今日も彼女は向かい側のホームのベンチに座っている。
さっきまであのホームに彼女はいなかったはずなのに・・・
彼女をホームで見かけるようになった時期ははっきり覚えている。
三週間前の木曜の夜からだ。
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◇◇◇◇◇◇◇◇
俺は都内にある商社に勤め、入社以来ずっと工業製品の輸出営業を担当している。自分で希望した部署であり、やりがいもあるし、仲間達とも楽しく仕事が出来ており、充実した毎日だ。
ただ海外相手の仕事であり、相手との時差の関係で帰りが深夜になってしまうことも多く、特に米国とは打合せが深夜帯に及びやすく、米国東海岸にある提携会社との定期的な週次のミーティングは、ほぼ確実に終電になってしまう。
この会議はこれまで火曜の夜に設定されていたのだが、相手方の担当が変わった都合で三週間前から木曜に変更されたのだ。
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◇◇◇◇◇◇◇◇
間もなく終電が到着する時間、人もまばらな改札を抜け、高架となっているホームへ出る階段を登る。
この駅は線路が直線のまま上り下りのホームが向き合う形になっており、線路と反対側はずっと壁で、様々なポスターが貼られ、ベンチと共に所々飲み物の自動販売機が置かれている。
ホームに出る階段は上り電車の前方側、下り電車の後方側のみであり、下り電車で帰る俺は自宅の最寄り駅の階段が近いため、ホームに出たすぐの位置で車両に乗り込むのだ。
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◇◇◇◇◇◇◇◇
三週間前、新しいメンバーでの会議を終えて、足早に駅へ向かいホームに到着したのは終電の三分前だった。
時計から顔を上げ、何気なく向かい側のホームを見るとやや斜め前に置かれた自動販売機の陰にあるベンチに、グレーの事務服を着た女性がぽつんとベンチに座っていた。
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上りのホームにいるのは彼女ひとりであり、このあとまだ上り電車が来るのだろうかと思ったところで、下り電車がホームへ滑り込んできたため彼女の姿は見えなくなった。
そして二週間前、先週と、彼女は必ず同じ場所にひとりで座っていた。
火曜にミーティングが設定されていた時には彼女を見掛けたことはなかったと思う。
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そして先週の金曜は別の仕事で終電になったのだが彼女の姿はなかった。
どうやら彼女がこの時間あのベンチに座っているのは木曜だけのようだ。
電車に乗り込んだ俺はふと気になって、スマホを取り出すと上り電車の終電の時間を調べてみた。
すると上り電車は、俺が乗る下り最終の五分前に終わっている。つまりあの女性は来ない電車を待っているということになる。
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そして今日は、週末からゴールデンウィークに入ってしまうこともあり、ミーティングを少しだけ早く終わらせて駅へと向かった。
やはり彼女はそこにいた。
そしてその顔を上げてじっと俺の方を見ている。
彼女の顔をもう少しはっきり確認したかったのと、本当に俺の方を見ているのか確かめるために、彼女の正面までホームを移動した。
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セミロングのストレートヘアで、丸顔の優しそうな顔立ちだがその顔に見覚えはない。しかし彼女はホームを移動する俺を目で追ってきた。そして彼女が何か言いたげに口元が少し動いたところで、警笛と共に電車が目の前に滑り込んできた。
開く扉を待つのももどかしく感じながら電車に飛び乗り、反対側のドアの窓に駆け寄って彼女の姿を探したが、いつの間にか彼女の座っていたベンチにその姿はなかった。
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ガラスにおでこを押し付けて見える限りの上りホームを確認したが彼女の姿は何処にもない。
その間ほんの十数秒だ。どこかに立ち去ったのではなく、消えてしまったとしか思えない。
電車が動き出し、ガラスの向こうにホームが見えなくなったところで俺はガラスからおでこを離した。
終電のこの時間になると線路沿いの建物の灯りもまばらになっており、駅を離れた窓の外はもう真っ暗だ。
そして代わりにガラスに映る明るい車内に目の焦点を合わせたところで気がついた。
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車内は空いているのだが、ドアを向いている自分の背後、斜め後ろの席にグレーの事務服を着た彼女が座ってこちらを見ている姿が映っているではないか。
驚いて振り返ったがその位置には誰も座っていない。
もう一度ガラスに映る車内を見ると、もうそこには誰も座っていなかった。
(目の錯覚か・・・疲れてるのかな。)
