「え!?ここなの?」
その建物を見て美咲が声を上げた。
「だから古いって言ったじゃん」
知佳が少し恥ずかしそうに答える。
「マンションじゃなくて団地だよね」
美咲が大きな声で言って笑う。
「美咲声デカイよ。他の住んでる人に聞こえるよ」
と言いながら私も、思ったより年季の入った知佳の新居に少し面食らっていた。
ひび割れたコンクリート剥き出しの外観
4階建、エレベーターはない。
階段が3カ所あり、階段を挟む形で各階に6戸の住居が配置されている。
誰もが見たことのある60年代から70年代のまさに団地スタイル。
別に珍しくもないし、それが悪いわけでは決してないけど、いかんせん女子大生が一人暮らしをしているイメージが湧かない。彼氏と同棲すると言うならまだわかるけど。
大学の周りには学生向けの賃貸マンションが沢山ある。
だいたいが6帖程度のワンルーム。
部屋は余る程あったので、新築でなければ家賃も結構こなれている。
女子の場合、初めての一人暮らしとなると親が一緒に部屋探しにくるケースも多く、オートロックなどのセキュリティに配慮したマンションでないと親が納得しないので、広さよりもそれらを優先した部屋に住むのがほとんどだ。
知佳もそのうちの一つに入学当時から2年住んでいたけど、どうにもワンルームという間取りが狭っ苦しくて馴染めず、契約更新を機にもう少し広い間取りの部屋に引っ越したのだ。
とは言え親の援助が増えるわけではなく、自分のバイト代を少し足した程度では、知佳の望むほどの広い部屋となると家賃が高く予算が足りない。
それでも根気よく物件情報を探し、この際多少古くても妥協して何とか見つけたのが、このだん、マンションだったわけだ。
「で、何階なの?」
「4階」
「4階かい!」
引っ越し祝いと称して、3人で鍋をしようと、近所のスーパーでいろいろな食材やらお菓子やらチューハイやらをしこたま買い込んで、3人とも大きく膨らんだスーパーの袋を手に下げていた。
4階まで階段だと聞いていれば、もう少し加減したのに。
夕暮れ前で外はまだ明るかったが、マンションの階段室の中は薄暗かった。
重い袋を抱えて何とか4階まで上り、お待ちかねの知佳の新居初公開だ。
なるほど中は広かった。
玄関から廊下が続き、突き当たりにダイニング、フローリング6帖の居間と、さらに奥に寝室がある。
間取りで言うと2DKだ。
建物の外観と比べて内装は小綺麗だった。
「本当だ広いね」
「建物の昭和感がすごいから、中は絶対全部畳だと思った」
「うん、元々は畳だったみたいだけどフローリングに変えたみたい」
「あれ!?なに?お風呂もキレイじゃん!?」
「あぁうん、お風呂も工事して新しくなったみたい」
古いなりに大家も入居者を入れようと努力しているようだ。
ワンルームマンションから引っ越してきたとは思えない数の段ボール箱が残る部屋をひとしきり見て、あれこれとはしゃいだ後、
知佳が私に声を掛けた。
「どう?裕美、ここ何かいる?」
他人に見えないものが自分には見えている。
他人に聞こえない声が自分には聞こえている。
それは長いこと秘密だった。
小さいころから、親から見たら何も無い場所を指さしてあれ何?とか聞いたりして、
本当に小さい頃は親も笑っていたが、小学校に上がる頃になると、親は私の言動を怖がった。
学校でも遠足で並んで歩いているときに、みんなには見えない大きな頭の人が立っているのが怖くて立ちすくんでしまい、そのことを先生に話しても分かってもらえず辛かった。
しかも、その後クラスの男子に嘘つき呼ばわりされて悲しかった。
そんなことがあり、いつからか他人に見えないものについて口に出すことはしなくなった。
大学に入学し、周りが一人暮らしを始めたばかりで、自由な生活にはしゃぐ一方で、まだ寂しさや心細さを感じている時期。
何人かの友達が、家に何かいる気がする、なんて言い出した。
内容は些細なものだった。
お風呂に入っているとき、寝ているとき、人の気配や物音が聞こえるような気がするとか、そういう話だ。
じゃあみんなで、お化けがいるか確かめに行こう!
