この話は残酷な描写、グロテスクな描写、多少の不快な表現を含んでいます。
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中華料理屋のバイト店員から聞いた話です。
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「お前、もう少しちゃんと確認しろよな!!」
「仕方がないでしょ!!」
アパートの一室。
薄い壁の向こう、お隣の<二〇二号室>からEさん夫婦が言い争う声。
かれこれ三十分近く続いているだろうか。
「喧嘩なんて珍しいな」
<二〇三号室>に住むFさんは引っ越してきてから一度も聞いた事の無いお隣さんの怒声と罵声に興味をそそられ、壁に耳を押し当てていた。
「私はあなたが喜ぶと思って!」
【ガシャン!ガシャン!】
食器が壁にぶつかり、割れる音。
おそらく奥さんが投げつけているのだろう。
さすがにここまでくると近所迷惑だ。
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Fさんが住むアパートを正面から見た部屋の配置は以下の通り。
<二〇一> <二〇二> <二〇三>
階
段
<一〇一> <一〇二> <一〇三>
Fさんはサンダルを履くと、Eさん夫婦に苦情を言う為、玄関ドアを開けた。
「え?」
Fさんは二階通路に出た直後、その場で棒立ちになった。
「<二〇二号室>、行けないし…」
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E妻のブログ
『脱サラして中華料理店を開業したいと夫から相談された。
ただでさえ安月給で貯蓄も無いのに、借金して今すぐにでも始めたいらしい。
結婚前から薄々気がついてはいたが、本当に夫は計画性がない。
私も応援してあげたいのは山々だが、今、会社を辞められたら確実に路頭に迷う。
開業資金が貯まるまでは仕事を続けるよう念押しした。
あぁ、誰か開業資金寄付してくれないかなぁ』
⇒コメントが一件あります。
『はじめまして。Gと申します。いつも楽しくブログ拝見させていただいております。
当方、飲食店経営しており、近々、厨房設備の入れ替えを予定しております。
中古でよろしければ無料でお譲りしますが、いかがでしょうか?』
⇒E妻の返信
『Gさん、コメントありがとうございます♪
本当ですか?!是非是非!お願いします!』
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信号が赤から青に切り替わり、行き交う人々。
雑踏のなか、人の波に流されながら、たどたどしく歩むE妻がいた。
着なれない服に袖を通し、履きなれない新調した靴のせいで足元がおぼつかない。
目的地は駅歩三分程のところにある喫茶店だ。
ドラマの撮影にも使われることがあるそうで、挽きたての珈琲と表面がこんがり焼かれたトーストサンドイッチのセットが人気らしい。
E妻はGさんのブログを開き、コメント欄を確認する。
『少し早く到着してしまい、先にお店に入っています。
入口から見て左奥のテーブルに座っています』
E妻もコメントを入力し、携帯を閉じた。
『了解しました!もうすぐ着きます!』
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一度も会ったことのない男性に連絡先を教えるのも、二人きりで会うのも抵抗があったE妻。
それを察してくれたのか、Gさんの提案で、連絡先は交換せず、Gさんのブログのコメント欄でやりとりをすることになった。
ブログのコメント欄ではE妻以外の人も読めてしまうのではないかと心配したが、Gさんはブログを承認制にし、E妻しかアクセスできないようにしてくれた。
また、顔が見えない相手とのやりとも不安だったが、Gさんはそこも察してくれた。
『従業員に撮影してもらいました』
と題されたブログがすぐにアップされ、椅子に座るスーツ姿の男性の写真が添えられていた。
「…」
E妻は写真を保存したい衝動に駆られたが、踏みとどまった。
芸能人でもない、ただの一般男性の写真が携帯に保存されていたら、E夫はどう思うだろうか。
不倫を疑うに違いない。
E妻は目を閉じた。
「…」