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そう思い、いま女性が座っていたように見えた座席の前まで移動してシートを眺めたが何も変わったところはない。
ため息をひとつ吐いて腰を下ろした。
「うわっ!」
座った瞬間、背筋に強い悪寒が走り、思わず声をあげて座席から飛び上がった。
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周囲に座っていた数人の乗客が何事かと一斉にこちらを見たが、特に変わったことのない様子に、すぐに興味を失ったように皆一斉に自分の手に持ったスマホや本に視線を戻した。
今座ろうとした座席を見ても特に変わったところはない。
手で触れてみても濡れているわけでもなく、何かがあるわけでもない。いつも通りの普通のシートだ。
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もう一度ゆっくりと同じ場所に座ってみると今度は何事もなく座ることが出来た。悪寒も感じない。
さっきの悪寒は一体何だったのだろう。
シートの背もたれに身を預けて顔を上げると、正面の窓ガラスに俺の顔が映っている。
少し疲れた深夜の俺の顔だ。
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しかしよく見ると俺の後ろの窓ガラスに薄ぼんやりと何かが映っている。後ろを振り向いても普通の窓ガラスで何も変わったところはない。
もう一度正面を向いて映っている窓ガラスを確認してみた。
最初は陽炎のようにぼんやりとしていたそれが徐々にはっきりと見えてきた。
それはどうやら背後のガラスに映っているのではなさそうだ。
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どのようになっているのかは解らない。しかしそれは俺と背後のガラスの間の狭い空間に存在し、俺の背後から前へ腕を俺の肩に乗せ、俺の頬に顔を寄せてきている。言わば俺におんぶしている格好なのだが、俺は背中を座席にぴったりつけて寄り掛かっているのだ。
鏡に映ったその顔は先程ホームにいたあのグレーの事務服の女性のように見える。
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恐る恐る横目で自分の顔の横にあるその女性の顔を見ようとするのだが、俺の顔の横には何も存在していない。そしてガラスに映る彼女は背後から肩に乗せていた腕を俺の首に巻きつけてきたのだが、その感触も重量感もない。
恐怖と混乱でそのまま声も出せずに固まってしまったのだが、せめてもの救いはガラスに映る横から俺の顔を見ているその女性の顔が先程見掛けた通り優しい顔立ちをしており、うっすらと笑みを浮かべているようにも見える。
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もしこれがテレビやホラー映画で見るような恐ろしい顔をしていたら、恥も外聞もなく俺は悲鳴を上げて車内を逃げ回っていたかもしれない。
彼女がいきなりではなく、少し離れた向かい側のホームに姿を見せた後に近づいてきたということもあるのだろう。
必死に彼女の顔を思い出そうとしてみるが、全く記憶にない。
しかし彼女が着ているグレーの事務服には見覚えがあった。
会社のある駅を出てすぐのところにある、南多摩ハウジングという不動産屋の社員が着ている服で、薄いブルーのブラウスと一体になった胸元のリボンが特徴的だ。
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それなりに規模の大きな不動産屋であり、今住んでいるアパートも半年ほど前にそこで見つけた。常時四、五人の女性店員がフロアにいたが、この女性もそのひとりなのだろうか。
しかし俺があの店で世話になった時は違う女性だったし、この背後に貼りついている女性が店の中にいた記憶もない。
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(一緒に帰りましょうね。)
降りる駅まであと一駅。
電車を降りるまでの辛抱だと、何の根拠もない目標にすがってじっとしていた俺の耳にささやくような声が聞こえた。
一緒に帰るということは電車を降りてもついてくるということなのだろうか。
根拠のない目標を不安が押し潰していく。
いったいこの女は誰なんだ。
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そこで俺はふと思いついた。写真を撮ってあの不動産屋の誰かに見せればこの女が誰なのかわかるかもしれない。
上着の内ポケットからスマホを取り出すとストロボをオフにして正面のガラスにカメラを向けて写真を撮った。
写真を確認すると俺の顔の横にしっかり女の顔が映っている。
(うふふふ)
まるで写真に写ったことが嬉しいように俺の顔の横で微かな笑い声がした。
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降車駅に到着し、座席から立ち上がると背中に女を背負っているという感覚は全くない。しかし窓ガラスに映る自分の姿を見ると女はしっかり背中に貼りついている。
