったゴミ箱に捨てた。
「雨が降りそうだね」
空を見上げ、そう呟く彼は、いつもの彼だ。
私も立ち上がる。「……んじゃ、さっさと行きますか」 私の言葉に、彼は小さく頷いた。
二件隣の、『O』 と表札の出ている家を通り過ぎ、いくつか松林を潜り抜け、セミの鳴き声に背中を押されながら、駄菓子屋のおばさんに聞いた道を進む。
Oが言った通り、集落の外れ。目の前に小さな墓地を臨む、古ぼけた平屋の民家。そこが目的の家だということは一目で分かった。
大して高くない塀の上に、ペットボトルがずらりと並べて置かれてある。Oが言った百個は言い過ぎにしても、数十個は確かにありそうだった。陽に焼かれ、黒く変色した蛙の死骸が入ったペットボトル。いくつかは道に落ちてしまっている。
見たところ、生きている蛙はいなかった。
セミの声に混じって、遠くで、浜辺に打ち寄せる波の音が聞こえた。辺りは静かで、人の気配は無い。私とくらげは自転車を降りて、塀の傍に近寄った。
近くで見ると、ペットボトルの表面には、それぞれ小さく文字が書かれてあることが分かる。どれも人の苗字だ。
駄菓子屋で聞いた話を思い出す。蛙の死骸が入ったペットボトルを家の前に置いていく老人。それがもし、単なる嫌がらせ目的ではなかったとしたら。
もう随分と学校に来ていないOは、自分の部屋から出てこず、おかしくなってしまったのだと噂されている。
呪い。
塀に沿って歩く。庭へと繋がる門は、無用心にも少しだけ開いていた。いくらか躊躇った後、私は門の中に足を踏み入れた。
「見るだけじゃなかったの?」
後ろから、くらげの声。
「……庭を見るだけだ」
手入れをしていないのか、庭のいたるところで、雑草が背を伸ばしている。家の窓は全て閉められ、カーテンが引かれているため中の様子は伺えない。庭の隅にはこれまた今にも壊れそうな納屋があり、鍬が一本立てかけてあった。
納屋とは逆方向の隅の方で、私は何かを見つけた。それは水槽だった。蓋がしてあり、中で、小さな何かが蠢いている。
コオロギだ。水槽の中には、底を埋め尽くすほどのコオロギが居た。その大半は動かず、死んでいるようにも見えたが、中には生きて動いているものも居る。何にせよ、虫嫌いが見たら卒倒しそうな光景だ。
果たしてこれは、蛙の餌だろうか。
私は想像する。餌がここにあるということは、このペットボトルの中の干からびた蛙たちは、元々ここで飼われていたのかも知れない。だとすれば、飲み口と蛙の大きさが合わない疑問も解ける。
卵か、もしくはまだ幼体の蛙をペットボトルの中に入れ、大きくなるまで飼育する。そうして、ある程度大きくなったところで、陽の光を浴びさせ、焼き殺す。透明な壁に阻まれ、蛙は逃げることもできない。
おそらく、このペットボトルに書かれた苗字は、集落の人間のものだろう。
Oが学校に持ってきたペットボトルには、Oの苗字が書かれていた。だからこそ、彼も特別興味を示して、拾ってきた。そうして、彼は蛙を殺した上に、その蓋を開けてしまった。
振り返ると、すぐ後ろにくらげが居た。全く気付いていなかったので、ほんの少しどきりとした。
「……脅かすなよ」
私の言葉に、くらげは何度か目を瞬かせて、「ごめん」 と言った。
私は辺りを見回す。この庭には、他に見るべきものは無いようだ。入ってきた門を見やる。門には、インターホンのようなものはついていなかった。次いで、私は家の玄関に視線を向けた。
「どうするつもり?」
くらげが言った。私は答えの代わりに、にっ、と笑ってみせる。結果的に見るだけじゃなくなってしまったが、気になるのだから仕方が無い。
「中に居るかな」
辺りに人の気配は無いが、もしかしたら中で寝ているのかもしれない。
玄関の前に立つ。門と同様、チャイムのようなものは無い。
手のひらで、扉を二度、軽く叩く。
もし老人が家に居るなら、少しだけでも話を聞きたいと思っていた。あの蛙の入ったペットボトルは、本当に呪具の類なのか。尤も、素直に話してくれるとも思っていなかったが、帰る前に、本人の顔くらいは拝んでおきたかった。
返事は無い。やはり出かけているのだろうか。
「すみませーん」
中に向けて声をかける。やはり返事は無い。
もう一度声を上げようとしたとき、私はふと、何か妙な匂いを嗅いだ気がした。
据えた匂い。家が古いからなのだろうか、微かに漂ってくる。特に顔をしかめるほどではなかったが、私がその匂いを嗅いで、真っ先に感じたのは、何ともいえない嫌悪感だった。
蛙の死骸を見たときよりも、無数のコオロギが詰められた水槽を見たときよりも。はるかに強い、嫌悪感。
この扉を、開けてはいけない。
警告が頭の隅をよぎる。けれども私は、殆ど無意識に、玄関の取っ手に手を伸ばしていた。私を動かしていたのは、好奇心だ。私はまるで傍観者のように、自分の腕が戸をあけようとするのを眺めていた。
私の腕を、誰かが掴んだ。
その瞬間、短い夢から覚めたかのように、意識が鮮明になった。振り向くと、そこにはくらげが居た。彼は私をじっと見やると、ゆっくりと首を横に振った。
そのまま、腕を引っ張り、玄関から引き離そうとする。
