月曜朝10時。
separator
繁華街の外れにある「【M】心理クリニック」。
nextpage
依存症、うつ病、強迫性障害、統合失調症などなど、
様々な心の病に悩む人たちの駆け込み寺だ。
5階建て雑居ビルの5階の奥まったところにある。
nextpage
6帖ほどの診察室のデスク前にはM医師、その正面には朝一番に訪れた初診の患者が座っていた。
医師の背後には無表情の看護師が立っている。
nextpage
医師の年齢は50を過ぎたくらいだろうか。
白髪混じりの髪は伸ばし放題で無精髭を生やしており、見るからにだらしない印象だ。
白衣を羽織ってなければどうみても医師には見えず、場末の立呑屋でくだを巻く連中と同類な感じだ。
ただこの医師、そのだらしない外見に似合わず、歯に衣着せぬもの言いで一部の患者たちからは絶大な信頼を得ていた。
nextpage
医師の前に座るSという初老の男は白のシャツにグレイのジャケットを羽織っていて、髪を七三に分けた真面目そうな感じだ。
nextpage
「ということは、あんたは自分によく似た者にいづれ殺されると言ってるの?」
nextpage
とM医師は呆れた様子で尋ねた。
Sは怯えた表情で頷くと口を開く。
nextpage
「先生、俺の言うことまだ信じて無いでしょう?
じゃあこれ見てくださいよ」
nextpage
Sは上着のポケットからスマートホンを出すと、素早く指先で画面を操作して写真を表示させ、医師に手渡す。
M医師はそれを受け取ると、画面に顔を近づけていった。
nextpage
どこかの山あいだろうか。
鮮やかな紅葉を背景にして荘厳な滝が映っており、画面手前にはS本人がリュックを背負って立っている。
スナップ写真のようだ。
nextpage
「何なの、この写真は?」
nextpage
スマホから目を外してM医師が尋ねる。
nextpage
「3日ほど前に、とある名勝の滝を見に行った時のものです」
nextpage
「この写真がどうだというの?」
nextpage
医師がまた尋ねると、Sが真剣な表情で言う。
nextpage
「画面の右端をよく見てくださいよ」
nextpage
M医師は半信半疑な様子で視線を移動した。
nextpage
画面右端に男が映っている。
黒っぽい服で髪こそ少し長めだが、その横顔は中央に映るSと似ていると言えば似ているという感じだ。
というのは、その男のところだけ少し画像が荒れているからだ。
nextpage
「まあ確かにあんたに似てるといえば似てるかな。でも他人の空似というやつじゃないの?」
nextpage
Sは医師からスマホを返してもらうと、不満げな表情で口を開く。
nextpage
「俺ね、このスナップショットを撮った後、この右端の男に殺されそうになったんだよ」
nextpage
「え?」
nextpage
「この写真を撮った後、俺展望台の突端まで行って滝を眺めていたんだ。平日で辺りには他の人はいなかった。そしたら、後ろからいきなり誰かが俺の首を締め出したんだ。
必死に抵抗して何とか免れたんだけど、危うく意識を失うところだった。
そいつが逃げ去るところを目で追ったんだけど、間違いなく写真の男だった」
nextpage
「つまり、あんたは自分によく似た男に殺されかけたということなの?」
nextpage
Sは医師の問いに暗い顔で頷くと、また続ける。
nextpage
「これだけではない。
駅のホームで電車待ちしてる時、背中を押されたこともあったし、信号待ちしてる時にも。
命こそ落とさなかったが怪我をしたこともある」
nextpage
医師は一通りSの話を聞くと、話し始めた。
nextpage
「それじゃあ、さっきからのあんたの話をまとめてみようか。
まず昨年の夏辺りからあんたは奇妙な悪夢にうなされるようになった。
夢の内容というのは、
薄暗く鬱蒼とした森の中を歩いていると、あんたと同じ顔の男が何故だかあんたを追いかけ回してくる。
nextpage
あんたがそいつにその理由を尋ねると、
俺は、今お前がのうのうとして生きていることが堪らなく憎い。なぜならお前が生まれてきたせいで俺はこの世に生まれることが出来なかったからだという。
nextpage
そしてこのような悪夢を見るようになってきた頃から、現実の世界でもあんたの周辺にあんたそっくりな人が度々現れるようになり命を脅かしだす。
とまあ、こんなところかな?