普通、背中に誰かを背負うとその重量バランスを取るためにやや前屈みの姿勢になるものだが、俺は真っ直ぐに立ち手を添えているわけでもない。女はおんぶされているというよりも背中に貼りついているという表現がぴったりだ。
そしてそのまま電車を降り、改札を抜けた。
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終電であり、改札を抜けたのは俺の他に数人しかいなかったのだが、女を背中に貼りつかせた状態の俺を誰も振り向かなかったし、改札を通過する時に駅員も何も言わなかったことからすると、この女の姿は他の人には見えていないのだろう。
もう深夜であり、背中の女をどのように振り祓ったらいいのかもわからないので、とにかく自分のアパートへと向かった。
アパートは駅から徒歩十分ほどのところにあるのだが、歩いているうちに少しずつ背中の女の存在を感じるようになってきた。
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首に抱きついている腕、背中に当たる胸、胴を締め付ける脚、そして頬に当たる髪の毛の感触。
アパートに近づくほどにその感覚は強くなり、背中に圧し掛かる女の重量が増してくる。それに従って俺も少しずつ前屈みになり、アパートの階段の下に着く頃には、無意識のうちに女が背中から落ちないよう女の尻を両手で支えるようにして歩いていた。
しかしそれらは依然として触感だけで、首に巻きついている腕も、顔の横にあるはずの頭も全く見えない。
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そしてアパートの二階にある自分の部屋に到着し、鍵を開けて部屋に入った途端、背中がすっと軽くなった。
(ただいま)
何処からともなく、小さく囁くような女の声が聞こえた。
ただいま?
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俺は急いで部屋の照明を点けると部屋の奥の窓に掛かるカーテンを開けた。
外は真っ暗であり、窓ガラスには部屋の中がはっきりと映っている。
そのガラスに映る部屋の中をゆっくりと見回してみたのだが、部屋の中には俺以外誰もいない。
俺が背負ってきた女はこの部屋の中にいると思ったのだが。
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俺の部屋は玄関を入ると、六畳のダイニングキッチン、そして奥に八畳の居間がある1DKの間取りだ。
しばらく様子を見ていたが、女の気配はない。
取り敢えず服を脱いでユニットバスに飛び込んだ。ざっと体を洗っていると、泡だらけの背中を何かがぬるっと滑って行った。
驚いて後ろを振り返ったが誰もいない。
そのあたりの空間を手で探ってみたが何かに触れることもなかった。
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気のせいだったのか、それともあの女がここにいるのだろうか。
シャワーから出てスウェットに着替えるとキッチンでヤカンに水を入れて火を点けた。
普段は終電で帰ってくると駅前のコンビニで弁当を買って帰ってくるのだが、今日はそれどころではなかった。
今日は買い置きのカップラーメンで済ませるしかない。
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冷蔵庫から缶ビールを取り出し、テレビを点けるとカップラーメンの包装を開け、ちょうど良いタイミングで湧いたお湯を注ぐとそれを持ってテレビの前のカウチに座った。
会議で帰りが遅くなった日の翌日はフレックスタイムを使い、二時間遅い出社にしているため、早く寝なければならないという切羽詰まった気持ちは全くない。
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シャワーから出て喉が渇いていたこともあり、カップラーメンが出来上がる前に、まず缶ビールを一本開けた。
そして二本目を取りに立ち上がり、戻ってくると今まで座っていたふたり掛けのカウチの片側が丸く沈んでいるのに気がついた。独り者の俺はいつも真ん中に座るため、先ほどまで俺が座っていた跡ではない。
あの女が座っているのだろうか。
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自分で背負って帰って来たのだから当然と思うところのあったのか、一本目のビールの酔いもあるのだろうか、恐怖感は全く湧かず、ああ、彼女はあそこに座っているんだな、平然とそう思っただけだった。
そして俺は缶ビールをもう一本持ってくると、栓を開けて彼女が座っていると思われる前に置いた。
「どうぞ。」
もちろん返事はないが、俺はカウチのへこんでいる横に腰を下ろすと、テレビを見ながらラーメンを食べ始めた。
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彼女が話しかけてくるわけでもなく、彼女の前に置いた缶ビールが宙に浮くこともないまま、俺は黙々とラーメンを食べ、テレビの画面を眺めながら二本目の缶ビールを飲み干した。
「飲まないのなら貰うね。」
俺はそう言って彼女の前に置いた缶ビールに手を伸ばした。