なんて掛け声で、仲良くなったばかりの友達数人とそれぞれの部屋に遊びに行ったりしていた。
そういう子の部屋に行くと、たいがい何かいた。
でもそれは、しばらく空き家だった部屋に住み着いた、悪意の無い何かだ。
悪意もないし、自我があるのかも分からない。ましてや怨念なんて高度なものがあるようには見えない。
人なのか動物なのか、なにかの生き物の類いだとは思うけど、ときどき物音をたてる程度で、こちらからもあちらからも干渉することが出来ない。
それは私からすれば、ほとんど自然現象に近い。
にもかかわらず、その部屋の住人がえらく怖がっているので何か可哀想になって。
つい言ってしまった。
「大丈夫。何か害があるようなものじゃないよ。普通に生活してれば、そのうち向こうが勝手にどっか行くんじゃないかな」
それを聞いたみんなは、へ?という顔になった。
私はすぐに、まずかったかと、自分の発言を後悔した。
でも、その後のみんなの反応は予想とは違った。
割と普通に、私が見えるということを受け入れてくれたようだった。
もちろん、心の中では信じていない子もいただろうけど、とりあえず露骨に怖がられたり、嘘つき呼ばわりされたりすることはなかった。
どうやら私は子供のころの出来事を引きずり過ぎていたのかもしれない。
その後は、こういうことに興味のある子から私が見えているものについて聞かれたときには、ありのまま答えていた。
それ以外のときは今までどおり、何か見えても取り立てて声を上げずやり過ごした。
面白がって私を心霊スポットなる場所へ連れ出そうとする友達もいたけど、私は行かなかった。単純に怖いから。
そんな感じだから、今はもう私が見えることについて、普段話題に上がることもあまりなくなっていたけど、
私たちの間では誰かが引越ししたとき、私がその部屋を確認するということが、なぜか恒例行事のようになっていた。
長く空き家になっていた部屋には、往々にして何か住みついていることがあった。
でも私が見た中で、テレビの恐怖番組に出ているような自殺者の霊とか、地縛霊とか、そう言ったものに遭遇したことはなかった。
そもそも人の死をきっかけにして生まれた存在という概念が私にはよく分からなかった。
私が見るものの中には確かに人の形をしたものもあった。
でも彼らのほとんどは、およそ自我みたいなものがあるようには見えない。
たださまよっていたり、ぼーっと立っていたり。
こちらから話しかけたり、触ったりしただけで消えてしまうようなものばかりだ。
一方、ごく一部ではあるけど意思を持っていると思えるものもいる。
そう言うものは少し怖い。目が合うとしばらくついてきたりする。
少しではあるけど、こっちに干渉してくるものもいる。私のものにさわったり、話しかけてきたりする。
振り払うのには結構時間がかかったりするのだ。
でもせいぜいそれくらいだ。
彼らがいわゆる死者なのだとしたら、死んでも尚、姿を残してまで何をしようとしているのだろう。
私には彼らに「生前の意思」のようなものは感じない。
私の中では、それらの分類はそれが、意思をもっているか持っていないかということがまず第一だ。
意思を持っていないものは、まず気にしなくていい。多少見た目が気味が悪いものとは距離を置く程度で、特に対処の必要はなし。
それらの存在にこちらから近づけば、自然にあっち側が消えてくれる。
臆病な虫みたいな存在だ。
意思を持っていると思われるものに対しては、近づかない、目を合わせない。
慌てて逃げたりすると余計ついてきたりするので、何気なぁく離れるのがコツ。
あいつらは何をしてくるか分からない。
してくることはだいたい不快なことだ。
なので、私が友達の部屋で確認するのは、何かいるのか、いないのか。
いるならそれに対して、意思をもってるものかそうで無いかの判別をする。ただそれだけだ。
「どう?裕美、ここ何かいる?」
答えは、いる、だ。
この部屋に入ってすぐに気配を感じていた。
姿が見えたのは一番奥の寝室に入ったとき、
寝室の引き戸を開けた瞬間に、人影がフワッと押し入れの方へ浮かんで消えた。
