薫さんは昔から泳ぐことが得意だった。
海沿いの地域に住んでおり、漁師をしている父から、泳ぎを叩き込まれた。学校の遠泳大会でも上級生を押し退ける勢いで追い抜き、毎回一番だったそうだ。
そんな薫さんが体験した奇妙な話だ。それは高校2年の夏休み直前。毎年恒例の遠泳大会が行われた時のことだ。前年の大会でもダントツの一位で優勝した薫さんは、今回も自信たっぷりに参加した。上級生達も「あいつには敵わない」と弱気な顔をしていた。それが余計に自信に繋がった。
海に入り、スタートの合図が鳴った。数キロほどの遠泳。先導する教師達のボートを目標に近くの島まで泳いで向かう。薫さんは最初から先頭を切り、後方をどんどん離していった。「みんな情けないな」そんな余裕な気持ちもあり、泳ぎを緩めた。その時、前方に何かが見えた。
顔は見えないが、日に焼けたような黒い背中が見える。「いつのまに」薫さんは焦り、泳ぎを速めた。しかし、なかなか距離が縮まらない。悔しさで息が荒くなった。どんな泳ぎ方をしてるか分からないが、黒い背中だけが浮いたり、沈んだりしているのが見える。ふと彼は我に返った。
辺りを見回すと先導しているはずの教師達のボートが見えない。コースは前もって決められている。距離も驚く程、長いわけでもない。しかし明らかにコースがズレていた。そしてこのまま進むのは危ういことに気づいた。父かな「潮の流れが強くなる場所」を幼い頃から聞いていたからだ。その場所に近い。薫さんは立ち泳ぎをしながら黒い背中を眺めた。
それはどんどん、その潮の流れに乗り、消えていった。拡声器で薫さんを呼ぶ教師の声が聞こえる。潮の流れから離れ、風にかき消されそうな声に向かい泳いだ。何とか合流したが、遠泳大会の優勝は既に別の者が取っていた。教師によれば突然、薫さんがコースから外れ、別の方向へ泳いで行ってしまったと話した。まるで何かに誘導されるよう。別のボートを呼び、自分達は彼が泳いだ方向へ向かったそうだ。同級生からは茶化されたり、心配をされた。薫さんは遠泳前に大見得を切った手前、恥ずかしかったそうだ。その気持ちが強く、あの黒い背中のことは「流木か何かだったのだろう」その程度に思うようにした。
翌日、漁師の父から「岸に土左衛門があがった」という話を聞いた。死体はどうやら随分前に行方不明になっていた観光客だったそうだ。
地元民の話を聞かず沖まで泳いだ。そのうち「潮の流れが強くなる場所」に入ってしまい飲み込まれたのかもしれないと父は話した。死体は黒くくすみ、茹であがったように膨らんでいたそうだ。それを聞いて薫さんは昨日の出来事を思い出した。「もしかしたらあれは亡くなった観光客だったのか。自分を道連れにするために現れたのかもしれない」そう思うようになった。それから高校を卒業し、父の跡を継いで漁師になった。未だにあの潮の流れに飲み込まれ、亡くなる人間が後をたたない。
その死体は何故か黒くくすみ、茹であがったように膨らんでいるそうだ。当時思った考えは、今打ち消されている。一人で漁に出ていると、時折、前方にあの黒い背中が、プカプカ浮かびながら現れる。こちらは船だ。スピードを上げ追うが、追い抜くどころか、距離さえ縮まらない。気づけば、「あの場所」だ。この存在は「亡くなった観光客」ではない。きっと観光客もこいつを追って死んだに違いない。父や他の漁師に聞いても、そんなもの見たことはない。と言うだけだ。自分にしか見えない「海に住む何か」なのだろう。薫さんは語った。
作者夕暮怪雨