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「?」
カラだった。一瞬驚いたが、やっぱり彼女はここに座っているんだ、と何故か妙に浮かれた頭で考え、冷蔵庫からさらに二本の缶ビールを持ってくるとまた彼女の前に一本置き、自分でも三本目の栓を開けた。
「ねえ、さっきは電車の窓に映っていたのに、何でここでは窓ガラスにも映らないの?」
目に見えない彼女に話しかけてみるが返事はない。
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「ちぇっ、無口なんだね。」
そう言った途端にテーブルの上に置いてあるスマホがコトリと動いた。
「そっか、写真になら写るかな。」
テーブルの上からスマホを取り上げると、いかにも彼女が隣にいるかのように自撮りしてみた。
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すぐに写真を確認すると俺の隣にはグレーの事務服姿で座る彼女がカメラを向いて微笑んでいた。
かなり可愛い。
直接目に見えないが彼女はここに座っているのだ。
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ふと先ほどアパートの階段を登っている時に、彼女のお尻を支えた手に感じていた柔らかい感触が蘇った。
ここにいる彼女の姿は目に見えないが、触れることは出来るのではないか。
今撮った写真を思い浮かべながら、恐る恐る彼女の肩の辺りに手を伸ばした。
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触った。
暖かいとか冷たいとか温度の感覚はないが、手を押し付けてみると確かにあの事務服であろう布の感触とそれに包まれた彼女の肩の存在が手にはっきりと感じられる。
(電気を消して)
またどこからともなく、囁くような声が聞こえた。
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それを聞いて、彼女は反対側のホームの比較的薄暗いベンチに座っていたことを思い出した。明るい場所では見えないのだろうか。
立ち上がって壁にあるスイッチを切りカウチを振り返った。
まだテレビが点いており、暗い部屋の中でカウチ周辺を薄明るく照らしているのだが、カウチに座る彼女の姿が薄くぼんやりとそこにあった。
カウチの上で脚を折り曲げて横座りし、俺の方を見て微笑んでいる。
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俺は再び彼女の横に腰を下ろし、テレビも消した。それでもカーテンを開けてある窓から差し込む外の灯りで真っ暗と言う訳ではないのだが、彼女の姿はさらにはっきりと見えた。
「君は誰なの?」
俺の事をじっと見つめている彼女に問い掛けたが返事はない。
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「何故俺についてくるの?」
質問を変えてみたが、結果は同じ。彼女はにこにこと俺の顔を見ているだけだ。
彼女がこの世の存在ではないことは間違いない。
せめてこちらの問いに対して受け答えしてくれれば良いのだが、黙って座っていられるだけではどう扱って良いのか全く分からない。
時計を見るともう午前二時を過ぎており、かなり眠たくなってきた。
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さすがにそろそろ寝ないと仕事に差し支える。相手が幽霊であっても、何も害がないのであればこのまま放っておいてもいいだろう。
「それじゃ、寝るね。おやすみ。」
カウチから立ち上がると目覚し時計をセットして、ベッドの中に潜り込んだ。
普段は一本飲んで寝てしまう缶ビールを三本も飲んだこともあって、横になるとすぐに強烈な睡魔が襲ってきた。
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目を瞑り脳みそに幕が下りてくるような感覚に襲われ眠りに落ちようとした時、いきなり布団が持ち上げられ横に誰かが滑るように入って来たのが分かった。もちろん先程の彼女に違いない。
彼女は横臥して寝ている俺の前に体を横たえると俺に抱きついてきた。無意識にその体を抱き返すと手のひらに滑らかな背中の肌の感触があり、彼女が一糸まとわぬ姿であることが判った。
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普通であれば歯止めが効かない状態になりそうなものなのだが、とにかく強い睡魔に勝てず、滑らかな彼女の体を抱きしめると、あっと言う間に眠りに落ちていった。
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◇◇◇◇◇◇◇◇
朝になり目覚し時計に起こされると、彼女の姿は何処にもなかった。
夢だったのかと思ったが、テーブルの上には空になったビールの缶が五本転がっている。
そしてスマホを確認すると、電車の中とここで撮った写真に彼女の姿がはっきりと写っていた。
やはり昨夜のことは夢ではなかったのだ。
