数え歌を教えてもらったことを書きます。
1970年代当時は相当の田舎町で祖父母、両親と父の弟たち三人(叔父と言っても年子の高校生)、自分を入れて8人家族で暮らしていた。
築100年位だと言う天井の高い古い家。茅葺きで屋根に古タイヤが何個か乗せてあり、コタツは豆炭で、囲炉裏は2つあり、台所は土間。仏壇はフスマを外した押し入れ程大きく、上が神棚になっていた。馬頭観音様が祀られていた。
風呂やトイレは外にあった。外から見ると二階建てだが、実際は三階にあたる広い屋根裏部屋があり明治の頃に養蚕をしていた、当時そこは子供部屋だった。
屋根裏に自分と同じ年位の着物を着た女の子が歌いながらお手玉で遊んでいる時があった。
いち)一列らんかん破裂して~
に)日露戦争始まった~
さん)サッサと逃げるはロシアの兵~
し)死んでも尽くすは日本の兵~
ご)五万の兵を引き連れて~
ろく)6人残して皆殺し~
しち)7月〇日の戦いに~
はち)ハルピンまで攻め落とし~
く)クロカタキンの首落とし~
とう)東郷大将万々歳~
と繰り返し歌っていた。
わたしに『あのね、今日は赤い着物に赤い下駄で来たよ。これは数え歌なんだよ。教えてあげる。』と人なつっこい笑顔だった。
わたしの出身の土地では『赤い』→『立派な、贅沢な、晴れの祝い事に使う品物』の意味で、色彩ではないと思います。
名前はわからないけど、いつの間にか仲良くなり数え歌に合わせて、お手玉をして遊んだ。
その子は、高校生の叔父たちにも大人にも見えなかった。
祖母は野菜の行商人で朝から晩までいないし、祖父も父も勤めに出てやはり、わたしが布団に横になる頃に帰った。叔父たちもそれぞれ忙しかった。
母は家事を一切引き受け、炊事、家族の弁当作り、洗濯、掃除を誰よりも早く起きて誰よりも遅くまで働いていた。手伝いする時以外はほとんど構われなかった。
大人の中にポツンと寂しく感じていたので、屋根裏にお手玉を教えてくれるたまにくる友達(?)を嬉しく思った。
今から30年以上前の耳に残っている数え歌を書きました。
怖いオチは無くて、申し訳ない。
怖い話投稿:ホラーテラー 菫さん
作者怖話