中編7
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羊革の手袋

─寒い日はどうして、こんなにも空が鮮明なんだろうか?

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今日は、鉛色の海に無数の宝石をこぼしたような夜空だ

あの大小様々な青白く瞬く星たちのどれかに今、瑠美子はいるのだろうか?

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それとも、、、

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パジャマの上からガウンを羽織った灰原は、マンションの狭いベランダの手すりに両手を乗せて、頭上に広がる夜空を眺めながら一人考えていた

11月も終わりになると、さすがに吹く風も冷たい

8階の角部屋となると、なおさらだ

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目線を下に移すと、何処までも連なる黒い山の端の隙間から真ん丸な白い月が覗いていた

そこから広がる無数のビルや民家の光、そして車のヘッドライトたちが、呼吸するかのように明滅している

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─あのビルや民家の明かり一つ一つの中に、それぞれの生活があるんだろうな

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などと感傷的なことを考えていたら、灰原は今晩も死ねなかった

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彼はベランダのサッシ戸を開けてリビングに戻ると、ドスンと乱暴にソファーに体を投げ出した

それからしばらくじっと天井を仰いだ後、ふと目の前のガラステーブルに置いてあるミニカレンダーに目を移す

11月の1日から28日まで全ての日付に、赤ペンでばつが書かれている

そしてカレンダーを手に取り、

─瑠美子ごめん、また、そっちには行けなかったよ

と呟くと、29日のところにも赤ペンでバツを書き込んだ

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その時だ

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コトン、、、

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隣の和室から何か音が聞こえてきた

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─何だろう?

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歩いて障子を開けて中に入り、電気を点けてみる

殺風景な畳部屋の角には、小さな仏壇が一つ

立て掛けた遺影の中で、艶やかな茶髪に小麦色の肌の健康的な女性が、楽しそうにVサインをしている

遺影の前には、羊革の手袋がきちんと重ねて置かれていた

その両脇に置いてある白い花の入った花瓶の一つが横倒しになっていた

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─地震でもあったかな?

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花瓶を立てて花を整えて、灰原はふと遺影に目を移し、こう思った

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「命」というのは、こんなにも呆気なく消えてしまうものなんだろうか?

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10月4日、、、それは、灰原と瑠美子の初めての結婚記念日だった

その前年の同じ日に、灰原勇次29歳と瑠美子24歳は、永遠の愛を誓い合ったのだ

前月の頭には瑠美子が妊娠していることが判明していた

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記念日は百貨店に行き、お互いのプレゼントを買った

灰原は羊革の手袋を、瑠美子はマフラーを

その後彼は瑠美子に付き添い、二階にあるベビー用品売場まで歩く

子供のようにはしゃぎながら、乳児用の服を選ぶ瑠美子を見ながら、彼は小さな幸せを感じていた

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それから二人は最上階にあるレストランに行った

夜景の見えるカウンター席に並んで座ると、そこで互いにプレゼントを交換する

羊革の柔らかい感触を確認するかのように、手袋を頬にあてて瑠美子は満足げに微笑んでいた

それからコース料理を堪能した後、コーヒーを飲みながら夜景を眺めていると、彼女は奇しくもこう言った

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「ねぇ、魂って、あるのかな?」

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灰原は瑠美子のあまりの唐突な質問に面食らい、

「急に何を言い出すんだよ?」

と、逆に質問する

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「ごめんね、変なこと聞いて

あのね、ここ最近ずっと幸せなことが続いているじゃない

そんな時って、いつかまた不幸なことが起こるんじゃないか?って、私そんなことを考えてしまうのよ

それっておかしいかな?

それでね、ふと、ある日突然死んじゃったら、どうなるのかな、と思ったのよ」

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瑠美子は微笑んでいたが、その目は半分真剣だった

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「そんなこと、分かるはずないけど、死んじゃったら電気消したみたいに、ずっと真っ暗なんじゃないか?」

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彼は思ったとおりのことを、そのまま言った

すると瑠美子は少し困ったような顔をしながら、こう言った

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「もう、ロマンチックじゃないなあ、勇次は

俺たちが死んだら、あそこにある星のどれかになるんじゃないかな?くらい言って欲しかったんだけど」

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「ごめん」

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灰原はわりかし真面目に謝った

すると瑠美子はさも可笑しそうに含み笑いしながら、言った

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「フフフフ、、、

別に謝らなくてもいいんだけど

ただ勇次の言うみたいに、電気消したみたいにずっと真っ暗というのも嫌だなあ」

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「どうして?」

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「だってそしたら、もう勇次に会えなくなるじゃない?」

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「じゃあ瑠美子は死んじゃったら、どうなるというの?」

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彼女はしばらくうつむいてから、真っ直ぐ灰原の顔を見ながら、こう言った

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「真っ暗なところは寂しいから、わたしは魂になって、ずっと勇次のそばにいるね」