E妻とGさんが地べたに正座させられ、E夫が激昂し、スーツ姿のGさんのネクタイを掴みながら殴りつける光景が脳裏に浮かんだ。
「…」
E妻は再び目を開くと、自身の両頬を手の平で軽くパンパンと叩き、携帯を閉じた。
その日、E妻は美容室を予約し、通販サイトで服と靴も購入。
そして、今日に至る。
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【カランコロン】
喫茶店のドアを開けると珈琲と煙草のにおいが混じりった良い香りが漂う。
店内はほぼ満席でカウンター席が二席だけ空いていた。
「何名様でしょうか?」
満面の笑みを浮かべた店員が声をかけてきた。
「あ、待ち合わせで…」
E妻は左奥のテーブルに向かった。
「あ、あの…お待たせしました」
「はじめまして、Gです。どうぞ、掛けてください。」
Gさんは立ち上がり、テーブル席の椅子を引いてくれた。
「あ、ありがとうございます」
椅子に腰かけるEさん。
初対面ではあるが、毎日のようにブログで会っていたGさんを目の前に、視線を合わせることが出来ず、脇に置かれたメニューを手に取り、視界を遮断した。
「ここ、トーストサンドのセットが有名なんですよ」
「そ、そうみたいですね。私もそれが食べたいなと思ってて」
「すみません」
Gさんが手をあげ、店員を呼ぶ。
「トーストサンドのセットを二つ」
「かしこまりました。トーストサンドのセットを二つ、ですね」
店員が去って行った後、E妻はメニューを元の場所に戻し、ゆっくりと正面を見た。
「…」
皴一つない紺色のスーツを着こなす高身長(百九十センチはあるだろうか)のGさん。
白髪一つない綺麗な黒髪、整えられたミディアムヘアのGさん。
髭も吹き出物も一つなく、清潔感溢れる美肌のGさん。
彫りが深く、中性的な顔立ちで容姿端麗なGさん。
ブログの写真が掠れて見えるほど、現実のGさんは魅力的だった。
「どうしました?」
「あ!?すみません…、ちょっと考え事を」
Gさんの声で我に返ったE妻の表情は、にやけきっていた。
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「中華料理店の開業はいつ頃をご予定で?」
「夫は資金が貯まり次第と浮き立っていますが、五年はかかりそうです…」
Gさんは左手を顎に当てると、少し首を傾け、何かを考えている。
「物件は決まっていますか?」
「まだ…」
「そうですか…。ちなみに、開業まで今回お譲りする設備を保管しておける場所はありますか?」
「あ、設備って何があるんでしょうか?」
Gさんは脇に置かれた黒革のバッグからノートパソコンを取り出し、キーボードを叩くと画面を見つめる。
「入れ替え対象は…、シンク、コンロ、オーブン、調理台、食器棚、冷凍庫、後は冷蔵庫ですね」
「結構あるんですね…、ちょっと保管できる場所は思い当たりません。」
E妻は暗い表情を浮かべた。
「近々開業するのであれば、貸倉庫等に一時的に保管しておくのも一つの手ですが、数年先となると貸倉庫の賃料が嵩みますので、現実的ではありませんね」
「そう…ですよね」
E妻の表情はますます暗くなる。
「でしたら、これも何かのご縁ですし、Eさんのご自宅に置いておけるもの、そうですね…冷蔵庫だけ引き取っていただくというのはどうでしょう?」
「冷蔵庫ですか?でも業務用って大きいのでは?うち、アパートなのであまり大きいのは…」
「確かにご想像されているような大きい冷蔵庫もありますが、家庭用としても使える横幅一メートル、高さ二メートル程のものもありますよ」
E妻の瞳に少しずつ光が宿り始めた。
「それなら置けそうです!」
Eさんの表情の変化を確認したGさんは、にこやかに微笑むと話を続けた。
「申し訳ありませんが、工事日の都合で配送はこの日のお昼前になりますが、大丈夫ですか?」
「大丈夫です!まだパートのシフト提出前なので、その日は家にいるようにします!」
「ありがとうございます。それではこちらにご自宅のご住所を記入いただけますか」
Gさんは紙とペンをE妻に手渡した。
Eさんは躊躇することなく、アパートの住所を記入し、Gさんに手渡した。
「ありがとうございます。あ、丁度トーストサンドも来たみたいですし、いただきましょう」
「はい!」
E妻は夫やパート先の上司の愚痴を垂れ流し、両手でトーストを頬張る。