一瞬だったけど、大きさから人間の子供の姿をしているようだった。
それが死者なのだとしたら、幼くして命を落とした子供ということなのかもしれない。
そうだとしたらとても悲しいことだけど、私にはそれがピンと来ない。
今の人影も私たちの存在が近づいたら、逃げるように自然に消えた。
私は、彼らが私たちとは少しズレた世界に生きている生き物のように感じるのだ。
「何もいないよ」
私は知佳に、いつも他の友達にするように答えた。
そもそもお互いに干渉出来ないような薄い存在なのだ。
下手にいるとか言って怖がらせるよりも、いないと言ってあげた方が安心するだろうと思って、いつもそうしている。
「よかったぁ!寝てるときに家鳴りっていうの?床がミシミシ言ったりするからちょっと怖かったんだよね、本当に何もいないよね?」
「大丈夫だよ。いないよ。古い建物みたいだから、家鳴りくらいするんじゃない」
私は笑って答えた。
知佳も安心したようだった。
3人でワイワイと鍋を囲んでいるときも、さっきの子供の気配はときどき感じていたが、お酒が入り、普段から声の大きい美咲の声がさらに大きくなってきたころには感じなくなっていた。
私たちがあんまり騒がしいので、もうどこかに行ってしまったのかもしれない。
夜も更けてきて、一番お酒に弱い知佳が静かになってコックリコックリしだしたので、
私が食器を片付けて、美咲が布団の用意をし、知佳は寝落ちする前に風呂に入れと指示を出した。
知佳は、ふたりともごめんねぇとかムニャムニャ言いながら風呂場に入っていった。
ところが、しばらくして風呂場に入った知佳が居間にトコトコと戻ってきた。
そして居間の真ん中で立ち尽くしている。
私も美咲も、ん?という顔でしばらく知佳のことを見ていた。
少し抜けたところのある子だから、何かお風呂に持っていくものを忘れて取りに来たとか、何を忘れたのか忘れたとか、そんなことかと思っていた。
しかし知佳は意外なことを言い出した。
「外いこうよ」
「え?なんで?」
もう夜の0時近い。
こんな時間にどこに行こうというのか。
「ねぇ、外行こう」
知佳が美咲の袖を掴んだ。
「何この子?寝ぼけてるの?」
私は皿を洗い終わり、知佳に問いかけた。
「コンビニでも行きたいの?」
「・・・そう、コンビニ行こう」
明らかに様子がおかしい。
でも逆らってもしょうがないし、
外の空気を吸えば正気に戻るかなと思ったので、私と美咲は知佳の言う通り、外に出ることにした。
「しょうがないなー、明日の朝のヨーグルトでも買いに行くかー」
美咲が笑いながらコートに袖を通しているうちに、
知佳は玄関に行き靴を履いている。
「ちょっと知佳!上着着ないと寒いよ!」
私の呼びかけに振り向きもせず、知佳は玄関のドアを開けて外に出て行った。
「もう、どうしちゃったのよあの子」
「美咲、知佳のコート持ってきて」
私は美咲にそう言って、先に知佳を追いかけて外に出た。
玄関ドアを開けると、知佳は4階と3階の間の階段の踊り場を折り返すところだった。
無表情で、ゆっくりとした足取りで階段を降りてゆく。
「知佳!ちょっと待って!」
私は知佳を追いかけて階段を駆け下りた。
そして踊り場のところで折り返した。
3階まで降りた知佳の後ろ姿が見えた。
そこで、知佳が立ち止まった。
そして消えた。
体全体が、黒い小さな粒々になって、
粒が霧散するようにいなくなった。
私は訳が分からず呆然としていた。
「裕美、、知佳は?」
知佳のコートを抱えた美咲が出てきて、私のいる踊り場のとこまで降りてきた。
霧散した黒い粒は、まだ辺りに漂っていた。
階段の古い蛍光灯の光では良く見えなかったが、米粒くらいの小さなものから、500円玉くらいの大きさのものまで、まるで生き物のように動き回っていた。
ガチャ
その時、知佳の部屋の玄関のドアが開いた。
私も美咲も驚いてドアの方を見た。
20センチ位開かれたドアの隙間から、
子供がこっちを覗いていた。
いや、よく見ると子供じゃなかった。
背格好は子供だけど、体も顔も真っ黒だった。