ところであんた、誰かに恨まれているようなことはない?」
nextpage
M医師の問いかけにSはこくりと頷くと、また喋り始めた。
nextpage
「実は去年の夏に俺の母は亡くなったんだ。
そう、ちょうどその頃から俺はあの悪夢を見始めたんだ。
母は生前よくこんなことを言ってた。
あなたには本当は兄がいるはずだった。
かつて私は双子をお腹に宿していたのだけど、結局生まれてこれたのはあなただけだった。
なぜならあなたの兄は、お前の付けていたへその緒が首に絡まり命を落としたから。
出産後も度々あなたの兄は私の前に姿を現しては、あなたへの恨み辛みを吐露していた。俺はあいつに殺されたんだと。その都度あの子にだけは手を出さないで欲しいと何度も何度も詫び、お願いだから成仏してちょうだいと手を合わせていたと」
nextpage
「なるほど。
つまりお母さん亡き後お兄さんは、初めのうちは悪夢の中に、最近に至ってはとうとう現実の世界に現れて恨みを晴らそうと自分を殺そうとしていると言ってるわけだね」
nextpage
「はい」
nextpage
Sはそう言うとガックリと首を項垂れた。
separator
結局M医師はSに安定剤を処方すると、一週間後に再診に来るように言った。
Sが立ち去った後、M医師は看護師に尋ねる。
nextpage
「さっきの男の話、どう思う?」
nextpage
「死んだはずの双子の兄が現実に現れて殺しにくるなんて、本当だったら恐ろしい話ですね」
nextpage
「ははは、、そんなわけないだろ。
彼の目や表情見たかい?
あれは完璧に妄想癖と虚言癖の人間の顔だよ」
nextpage
「でも、あのスナップ写真は?」
nextpage
「あれは、他人の空似だよ。
彼には固い思い込みがあるからそのように見えただけで、その後の襲われた話も多分妄想だろうね」
nextpage
「じゃあ、お母さんの話も彼の虚言なんでしょうか?」
nextpage
「恐らくそうだろうね。
虚言癖の人間というのは、どんどん勝手に頭の中でストーリーを作っていくものなんだ。
それはミステリー作家も顔負けなくらいね」
nextpage
「そんなものなんですね、、、」
nextpage
そう言って看護師は黙り込んでしまった。
nextpage
その時だ。
nextpage
shake
キャー!
nextpage
突然けたたましい女の悲鳴が聞こえてきた。
nextpage
何事か?とM医師が立ち上がる。
看護師は急いで診察室を出て待合室へと走った。
そして彼女は目の前の状況を見て恐怖で立ちつくす。
後から来たM医師も直立したまま固まっていた。
nextpage
8帖ほどのこじんまりとした待合室は騒然となっていた。
nextpage
受付カウンター前の床でSが仰向けになり、両腕で宙を掴むようにしながら必死に叫びもがいている。
nextpage
「止めろー!
止めてくれ~!」
nextpage
順番待ちをしている患者たちが、不安げにその様子を遠巻きに眺めていた。
nextpage
M医師は「おい、どうしたんだ!?落ち着け、落ち着いてくれ!」と訳が分からないままSを宥めようとするが、彼は相変わらず両手で宙を掴むようにしながら必死にもがいていた。
その顔は既に血の気を失っており苦しみに満ち満ちている。
nextpage
M医師も看護師もなす術がなく傍らでただ懸命に「一体どうしたんだ!」と言い続けていた。
だが間もなくSは力尽きたようにストンと両腕を床に落とすと、そのまま泡を吹きながらガックリと意識を失った。
nextpage
「おい、どうした?しっかりしろ!」
nextpage
M医師は懸命に声を掛けたが、Sの顔はどんどん生気を無くしていく。
その後M医師と看護師は2人で必死に蘇生を試みたが、彼の心臓が再び動き出すことはなかった。
Sの首筋にはあたかも誰かに絞められたような青アザが残っていた。
nextpage
…………
nextpage
2人が呆然としながら互いに顔を見合わしていると突然、どこからか男の笑い声がしだした。
それは地獄の底から沸き上がってくるような不気味な笑い声。
nextpage
「ハハハハハハ、、、」
nextpage
M医師は声のする方に視線を動かすと
「え!?そんな?あり得ない」と呟き息を飲んだ。
nextpage
クリニック入口ドア前に黒っぽい服を着た男が立っている
狂ったように笑いながら。
nextpage
「ハハハハハハ、、アーハハハハハハハ、、」
nextpage
その容姿、背格好、それは正にSだった。
やがて男の姿は蜃気楼のように徐々に霞みだすと、最後はスッと消えた。
nextpage
ただその気味悪い笑い声は、いつまでもクリニック内に響き渡っていた。
nextpage
fin
separator
Presented by Nekojiro
作者ねこじろう