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支度をしていつもより早めにアパートを出ると、出社前に駅前の不動産屋、彼女が制服を着ていた多摩ハウジングへ立ち寄った。
「あら、田中さん、お久しぶりですね。」
店に入った途端にアパートを契約した際世話になった女性が声を掛けてきた。
出勤前であまり時間もない事から、俺は早々にその女性に聞いてみた。
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「すみません。この写真の女性に見覚えはありませんか?」
「あら、人探しなの?」
女性はそう言って俺が差し出した、俺と彼女がカウチで並んで写っているスマホの画面を覗き込んだ。
「あら、田中さんって小林綾ちゃんと仲良しだったの?」
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「小林、綾さんというのですか?この女性。」
「え、どういうこと?」
仲良さそうに写真に写っている様子を見れば、名前も知らないというのは確かに不自然だろう。
しかし、昨日起こったことをそのまま話してもすぐに信用して貰える気がしない。
「少しお話を聞きたいのですが、今日の昼休みに時間を貰えませんか?」
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そして昼休みに彼女、坂田小枝子と近くのカフェで待ち合わせた。
「実はあの写真、昨日の夜に僕のアパートで撮ったものなんです。」
あの彼女、小林綾が幽霊として現れる以上、彼女はもうこの世にいないと思った方がいい。
だから敢えて坂田小枝子に対し、最初にこの写真を見せたのだ。
「え、そんな。綾ちゃんは半年も前に亡くなっているんですよ。」
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やはりそうだった。俺は数週間前から昨夜までに起こった出来事を掻い摘んで話した。
「僕自身は小林綾さんという女性は全く知らないのです。南多摩ハウジングの制服を着ているようなんですが、坂田さんの同僚だったのですか?」
彼女の話によると小林綾は多摩ハウジングの店員として三年ほど働いていたのだが、半年ほど前に体調を崩して店を辞め、実家に戻った直後に亡くなったそうだ。
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「その彼女が何で僕のところに・・・」
「言いにくいんですけど・・・あなたが入居する前にあの部屋に住んでいたのが綾ちゃんなんです。」
それを聞いた途端に、彼女の”一緒に帰りましょうね”、そして”ただいま”という言葉の意味が理解できた。
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「田中さんは気がついていなかったのでしょうけれど、あなたがアパートを探しに時々店に来るようになってから、綾ちゃんはあなたの事が相当気に入っていたのよ。
でもあなたはお店に来ると必ず私に声を掛けてくれて私が対応していたこともあってなかなか声を掛けられず、
お店が休みの日にはあなたをひと目見ようとこの駅のあなたの乗る反対側のホームでいつ来るかもわからずに田中さんが仕事を終えて駅に来るのをずっと待っていたことも何度かあったらしいわ。」
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「お店は木曜が休みでしたっけ?」
「そうよ。そして田中さんには直接関係ないんだけど、半年前に体調を崩して彼女が実家に帰る時、自分の住んでいたアパートがとっても安くていい部屋だからあなたに是非薦めてくれって私に言ったの。」
「そう言うことだったんだ。」
坂田小枝子は小林綾の死因など細かいところまでは分からないと言った。
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◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日からゴールデンウィークの連休に入るその夜、仕事を終えてアパートに戻ったところで昨夜連れ帰った小林綾がしっかりここに居ついたことを悟った。
部屋は綺麗に片付き、テレビの前のテーブルには簡単な料理が並べてあったのだ。
料理の材料は冷蔵庫にあったものだ。
幽霊にこんなことが出来るのかと妙なところに感心した。
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そして、また昨夜と同じようにカウチが丸く凹んでいるのを見て、慌ててキッチンの引き出しから蝋燭を取り出すとテーブルの上に灯し、部屋の照明を消すと、そこで微笑んでいる小林綾の姿が蝋燭の光の中に浮かんだ。
「綾さん、小林綾さんだよね?」
隣に座って話しかけると、声は出さずににっこりと微笑んで頷いた。
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「ご飯を作ってくれて嬉しいよ。ありがとう。」
小林綾は照れくさそうにはにかんで、俺の腕に手を掛けた。