「おい……」
思わず声を上げる。くらげは立ち止まり、私の方を振り返った。そうして、腕を掴んでいる手とは逆の手を持ち上げると、その手のひらを上にして、こう言った。
「雨が降ってきたよ」
ぽつり、と体のどこかに水滴があたった。雨だ。灰色の空から小粒の雨が降ってきている。
「……帰ろう」
くらげが言った。彼は相変わらずの無表情だったが、腕を掴むその力は、意外なほど強かった。
私は一度、後ろを振り返る。古ぼけた家は相変わらず、そこにある。ただし、雨が降っているからか、それとも別の理由か、私の目には、その家が先程よりも明らかに、古く、黒ずんで、歪んでいるように見えた。
私は目を閉じ、大きく息を吸って、吐いた。
あの戸には、鍵が掛かっていた。
そう、思うことにした。
「……帰るか」
くらげが私の腕を離す。その様子は、どこかほっとしているようにも見えた。
二人で門を出る。自転車に跨ろうとすると、何者かの視線を感じた。辺りを見回すも、誰も居ない。そこにはただ、透明な檻に閉じ込められた蛙の死骸が、無表情に私たちを見つめているだけだった。
「帰ろう」
立ち止まっている私に向かって、くらげが、もう一度言った。私は黙って頷き、ペダルに乗せた足に力を込めた。
私たちの街へと帰る間、小雨は強くもならず弱くもならず、ずっとぱらぱらと降り続けていた。
そうしてまた、そんな雨を喜ぶかのような、「……っく、……っく」 という微かな蛙の鳴き声が、自転車をこぐ私たちの後ろを、どこまでも、どこまでもついて来ていた。
あのペットボトルの家で、老人の遺体が発見されたと知ったのは、それからまた幾日か過ぎた日のことだ。
道に蛙の入ったペットボトルが散乱し、片付けもしないのかと、文句を言いに来た近所の人間が死体を発見したのだという。
私はそれをあの駄菓子屋の目の細いおばさんから聞いた。その日は、私は友達数人と普通に海に遊びに来ていた。おばさんは私を覚えていたようだ。「自由研究は進んだかえ?」 との問いにはもちろん、「バッチリです」 と答えておいた。
「また見に来たのかねぇ。でも、あの家はもう無いよ」
とおばさんは言った。
老人の死因は熱中症と脱水症状による衰弱死だった。何でも、部屋の中で転んだ拍子に足の骨を折ってしまい、動くことも出来ず、助けを呼ぶことも出来ず、そのまま死んでいったのだそうだ。
出かけようとしていたのか、部屋は全て窓を閉めた状態だった。そのせいで熱が中に篭り、発見されたとき室内はサウナのようだったという。
近所の人間が、老人の死に気付いたのは、『匂い』 がきっかけだった。死臭。人が腐ったときの匂い。
「……その人は、いつ頃、死んだんですか?」
尋ねる声が少し震えた。それは、演技でもなんでもない。
老人が死んだのは、私とくらげがあの家を訪問した前日のことだった。私が戸を叩いたとき、家主は家の中にいた。
部屋から出ることも出来ず、助けも呼べず、じわじわと身を焼く暑さの中、死を待つしかない。その状況はまるで、ペットボトルに閉じ込められた蛙と同じだ。
「戸を開けた瞬間すごい匂いがぶわっと湧いてきたそうでねぇ。立ち会った内の何人かは、そんで体を壊して、今でもうなされて、起き上がれないんよ。……嫌やねぇ、死んでまで人様に迷惑かけて」
私は思う。
その発見者が戸を開けたとき、湧き出してきたのは、本当に匂いだけだったのか。
生き物を閉じ込めて殺すことで生ずる呪い。老人が最後に想った感情が恨みであったとすれば、扉が開かれた瞬間、その恨みはどこへ行ったのだろうか。
駄菓子屋を出た後、私は友人たちと一旦分かれ、一人であの家へと向かった。歩いていくと、少しだけ時間が掛かった。日数が経っているからか、事件現場だと示すようなものは何も残っておらず、塀の上に置かれていたはずのペットボトルも全て無くなっている。
門を開き、私は庭へと入った。
コオロギの水槽はそのままだった。もう全部死んでいるだろうと思ったが、驚いたことに、まだ生き永らえている個体が居た。餌もないのに、どうやって生きているのだろう。
玄関の前に立ち、家を見上げる。なんということはない。ただの古民家だ。嫌な予感も、匂いも、何も無い。
私は、玄関の戸に手をかけ、開こうとした。
しかし、扉は動かなかった。
鍵が掛かっている。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
あの日もこうやって、ちゃんと鍵が掛かっていたのだろうか。私が扉を開けていたらどうなっていたのか。くらげにはあの時、何かが見えていたのではないか。
しばらく考えてから、それらが、いくら考えても答えの出ない疑問であることに気付く。
そうして私は、空を見上げた。
青々とした空からは、答えも、雨も、何も降っては来なかった。
怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん
作者怖話
この話がストリエでストーリー化されました。http://storie.jp/episodes/view/12843