Gさんは珈琲を片手に微笑みながら相槌を打ち、聞き手に回った。
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【~♪~~♪~~~♪】
鼻歌交じりに洗面台で化粧するE妻。
右隣に設置された洗濯機の上には女性誌が開かれ『男性ウケ抜群!愛され女子のモテ顔メイク術!!』の文字。
「立ちながらだと疲れるなぁ…ドレッサー欲しいなぁ…」
E妻は滅多に化粧しない為、ドレッサーは持っていなかった。
アパートが狭く、置くスペースが無いのも理由の一つではある。
【~♪♪~♪♪~♪♪】
携帯電話の着信音が鳴った。
E妻は化粧していた手を止め、ポケットから携帯電話と取り出す。
携帯電話を開くと、画面には「●●店長」の表示。
パート先の小さなスーパーの店長だ。
休日に何の用だろうと思い、E妻は通話開始ボタンと押した。
「もしもし。Eです」
「あ、Eさん?何処にいるの?」
明らかに機嫌の悪そうな声色。
「何処って?自宅ですけど?」
「は?今何時だと思ってるの?」
E妻は室内の置時計を見る。
「十時過ぎですけど…」
「早く出勤してもらえる?」
「え?今日、シフト入ってませんけど?ちょっと待ってください…」
E妻は休暇取得日を間違えたのかと思い、手帳に挟まれた今月のシフト表を確認する。
「あの、今日休みですけど?」
「いやいや、さっきIさんから電話があって、Eさんとシフト交代してもらったと連絡があったよ」
「え?シフト交代なんてしてませんけど…」
E妻はシフト表を再確認した。
他にも二人、開店からシフトに入っていたはずだ。
「JさんとKさんは出勤されてますよね?」
「JさんもKさんも無断欠勤で連絡が取れなくてね。今、連絡取れるのはEさんだけ。パート誰も来てなくて、俺一人でレジ打ちなの…あ、いらっしゃいませ…いいから早く来て!」
お客が来たようで、通話は一方的に切られてしまった。
「はぁ…」
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「お掛けになった電話は電波の届かない場所におられるか、電源が入っていない為、掛かりません」
E妻はIさん、Jさん、Kさんの携帯に電話を掛けてみたが、聞こえてくる音声はどれも一緒だった。
仕方なく、E妻は携帯でGさんのブログを開いた。
『すみません!今日お昼前くらいに配送予定とのことでしたが、
急遽パートが入ってしまい、受け取れそうにありません。
別の日程で再配達いただけますでしょうか?
本当にごめんなさい;;』
E妻はコメント残し、パート先のスーパーへ向かった。
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休憩時間。
Gさんのブログを確認するとコメントに返信があった。
『Eさん。ご連絡ありがとうございます。申し訳ありませんが、当初お伝えした通り、再配達は不可です。
幸い、本日は天気も良く雨の心配もないので、ご自宅の前に置かせていただきました。ご了承ください』
せっかく、もう一度会えると思っていたE妻の気分は一気に落ち込んだ。
『わかりました!お手数をお掛けし申し訳ありませんでした!冷蔵庫楽しみにしてます!』
E妻はコメントを残し、再びスーパーのレジ打ちに戻った。
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パートが終わり、自転車で家路に向かうE妻。
「ん?」
自宅アパートが見えてくると、不思議な光景が広がっていた。
E妻が住むアパートの二階通路、<二〇二号室>の前から一階へと続く階段にたくさんの人、人、人。
アパートの駐輪場に自転車を置き、再び二階通路を見上げると、まるで<二〇二号室>に入る為の順番待ちをしているかのような行列、二十人くらいはいるだろうか。
全員、白いマスクを着用しているが、服装や髪形からいずれも女性と思われた。
「すみませ~ん!何かありましたか?」
「…」
「あの~!」
「…」
E妻は二階通路を見上げながら声をかけるも返事はなく、行列の女性達は誰一人微動だにしない。
「もしかしてガス漏れ?それとも水出しっぱなしで下の階に漏れたとか?」
不安に思ったE妻はアパートの階段を駆け上がり、二階通路へ。