何故彼女はしゃべらないのだろう。これまで何度か彼女の声を聞いているので喋れないことはないと思うが、それは小さな囁くような声だった。普通の会話は難しいのだろうか。
しかし俺の話はきちんと理解できているのは間違いない。
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「今日、坂田小枝子さんに会って綾さんの事を聞いたよ。この部屋はもともと綾さんのお家だったんだね。」
小林綾は優しい顔で頷くと、早く食べろと身振りで示した。
俺は昨夜と同様に冷蔵庫から缶ビールを二本取り出して彼女と自分の前に置くと箸を取り上げた。
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美味しい。
小林綾も今日ははっきりと缶を手に持ってビールを飲みながら、舌鼓を打ちながら一生懸命食べている俺の事をじっと見ている。
料理はあっという間に食べ終わり、簡単なつまみを持ってくると新しいビールの缶を開けた。
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「綾さんは何で死んじゃったの?病気?」
すると小林綾は、缶をテーブルの上に置いて顔を俺の顔に近づけ、おでこを合わせた。
(急性白血病)
以前聞いた彼女の声ではなく、単に単語が頭の中に浮かび上がった。
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「そうだったんだ。死ぬ前にちゃんと綾さんと出会いたかった。」
すると彼女は真顔になって目に涙を浮かべた。
「ごめんね。今更言っても仕方のない事だね。ところで綾さんはお店が休みの木曜も俺に逢いたくて駅にいたそうだけど、お店が休みなのに何で制服だったの?」
また彼女は先程と同じようにおでこを合わせた。
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今度は文字ではなく、制服姿でホームに立つ彼女の姿と、店にいる彼女の姿が連続して頭に浮かんだ。
「そういうことか。万一俺が綾さんに気付いた時に、あの店にいるんだということがすぐに判るようにって考えたのか。」
小林綾は頷くと、胸元のリボンを解いて制服を脱ぎ始めた。
彼女のその様子を黙って眺めていると、制服を脱いで下着姿になった彼女は俺の首に抱きつき、耳元に口を近づけた。
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(もう制服は必要ないわね。)
俺は彼女を抱きしめ、唇を重ねた。
「明日からゴールデンウィークでしばらく休みなんだ。綾さんはずっとこの部屋にいてくれるよね?」
腕の中で頷く彼女に俺は再び唇を重ねた。
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◇◇◇◇◇◇◇◇
昼近くになって目が覚めると、カーテン越しに差し込む明るい光の中、小林綾の姿は何処にも見えない。
しかし彼女は間違いなくこの部屋のどこかにいるはずだ。
俺は簡単に身支度を整えると、近所のスーパーマーケットへ行き、大量の食材を買い込んできた。
もちろん小林綾に美味しい料理を作って貰うためだ。
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これだけ買えばしばらくは買い物にも出なくて済む。
小林綾とふたりだけの時間を思い切り満喫するのだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
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◇◇◇◇◇◇◇◇
「ええ、ゴールデンウィークが明けても出社せず、電話しても出ないのでウチの部下を見に行かせたらこんなことになっていたんです。」
私服の刑事の聞き取りに、アパートの自室で死んでいた田中義彦の上司が答えた。
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「しかし奇妙な部屋だね。彼は何か変な宗教でもやっていたのかな。」
部屋の中は窓という窓に段ボールが固定され、全く光が入らないようになっている。
「いや、特に何か宗教をやっているような話も素振りもなかったですよ。明るく真面目ないい奴でした。」
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そこへ鑑識課の捜査員と思しき男が刑事の傍に寄ってきた。
「正確には司法解剖の結果を待たなければいけませんが、死因は十中八九餓死ですね。」
「餓死・・・か。」
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刑事はもう一度部屋の中に入り、スウェット姿でカウチに座ったまま息絶えている田中義彦と、その目の前のテーブルに並べられている使用された形跡のない皿やコップ、そして冷蔵庫の中やその横に置いてあるスーパーのレジ袋に入った大量の食材を見つめた。
「この状態で餓死するってどういうことだ?」
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◇◇◇FIN
作者天虚空蔵