あれは一体何だったのだろうと、今でも忘れられない出来事があります。
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今から20年程前の夏の終わり頃、私は当時つきあっていた彼と、お互いの住む埼玉県から、彼の運転するバイクに2人乗りをして佐渡島まで行きました。
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オフシーズンだったからかひと気もまばらで、閑散としていました。その上台風が近づいているらしく、息苦しいような、厚い雲が空を覆っていました。
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夜遅くに着いた私たちは港の食堂で夕飯を食べ、近くの民宿に泊まりました。他に泊まっている客がいないのか、廊下でも浴場でも誰も見かけることはなく、フロントに主人がひとりいるだけで、宿の中は静まり返っていました。
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「私たちなにも計画しないで来ちゃったよね。日本海見てみたいってだけで、こんな時期に来ちゃってさ!明日どうする?どこ行く?」
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「そうだなあ~帰りのフェリー出なくなったら困るしなあ。じゃあ島を一周するってのはどう?それで制覇したってことでいいじゃん!」
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「そうだね!そうしよう!」
能天気にそれだけを決め、その日は眠りました。
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翌朝も空はどんよりと灰色に暗く、生暖かい風が吹く中を、小雨が降っていました。思わず沈んでしまうような気持ちを振り払うように、私と彼はカッパを着てバイクに乗り、出発しました。
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しばらく海沿いを走っていたのですが、気が付くと高い木々に囲まれた、林道に入っていました。すれ違う車はほとんどおらず、人はいませんでした。
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すると運転しながら彼が「あーヤバい!トイレ行きたい!」と言ったんです。「えー!?どっち?」「大!」「やだもう~!こんな所にないでしょ!がまんできないの?」
「むりむり!なかったらもうそのへんでやるわ!」
「ちょっと!やめてよ~!」と言って笑っていたら、
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コンビニのような、小さな建物が道路沿いに見えてきたんです。「おっ!あそこならありそうじゃん!」彼は迷わず道路から反れ、建物脇にバイクを停めました。
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降りて見てみると、くすんだクリーム色をした、古い建物でした。ヘルメットを脇に抱え、ガラスのドア越しに中の様子を伺うと、薄暗く、ひっそりとしていました。
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「閉まってるんじゃない?」
「たのむ!」
彼がドアを押すと予想外に開いたので、一緒に入ってみると、すぐ左側に細い廊下があり、つきあたりにトイレのマークが見えました。
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「助かったー!」
彼が駆け込んで行ったので、まわりを見渡してみると、床には重ねられたパイプ椅子や石油ストーブ、壁には日に焼けた交通安全のポスターや、フェリーの時刻表が貼ってありました。
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(集会所…みたいな感じなのかな…。)と思っていると、正面の引き戸に、佐渡島の地図が貼ってあるのが見えました。(今どの辺かな…。)近付いて行くと、少し開いているのに気付きました。
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何気なく覗いてみると、そこに、5~6人のおじいさんとおばあさんがいました。全員こちらに背を向けて、テレビのワイドショーを無音にして観ていました。
部屋は薄暗く、明かりは向かい側の窓から差す弱い光と、テレビ画面の点滅だけでした。
何人かは真ん中にあるソファに座り、何人かは立ったまま、じっと黙って観ていました。
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(びっくりした…なんでこんなところに…。)
そう思っていると、立ったままテレビを見ていたおじいさんが、ゆっくり振り返ったんです。
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ぎくりとしながらも、扉を少し開け、「こんにちは…。」と言うと、何も言わず、じっと私を見続けたままでした。
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(え…?)どう反応したらいいのかわからず、そのままでいると、そばで同じように立っていたもうひとりのおじいさんも私に気付き、じっと見てきました。
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ひとり…またひとりと、ソファに座っていたおじいさんやおばあさんたちもゆっくり振り返り、気が付くと全員が私を見ていました。
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(なんなの…黙ってじろじろ見てきて…。)
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ふと、全員の目がだんだん見開いてきているのに気付きました。なんだか急に気味が悪くなり、「おじゃましました…。」そう言って扉を閉め、足早に歩いて行ってガラスのドアを押そうとすると、
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「いや~ヤバかったわ!間に合ってよかった~!」
笑いながら彼が戻ってきました。おそらくこわばった顔をした私を変に思ったのでしょう、
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「どうした?」
「…変な人たちがテレビ見てる。」と小声で言うと、
「え?どこで?人がいんの?」
「…あの地図のとこ。」
「え?あそこ?マジで?」
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彼が行こうとしたので、
「いいって!早く出よう!」と言って、腕を引っ張りました。「な~んだよ。大丈夫だって。」笑って振り払いながら歩いて行き、そっと引き戸を開けました。
するとすぐに振り返り
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「お前やめろよ~!」と言ってきたのです。
「え…?」「うまいな~!引っかかったわ!」
「え?」「誰もいないじゃん!」
「え…?いや…そっちこそやめてよ!」「いや、ほんとに誰もいないよ?…なんだよどうしたんだよ?」
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急に喉が渇いて心臓の鼓動も早くなり、息苦しくなってきました。彼は扉を全開にして部屋に入り、
「マジで誰もいないよ?来てみなよ。」そう笑って言いながらも、顔が少し引きつっているのがわかりました。
「いい…もう出よう!」「いや来てみろって!誰もいないから!」彼は走ってきて私の手を引っ張り、部屋の中へ引き入れました。
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すると、本当に老人たちの姿はなく、テレビもついておらず、薄暗い部屋に、雨の音がこもって聞こえてくるだけでした。
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「さっき…っていうかほんとに…
ほんとについ!ついさっき!ほんとにいたの!
ほんとに!ここに!
立ってテレビ見てるおじいさんがふたりと!
ここに座ってるおばあさんがふたりと!
ここにも…ひとり…ほんとに…。」
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ソファを指差す手が震えていました。
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「なんだよ…それ…どういうことだよ…。」
彼の顔からもすっかり血の気が引いているのがわかりました。
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その時です…
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shake
「キィェーーーーーケケケケケケケケ!」
という笑い声が、私たちの足元から聞こえたんです。
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一瞬でつま先から頭皮まで鳥肌が立ち、彼と走って部屋を飛び出し、突き飛ばすようにドアを押して外へ出ました。
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「なんだよ今の!?」
「はやくはやく!」
焦ってバイクのエンジンをかける彼も、
ヘルメットを被ろうとしている私も、
信じられないくらい体が震えていました。
後ろに乗って走り出すまで、とても長く感じました。そしてその林道を出るまで、怖くて振り返る事ができませんでした。
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男でも
女でもない、
人間なのか
獣なのかもわからないような、
聞いたことのない声でした。
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ただあの時、
あの部屋の中に、
たしかに存在していて、
そして私たちをあざ笑っていると
はっきりわかる声でした。
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あれから20年程経ちますが、
今でもあの老人たちと、
あの笑い声を思い出して、
背筋が寒くなることがあります。
あれは一体
何だったのでしょうか…。
作者もくれん