「え?」
二階通路には誰もいなかった。
E妻が上がって来た階段以外にアパートの二階から一階に下りる手段はない。
階段上がってすぐ、<二〇一号室>に入ったのではとも思ったが、玄関ドアの開閉音は聞こえなかった。
階段を駆け上がる自身の足音で聞こえなかっただけかも知れないとE妻は自身に言い聞かせ、行列の事は忘れた。
そんなことよりも、気になるものがE妻の視界にあったからだ。
「ご自宅の前に置かせてもらったって…」
二階通路、<二〇二号室>の玄関ドアの少し奥に冷蔵庫が置かれていた。
通路の幅ギリギリに置かれた冷蔵庫。
これでは一番奥、<二〇三号室>のFさんが一階に下りることができない。
E妻は冷蔵庫を移動させようと試みたが、一人では全く動かせなかった。
「…」
『Gさん冷蔵庫ありがとうございました!』
E妻はコメントを残し、携帯を閉じた。
「ん?」
足元には薄汚れた白いマスクが一つ、落ちていた。
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「ただいま~」
「おかえりなさい」
「…」
帰宅したE夫は首を傾げると、閉めたばかりの玄関ドアを開け、通路の先を凝視する。
「なんで通路に冷蔵庫があるの?お隣さんの?」
「…」
E妻は言葉に詰まる。
E夫はE妻の表情から察した。
「うちのなの?」
E妻は無言で頷く。
「業務用冷蔵庫だよね?何処で買ったの?何で部屋に入れないの?」
矢継ぎ早に質問するE夫。
「ほら、中華料理店、開業したいって話してたでしょ?」
「うん」
「それをパート先のIさんに話したら、知り合いが廃品回収業者で、何か役立ちそうなものあるか聞いておいてくれるって話になって」
「うん」
「それであの冷蔵庫をタダで譲ってもらえたの」
「へぇ…」
「夕方、買い出しに行ってる最中に届けてくれたみたいで、受け取れなかったんだ」
Gさんの存在が明るみに出ないよう、嘘をついたE妻。
冷蔵庫をどのようにして手に入れたかの説明は事前に何度も脳内で練習した為、E夫には嘘だとは気づかれなかった。
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「で、鍵は?」
「え?」
業務用冷蔵庫は、左から手前に向かって開く一枚扉のタイプで、細長いドアハンドルが一つ。
ドアハンドルには鍵が掛かっており、E夫が開けようとしたがびくともしない。
「ちょっと待って、お腹痛い…」
E妻がお手洗いに駆け込むと、E夫は一旦室内に戻った。
『Gさん!冷蔵庫の鍵、何処にありますか?』
E妻はコメントを残すと、ページ更新を繰り返し続けた。
「…」
「…」
「…」
「…」
「…」
数分後、コメント欄が更新された。
『Eさん、こんばんは。鍵は右側面にガムテープで貼り付けてあります』
『ありがとうございます!』
E妻は携帯を閉じ、無意味に巻き取ったトイレットペーパーを綺麗な便器にそのまま流した。
玄関ドアを開け、業務用冷蔵庫の右側面を確認すると、確かにガムテープが貼られていた痕跡はあったが、鍵は見当たらず、周囲にも落ちていない。
E妻は項垂れながら玄関ドアを開けた。
「うわっ?!びっくりした…」
目の前には怪訝な顔をしたE夫。
「鍵は?」
「無い…みたい…」
「は?」
「…」
E夫妻の夫婦喧嘩の幕が切って落とされた。
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「すみませ~ん!」
お隣のFさんが二階通路から呼びかけるもE夫妻は気が付く様子もなく、言い争う声が続く。
「Eさん!すみませ~ん!!Eさん!すみませ~んっ!!!」
「…」
大声で何度か叫ぶと、E夫妻の言い争う声が止まり、<二〇二号室>の玄関ドアが開いた。
「あ?Fさん?この冷蔵庫の事ですよね?」
「えっと、あ、はい」
夫婦喧嘩に対する苦情を言うつもりだったが、目の前の冷蔵庫をどかしてもらうのが最優先だ。
「大変申し訳ないのですが、部屋に運ぶの手伝ってもらっても良いですか?こちら側に傾けるので、そちら側を持っていただけると助かるのですが…」
「あ、はい…」
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その後、三人がかりで狭い通路を四苦八苦しながら、<二〇二号室>に業務用冷蔵庫を運び終えた。