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瑠美子はカウンターに置かれた灰原の手に、白い手を重ねた

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その翌日のことだ

昼休みに会社の渡り廊下で灰原が同僚と談笑していたときだった

いつも柔和な笑顔の総務課長が珍しく仏頂面で歩いて来て、すぐに会社を出なさい、と言った

灰原が「何でですか?」と聞くと、

奥さんが交通事故みたいだから、すぐに病院に行きなさい、と言う

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会社の玄関を出てタクシーに飛び乗ってからは、目まぐるしく時間が過ぎていき、結局最後に灰原は集中治療室入口横のソファーに座っていた

2時間近くがもどかしく経過し、ようやく入口ドアが開くと、青い手術着の若い執刀医が現れる

青ざめた顔で駆け寄る彼に、医師はゆっくり首を横に振った

灰原はガクリとその場に膝まずき、呆けたような目で天井を見上げた

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彼女には何の落ち度もなかった

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記念日の翌日のあの日

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玄関先で灰原を見送った瑠美子は、いつも通り掃除、洗濯をして、家で昼食を済ませた後、外出する

近くのスーパーで買い物をし、コンビニに立ち寄り、雑誌を立ち読みしていた時だ

突然黒い軽自動車が猛スピードで、正面から突っ込んできた

車は本棚をなぎ倒し、その先の陳列棚に衝突すると、ようやく停止したそうだ

倒れた本棚と床の間に挟まれていた瑠美子、大破した車から引っ張り出された運転手、二人はすぐに救急搬送された

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運転していたのは82歳の男性だったらしく、ブレーキとアクセルを踏み間違えたということだった

かなりの重症だったが、意識は取り戻したらしい

しかし、瑠美子は、、、

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小さな仏壇の前に正座して、灰原は遺影に声をかける

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「瑠美子、今、何処にいるんだ?

そっちは楽しいのか?」

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瑠美子は昔のままの優しい微笑みを浮かべながら、Vサインをしているが、もちろん決して動くことはない

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時刻はもう2時を回ろうとしていた

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彼はよろけるように立ち上がると寝室に行き、電気を消すと、ベッドの中に潜り込んだ

瞳を閉じて眠りにつこうと思うのだが、なぜか頭は冴え渡り、意識は微睡みの泉に沈もうとしない

しばらく暗闇の中、天井辺りをじっと睨んでいると、

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ジャーーーーー、、、、、

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何処からか、水道の音が聞こえる

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「あれ?今日は台所、使ってないのになあ」

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気になった彼は起き上がり、ベッドを降りると、寝室を出てリビングのドアを開き、電気を点ける

それから左手にある台所の方に行く

やはり、水道が出っぱなしになっていた

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彼はコックを締めるとリビングに行き、テーブルの椅子に座ると、明るくなった部屋の中をぐるりと見回してみる

そこにはいつものテーブル、いつものソファー、いつものテレビがあるだけだ

何の変化もない

しいて違うところと言えば、サッシ窓のガラスに寒さからか霜がおりているくらいだ

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─やっぱり俺、何だかおかしいよな

神経が過敏になってるみたいだ

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灰原が苦笑しながら何げなく前を見たときだった

一瞬で冷たい何かが背中突き抜ける

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「おい、嘘だろ、、、」

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テーブルの上には、、、

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羊革の手袋が一組、きちんと重ねて置かれている

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彼はそれを胸に抱くと、

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「瑠美子、瑠美子、いるのか!?」

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と叫びながら、おろおろと部屋中を歩き回った

テーブルの下、カーテンの向こう側、テレビの後ろ側まで見て回る

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だが、やはり誰もいなかった

彼は手袋を抱いたまま、どすんとソファーに体を預けると、天井に向かって叫んだ

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「瑠美子!いるのか!いるのなら、何か返事してくれよ!」

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彼はしばらく、じっと耳を澄ました

だが、何の返事もない

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すぐに立ち上がると、今度はサッシ窓を乱暴に開けベランダに出た

途端に冷たい風が一気に体を冷やす

そして満天の星空を見上げ、

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「瑠美子!いるのか!いるのなら、何か返事してくれよ!」

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と叫んだ

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そしたら、何処からだろう?微かに女性の含み笑いが聞こえてくる

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フフフフ、、、

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「瑠美子!?」

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思わず振り返った瞬間、彼の目は霜の降りたサッシ窓に釘付けになった

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それは不思議な光景だった、、、

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窓全面を隈無く覆った細やかな水滴の上から、まるで誰かが指で文字を書いているかのように、少しずつ文字が出来上がっていく

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、、

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、、、

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、、、い

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、、、い、

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、、、い、、

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、、、い、、、

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、、、い、、、る

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、、、い、、、る、

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、、、い、、、る、、

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、、、い、、、る、、、

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、、、い、、、る、、、よ

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灰原は手袋を握りしめながら、その見覚えのある丸文字に向かって何度も何度も頷いていた

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Fin

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Presented by Nekojiro

Concrete
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ネタバレ注意
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悲しい物語ですが、奥様が見守っていると分かりました。ある意味心に染みました。
東池袋の暴走事故を連想しました。
事故現場は、自分もたまに通ります。事故現場では手を合わせてご冥福をお祈りしてきました。

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