【1952年】アダムスキー事件

1950年代にUFOと遭遇し、異星人とコミュニケーションをとったことをいち早く公表したジョージ・アダムスキー。世界に広く名を知られるようになった初のコンタクティだ。生涯における異星人とのコンタクトの数は、本人の話によると25回にものぼるという。彼は1891年にポーランドで生まれ、2歳のときに両親とアメリカに渡った移民。30代のころから自らの哲学として「宇宙の法則」と教え始め、精神世界の師として信奉者を集めていた人物である。
初めて異星人とのコンタクトに成功したのは、1952年11月20日、62歳になってからのこと。コンタクトを願って何度も訪れていたカリフォルニア州の砂漠地帯に、この日は友人ら6人とともに出かけて行き、ついに巨大な葉巻型のUFOと遭遇したのだ。なぜかアダムスキーだけが乗員の異星人に招かれ会うことを許されたという。この異星人は金星人で、アダムスキーはテレパシーなどを駆使して会話を交わすこともできたと後に発表している。それによると、金星人は青い目の美しい顔立ちの青年で、身長は165センチ、体重は60キロくらい。濃い茶色の服と赤い靴を身に付けていた。地球を訪問した目的についてアダムスキーが尋ねると、地球が核爆発すると宇宙空間にどれくらいの放射能の影響を与えるかを懸念して訪れたという。
アダムスキーは本当に異星人とコンタクトしたのか。彼と一緒にいた友人たちはUFOを目撃はしているが、残念ながら金星人の姿は見ていない。ただし、アダムスキーがコンタクトした際に、金星人が地面に残した奇妙な足跡は確認しているという。この後、アダムスキーは金星人だけではなく火星人、土星人とのコンタクトにも成功。さらには、異星人の宇宙船に乗って金星や火星、月などを訪問したといい、その体験を新しい宇宙関連情報として世界に発信し続けた。
ジョージ・アダムスキーは異星人とのコンタクト体験を通じて得た宇宙哲学を、人類が参考にすべき崇高なものと信じ、世に広めようと考えた。自らの宇宙体験を米ソの政府高官に伝えたことと公に語り、その名声のもとに盛んに講演を行ったり、体験を本にまとめたりと精力的に活動を展開した。最初のコンタクトの際は撮影を断られたというが、その後は金星のUFOの大母船だという写真を公開するなど、話題に事欠くことはなかった。
そんなアダムスキーに対して、批判的な声を上げた人は多い。近しい人たちの間にも彼とともにコンタクト体験をしたという人物はいなかったから、それも無理からぬことかもしれない。アメリカの著名なUFO研究家レナード・ストリングフィールドなど、アダムスキーをペテン師として告訴しようとした。ある宇宙船での旅行の際、高名な科学者ふたりが立ち会ったとするアダムスキーの記述に目を留め、裁判を起こせば、この科学者たちから作り話だという証言が得られると考えたのだ。ところが、当時のCIA長官アレン・ダレスが乗り出し、最高機密保持のため強権を発動してでも告訴を中止させるとストリングフィールドに警告。米政府がアダムスキーから極秘情報を入手する関係を結んでいることを匂わせた。
NASAや国防省の高官たちも、アダムスキーが月や火星、金星を訪問して得たという情報を、アメリカの宇宙関連政策におおいに生かしたといわれている。当時の大統領J・F・ケネディの政策ブレーンに抜擢されていたというくらいだ。太陽系惑星には生命体が存在するという彼の話は、各国の惑星探査が進むにつれ、信頼を失っていったが、アメリカや旧ソ連が宇宙炭酸を行って得たデータは多くが隠ぺいされており、実のところアダムスキーの情報と一致するとも言われている。アダムスキーが真ノコンタクティであると、大国の政府レベルで信じられていた形跡は確実にあるのだ。