業務用冷蔵庫の背面に束ねられていた電源コードをコンセントに差すと、正面上部の温度表示が点灯するとともに、機械音が聞こえた。
室内灯の下で見ると、綺麗なシルバー色で、埃一つなく、表面の傷も見当たらない。
素人目に見てもかなりの美品であることは明らかだった。
ただ、唯一の問題は解消していない。
「あれ?この冷蔵庫、鍵かかってます?」
お隣のFさんが不思議そうな顔をした。
「側面に貼り付けてあったみたいなんですけど、無くなっちゃって…」
「そうなんですか…。それじゃあ、僕はこれで」
「あ、これ良かったらどうぞ」
E妻は業務用冷蔵庫の隣に設置された家庭用冷蔵庫から缶ビールの6本パックを取り出すと、ビニール袋に入れてFさんに手渡した。
「あ、お気になさらず」
「いやいや、手伝ってもらったのに申し訳ないです」
E妻は引き下がりそうになかったので、Fさんは笑顔で缶ビールを受け取った。
「ありがとうございます」
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玄関に向かう途中、背後からの視線を感じたFさんは立ち止まり、振り返った。
業務用冷蔵庫の前に立つE夫妻が鍵穴に針金を差し込み、ドアハンドルを開けようと奮闘する姿が見えた。
E夫妻は背中を向けており、誰もFさんのことは見ていなかった。
「気のせいか」
再び、玄関に向かい、Fさんは靴を履いた。
「ん?」
右足に違和感を感じた為、靴を脱ぎ、靴の中に手を入れた。
「マスク?」
右の靴の中には一枚の薄汚れた白いマスクが入っていた。
Fさんは怪訝な顔をすると、ポケットにマスクを入れ、<二〇ニ号室>を後にした。
「あれ?さっきは無かったような…」
<二〇二号室>の玄関前にも薄汚れた白いマスクが数枚落ちていた。
Fさんは首を傾げながら、<二〇三号室>に戻った。
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数日後。
【ピンポーン】
「●●サービスです」
「は~い」
玄関ドアの先には作業着姿の中年男性。
鍵開けスタッフはE妻に挨拶し、<二〇二号室>に入ると、業務用冷蔵庫の鍵穴を確認した。
「これでしたら、税込み五千円となりますがいかがいたしましょうか?」
「五千円ですか…」
E妻は悩んだ。
せっかく無料で譲ってもらったのに、五千円の出費は痛い。
「もう少し、安くなりませんか?」
「割引クーポンはありますでしょうか?」
「いえ…」
「でしたら今回はクーポンをご提示いただいた事にしますので一割引きの四千五百円でどうでしょうか?」
「じゃあ、それで…。四千五百円でお願いします」
E妻は五千円を手渡し、五百円のお釣りを受け取った。
「ありがとうございます。では施工着手いたしますので、少々お待ちください」
「…」
手元は見せてもらえなかったが、ものの数分で業務用冷蔵庫の鍵は開いた。
こんなに簡単に開けられるなら千円くらいでも良いのではないかとE妻は不満に思ったが、そこは我慢した。
「開きましたので確認をお願いします」
「あ、はい」
E妻はドアハンドルに手をかけたが、夫とのやりとりを思い出し、開けるのを躊躇した。
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「この冷蔵庫、中身空っぽ?」
E夫から突拍子もない事を聞かれた。
「え?なんで?」
「だってさ、普通、冷蔵庫に鍵なんてかける?」
「高級食材を入れておく為じゃないの?」
「あ、そっか…」
E妻は適当な思いつきで答えたが、E夫は納得した様子だった。
「そういえばさ…」
E妻は思い出したようにE夫に尋ねた。
「最近、夜中に何やってるの?」
「え?なんで?」
「昨日も一昨日も、夜中に物音がして起きちゃったんだけど、隣で寝てるはずのあなたがいなくてね」
「え?」
「初めはトイレかな?って思ったんだけど、業務用冷蔵庫の前で、何かぶつぶつ言っててさ」
「え?え?」
「私が話しかけたら、無言のまま布団に戻ってきて、そのまますぐに寝ちゃうんだよ」
「そうなの?全く身に覚えがないけど、寝ぼけてたのかも?最近仕事すごい忙しいし…」
「それなら良いんだけど、二日連続だと少し心配になって…」
「夢遊病かな?」