目や口はないが、顔の目や口と思しき場所に窪みがあった。
眼球の無い目の窪みはじっとこちらを睨んでいるようだった。
表情は無いが、私にはそれがこちらに憎しみと敵意を向けていることが伝わってきた。
恐ろしかった。
その子供らしきものは、先程寝室で見た姿とは全く違う姿だった。気配も部屋の中で感じていたものとは似ても似つかない不快なものだった。
外に漂っていた黒い粒が集まって、その子供らしきものの体に吸い込まれていった。
まるで元々それの一部だったように。
無表情な顔が、少し波打ったように見えた。
そのとき分かった。
真っ黒いその子供らしきものは、黒い小さな虫が集まった集合体だった。
無数の虫たちが、それの顔と体の表面で蠢いていた。
その集合体は、顔の部分に私を睨む目と、何か言いたげに開けた口を表現したまま、ドアを閉めて部屋に入っていった。
ガチャン
ドアが閉まった瞬間、私は体が激しく震えて
その場に座り込みそうになった。
とにかく今までに感じたことのない恐怖だった。
美咲が尋常じゃ無く震えている私の体を支えてくれた。
「何?なんでドアが開いたの?知佳はどこいったの?」
美咲には見えていなかったらしい。
私が追いかけた知佳は、知佳じゃなかった。
私たちのいる踊り場から、知佳の部屋のお風呂の窓が少し見える。
もちろん知佳の姿は見えないが、風呂に電気がついていて、かすかにシャワーの音が聞こえる。
「え?知佳、お風呂にいるの?」
独り言の様に呟いた美咲の声も震えていた。
私が何も言わないので、美咲は階段を上り部屋に入ろうとした。
「ダメ!部屋に入っちゃダメ!」
私に止められて美咲は振り返り、戸惑った表情をしている。
「え、でも、知佳が」
分かってる。分かってるけど、アレの敵意は美咲にも向けられていたと思う。
アレは私たちを欺いて外に追い出した。
今美咲が部屋に戻るのは危険な気がした。
かと言って自分自身はもう、恐怖に震えて部屋に戻ることは出来そうにない。
知佳のことが心配だけど、ダメだった。
あの真っ黒な無表情な顔を思い出すとどうしても知佳の部屋に近づけない。
そのとき、突然美咲が大声で叫んだ。
「知佳ー!!聞こえるー?!」
夜の闇に美咲の声が響き渡った。
「知佳ー!!ねぇー!!」
「知佳ー!!」
私も叫んだ。
なぜか涙が出てきた。
たぶん恐怖と、知佳が心配なのと、知佳のところに行けないことが申し訳なくて。
シャワーの音が止まった。
しばらくして再び玄関のドアが開いた。
体から湯気を立ち上らせた知佳が顔を出した。
「え?何?なんで外にいるの?」
それから後も大変だった。
とりあえず出て来いと言われた知佳は、訳もわからずドライヤーもそこそこに外に出てきた。
私は迷ったが、見たことを二人に話した。
美咲は見えていなかったが、あの開いた玄関ドアのところにそんなものがいたのかと青ざめた。
知佳はもっと狼狽していた。
そりゃそうだ。一人暮らしの自分の部屋に黒い虫の集合体のお化けがいるなんて。
怖くて部屋に戻れない3人は、すぐ近くに住む先輩になんとか連絡をとり、先輩の部屋に転がりこんだ。
次の日になっても知佳は部屋に戻ることを怖がった。
私は何だか責任を感じて、しばらく知佳を家に泊めることにしたが、知佳はどうしても着替えなどを部屋に取りに帰らないといけない。
ここは人数でカバーするしか無いと、男も含めた友達5人程を集めてみんなで知佳の家に行くと言うことになった。
美咲も一緒に行くと言ったが私が止めた。
何となく、アレは知佳には敵意を向けていないような気がした。
それがいいことか悪いことかは分からないけど。
それ以来、私は今まで特に気にしていなかった、一見意思を持っていないと思われるものにも警戒心を持つようになった。
本当に怖いものは、一見無害なものに紛れていると言うことが分かったから。
彼らは私が思っている以上に狡猾で、悪意を持っているのだから。
作者エスニ
はじめて女性を一人称にして書きました。
へんなところがありそうな気がします。
気づいたところが有れば指摘して頂けると嬉しいです。