「ちょっと、やめてよ~」
疲れが原因で夢遊病が引き起こるというのはテレビか何かで聞いたことがあった為、せめて家ではE夫を労わろうとE妻は思った。
その日の深夜。
今度は物音ではなく、人が話す声でE妻は夜中に目を覚ました。
ご近所さんが騒いでいるのかと思ったが、声の発生源はE妻のいる室内。
眠い目を擦りながら声のする方向を見た。
薄暗く、よく見えなかったが、業務用冷蔵庫を開けようとドアハンドルをガチャガチャと鳴らしながら、E夫が頭部を業務用冷蔵庫に何度もぶつけ、大声を出していた。
『なんで開かないのよ!なんで開かないのよ!ナン、デ、アカナ、イ、ノヨォオ!!!!!!』
怖くなったE妻は頭から布団をかぶり、目を閉じ、耳を塞ぎ、再び眠りについた。
翌朝、目を覚ますと隣にはいつの間にかE夫が寝ていた。
打撲の痕だろうか、紫色に変色した額は痛々しく腫れあがっていた。
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「どうしたんですか?」
「あ…すみません」
鍵開けスタッフから声を掛けられ、我に返ったE妻は業務用冷蔵庫のドアハンドルをゆっくりと手前に引いた。
業務用冷蔵庫内の冷気が流れ出る。
「え?」
E妻は中身を確認すると思わず声が出た。
隣にいる鍵開けスタッフも一緒に見ていたが、不可思議そうな顔をしている。
「空っぽですね」
「そうですね…」
業務用冷蔵庫の中には何も入っていなかった。
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業務用冷蔵庫が開いた日の深夜。
【バタンッ!バタンッ!バタンッ!バタンッ!】
規則的に鳴り続ける物音でE妻は夜中に目を覚ました。
音の発生源はE妻のいる室内。
眠い目を擦りながら音のする方向を見た。
音が鳴ると同時に室内が暗闇になり、その直後に室内がうっすらと明るくなる。
E夫が業務用冷蔵庫を開けては閉め、開けては閉めを繰り返していた。
「どうしたの?」
【バタンッ!】
「…」
静まり返り、真っ暗な室内。
E妻の元に足音が近づく。
E夫はE妻の目の前まで歩み寄り、立ち止まると、E妻の両肩に手を乗せた。
「ちょっと、痛い…」
E妻の両肩をE夫が強く掴む。
E妻は振りほどこうと抵抗するも、E夫が両肩を掴む力は増していく。
「ねぇ!痛いってば!」
E妻は右足でE夫の左脚を蹴るも、全く微動だにしない。
『なんで空っぽなのよ!なんで空っぽなのよ!ナン、デ、カラッ、ポ、ナ、ノヨォオ!!!!!!』
E夫はE妻の両肩を激しく揺さぶりながら大声を上げる。
E妻は以前から感じていた違和感に気が付いた。
確かにE夫の口から声は出ているが、途中からE夫ではなく、別の女性の声に切り替わってる。
「ちょっと、いい加減にし…」
E妻は口を塞がれ、声が出せなくなった。
E夫とE妻の唇が重なりあう。
両肩を掴んでいた手が離れ、E妻を抱きしめるかたちで背中に手を回すE夫。
「…」
しばしの接吻と抱擁。
「ん?!」
軽く背中に手を回していたE夫の両腕に力が入り、E妻の身体を徐々に締め付ける。
「ん!!」
締め付ける力は弱まることなく、E妻の身体を押しつぶす勢いだった。
【ゴキッ、ゴキッ、グキッ、グキッ】
「んっ!!んっ!!」
両腕と身体に激痛が走り、E妻は叫ぼうとするも、E夫は唇を離そうとはしない。
【ゴキッ、ゴキッ、グキッ、グキッ】
E妻の両腕は砕け折れ、地面に向かって指先がだらりと下がった。
【ゴキッ、ゴキッ、グキッ、グキッ】
背中とあばらの骨も同様に悲鳴を上げ続ける。
「ん!?!?!」
身体とは別の場所で先程までとは比べ物にならない激痛。
E妻の唇と重なりあっていたはずのE夫の唇は、E妻の鼻下と上唇の内側に移動していた。
「ぃはぃ!ぃはぃっ!」
痛いと叫び続けるも声が上手く出ない。
E夫は噛みつく力を弱めることなく、ギリギリとE妻の鼻下と上唇の内側を割いていく。
噛み痕から流れ出る血が口腔内に広がり、E妻の喉の奥へと流れる。
流れ込む血の味と息苦しさにむせこむE妻。
【カチッ】
E夫の歯と歯がかみ合う音がした。
E妻の口元から上唇が無くなり、前歯が歯ぐきから剥き出しになった。
E夫は自身の口腔内からE妻の上唇がついた肉片を近くにあったテーブルの上に吐き出すと、今度はE妻の下唇に噛みつく。
「ゃめて!!ゃめて!!」
泣き叫ぶE妻の声は虚しく響き、E夫の口腔内にはE妻の下唇がついた肉片。
E妻は口周りを喰い千切られ、上下の歯が歯ぐきから剥き出しになった。
涙が止まらないE妻。
「?!」
E夫がE妻の背中に回していた両腕を解くと、自身の口腔内からE妻の下唇がついた肉片を左手に持った。
次に、テーブルの上に置かれたE妻の上唇がついた肉片を右手に持った。
E夫は両頬にE妻の唇を押し当て、優しく摩ると、その場でしゃがみ込み泣き始めた。
「ミツカッタ…ミツカッタ…」
すすり泣きながらぶつぶつと呟くE夫。
E妻がその場から離れようと少しずつ後ずさりする。
「え?」
背後に壁は無いはずだが、何かにぶつかった。
「ひっ!」
ゆっくりと振り向いたE妻の視線の先、真後ろに白いマスクを付けた女性が立っていた。
「すみません!たすけ…」
E妻は周囲の光景に恐怖し、それ以上は声が出なかった。
マスク姿の女性は一人だけではなかった。
E夫妻を囲むように、いつの間にか部屋中いたる所に白いマスクを付けた女性、女性、女性、女性、女性…。
『ミツケタ、ミツケタ、ミツケタ』
E妻の頭の中、複数の囁き声が木霊する。
「え?」
白いマスクを付けた複数の女性が、床にしゃがみこんでいるE夫を強引に立ち上がらせると、ゆっくりと引きずる。
一人が業務用冷蔵庫のドアが開き、その中にE夫を押し込めた。
【バタンッ!】
業務用冷蔵庫のドアが閉まると同時に静まり返る室内。
いつの間にか室内にはE妻の姿しかなかった。
「あ」
我に返ったE妻は警察を呼ぼうとするも、だらりと下がった両腕では何をすることもできない。
口元と身体の激痛を堪えながら、ゆっくりと玄関に向かう。
右肩で玄関の照明ボタンを押した。
「眩しい…」
明るくなる室内。
玄関の下駄箱脇に置かれた姿見鏡を見た。
「そんな…」
鏡に映る自身の姿に愕然とした。
血だらけの口元、剥き出しの歯茎、自由が利かずに垂れ下がった両腕、血と汚物に塗れた衣類。
まるでホラー映画に出てくるゾンビのようだった。
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E妻は右足で器用に玄関ドアの鍵を外し、ドアを開けると、二階通路に出た。
そのまま、お隣<二〇三号室>のドアの前に立つと、玄関ドアを何度も蹴りながら叫んだ。
「Fさん!助けてください!助けてください!」
しばらくすると、玄関の向こう、明かりが付いた。
玄関ドアが開き、寝ぼけ眼のFさんが顔を出しだ。
「どうしたんですか、こんな時間…、えっ?!えっ?!大丈夫ですか?!」
「うっ…うっ…」
E妻は安堵からその場で泣き崩れた。
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それからすぐに警察と救急隊員が到着。
E妻は病院に搬送され、事情聴取では起こった出来事をありのまま全て話したが、あまりにも突拍子のない出来事ばかりで一時的な精神錯乱と判断された。
また、<二〇二号室>の業務用冷蔵庫の中にE夫の姿はなかった。
業務用冷蔵庫の中に入っていたのは人間の肉片が二つ。
それぞれ、上唇と下唇が付いており、DNA鑑定の結果、E妻ではなくE夫のものだった。
E夫は現在も行方不明。
E妻は命に別状はなく、数か月後に退院。
退院後も定期的に通院し、リハビリを続け、日常生活に必要な動作であれば問題なく熟せるまでに両手の機能は回復したそうだ。
携帯が操作出来るようになってから、真っ先にGさんのブログにアクセスしようとしたが、既にブログは削除されていた。
Gさんとの連絡手段が途絶えたE妻はとても残念がった。
唇の再建手術に向けた費用を貯める為、今もパート先のレジで立ち続けている。
真っ白いマスク姿で。
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「あの、売りたいんですけど」
リサイクルショップの買取カウンター前。
真っ白いマスク姿の女性、E妻がリサイクルショップの入り口近くに停められた軽トラックの荷台を指差す。
「業務用の冷蔵庫でしょうか?」
「はい。お願いします」
「それでは査定いたしますので、こちらの番号札を持ってお待ちください」
リサイクルショップの店員から手渡されたのは「二十」と書かれた番号札。
E妻は呼ばれるまでの間、店内を歩き回った。
十分後。
「二十番でお待ちのお客様。査定完了しましたので、買取カウンターまでお越し下さい」
店内アナウンスで呼ばれたE妻は再び買取カウンターへ。
「お待たせしました。査定額は一万二千円になります」
「え?本当ですか?!」
良くて数千円、もしかしたら無料で引き取りも想定していた為、高く買い取ってもらえる事に驚いた。
「商品の状態も非常に良いので、この価格とさせていただきました。では、身分証の提示とこちらにお名前とご住所をお願いします」
「はい。それと、これ買いたいんですけど」
E妻は待ち時間で見つけた商品をカウンターの上に置いた。
花柄の綺麗なワンピース。
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【ガチャリ】
【バタンッ】
「ただいま~」
「…」
「って誰もいないんだったな」
静まり返る室内。
革靴を脱ぎながら、玄関右手に設置されたシューズボックスの上を見る。
大小様々なサイズの家族写真が綺麗なガラス製の写真立てに飾られている。
どれもスタジオで撮影した見覚えのある写真ばかり。
満面の笑みを浮かべる親子の写真。
「はは…ここまで露骨に嫌われると清々しいな」
全ての家族写真の左側に写っていた自身の首から上が見切れていた。
以前、妻の趣味の手伝いで知り合った女性に好意を持った事があり、それに勘付かれて喧嘩したのが原因だろう。
勿論、けじめはしっかりと付けたので、離婚には至っていない。
「それにしても久々だなぁ…」
幸いにも妻の両親が資産家であった為、金銭面での苦労は無く、妻の趣味の手伝いで全国各地を旅する日々。
そんなある日、妻から突然連絡が来た。
『しばらく、家を留守にします。息子をよろしくね。あと、後始末もよろしくね』
息子は近所の祖父母の家に移り住み、転校することなく同じ学校に通っている。
後始末と聞いて思い浮かぶのは一つだけだった。
スーツ姿の男性は二階へと上がった。
二階の廊下に出ると、ドアが三つ。
迷うことなく、右奥、寝室のドアを開けた。
綺麗に片付けられた殺風景な室内。
入口から見て左手のカーテンを勢いよく開くと、裏には折り畳み式のパネルドア。
スーツ姿の男性は胸ポケットからキーケースを取り出すと、パネルドアの鍵を開け、右から左にドアをスライドさせた。
パネルドアの奥はウォークインクローゼットになっており、妻の私服が大量にハンガーにかけられている。
ハンガーを全て右側に寄せ、左奥のスペースに入る。
スーツ姿の男性の目の前には業務用冷蔵庫が設置されている。
キーケースから業務用冷蔵庫の鍵を取り出し、鍵を開けた。
ドアハンドルに手をかけ、ゆっくりと手前に引き、ドアを開ける。
「本当に悪趣味だな…全く理解できない」
業務用冷蔵庫の中は仕切りで上下段に分けられており、それぞれに水槽が置かれていた。
水槽の中には小振りの明太子が、中央を真っ白な糸で結ばれている。
糸の先にはおもりが付けられ、おもりは水槽の一番下に沈み、小振りの明太子は水槽の丁度中央くらいの高さをゆらゆらと揺れている。
小振りの明太子は上下の水槽にそれぞれ二十個程度、各々がゆらゆらと不規則に揺れ続ける。
「そんなに美味しいなら、僕も食べてみようかなぁ…せっかくだし…」
上下それぞれの水槽にはガムテープが貼られ、黒の油性ペンで平仮名が書かれていた。
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【うわくちびる】
【したくちびる】
作者さとる
【関連作品】
お隣さん
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落札者
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【スピンオフ作品】
S美(仮称)
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スカベンジャー
http://kowabana.jp/stories/32854
19年10月怖話アワード受賞作品に選ばれました。
読んで下さった方々、本当にありがとうございました。