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将校の幽霊が出るスタジオ

東京都渋谷区神南2丁目2 NHK放送センター

将校の幽霊が出るスタジオ

 
【将校の幽霊が出るスタジオ】

東京都渋谷区にあるNHK放送センターには、未だにある幽霊の噂が流れている。
それは、旧日本陸軍の征服を着た幽霊である。

この放送センターは昭和39年に千代田区内幸町から移転されてきた。
NHKの職員の話によれば
 「その噂は局内では有名ですよ。職員の中にははっきり見た人もいまして…。見た人の話によると、軍人のような服装をした男がスタジオにいたというんです」

また、あるスタッフの話によれば
「番組の収録中にスタジオの片隅に軍人の格好をした若い男が立っている。その時は他の番組にでも出ている俳優さんが見学にでも来てるんだろうぐらいに思って大して気にもとめなかった。でも、あとで見ると、いつの間にかその男はいなくなっていて、確かめてみたら、その時間帯にそんな軍人が出てくるような番組の収録はしていなかったとわかって青くなったとか。そんな話はよく聞きます」

この様な噂の背景には、NHK放送センターが移転してきたこの場所に問題がった。
実はこの場所、かつての東京陸軍刑務所であり、ここではかつて多くの軍人が収容されて
また、この場所はかつて2.26事件を引き起こした青年将校達が処刑された場所でもある。

1936年(昭和11年)2月26日の午前。
雪が降る帝都・東京において、兵士約1480名を率いた将校らが一斉に武装蜂起した。
彼れらの戦闘に立ったのは思想家・北一輝の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次などの若き陸軍青年将校達であり、「昭和維新・尊皇討奸」を掲げて決起を決断。 当時の腐敗しきった政界や特権階級の解体を掲げ、天皇を取り巻く天皇の意思を妨げる「君側の奸」を打ち、天皇の下に権力が一元化された国家への改造を目的としていた。
そのため、彼らは都市部の主要個所の占拠しながら、同時に多くの政界人を襲った。
この時襲われたのは、岡田啓介内閣総理大臣、高橋是清大蔵大臣、鈴木貫太郎侍従長など内閣の有力政治家や高級官僚達であり、邸宅を襲撃すると、そのことごとくを殺害。岡田首相と鈴木侍従長など辛くも逃れられた者もいた。

さらに警視庁や朝日新聞社も襲撃。永田町・霞ヶ関・赤坂など政治中枢部の占拠に成功した。
だが、皇居の占拠にだけは失敗し、都市部の通信網だけは押さえられなかった。

事件発生を受け国内は騒然としたが、軍上層部での見解は違った。
軍内部では統制経済による国家改造をもくろむ「統制派」と特権階級を廃して天皇親政の実現を目指す『皇道派』に二分されていたのだが、この両者共に、この事件に乗じて国家の体制を改変する動きが起こっていたのである。

やがて、川島義之陸相に蹶起趣意書が渡され、決起を認める陸軍大臣告示が出されたのである。
しかし、将校達の武装蜂起の理由ともいえる昭和天皇が事件発生時から彼らを「暴徒」や「反乱軍」と見なし激昂、事件の早期収拾を促した。
温厚な事で知られた昭和天皇であったが、この蜂起に関しては憤慨をあらわにしたとされ、自ら近衛師団を率いて鎮圧するとまで言い出すほどであったとされる。
これを受けた軍部は、 やむなく鎮圧に乗り出し、ついに都内に戒厳令が命ぜられ、当初から鎮圧を主張していた石原莞爾が戒厳参謀に就いた。
さらに、死亡していたはずの岡田首相の生存が判明した。
将校達は岡田と似ていた義弟の松尾伝蔵予備役大佐を岡田と間違えて殺害し、風呂場や押入れに逃れていた岡田は救出されたのである。
そして28日0時、反乱部隊の撤退を命ずる奉勅が下り、赤坂周辺に鎮圧部隊の戦車隊と数千人の兵士が取り囲み、東京湾には日本海軍の艦隊が集結し、砲撃の準備を整えていた。
しかし、それでも軍部が同じ軍の若者達に引き金を引く事だけは最後まで躊躇っていた。
29日には飛行機からのビラやアドバルーン、ラジオ放送で反乱部隊の武装解除を促した。
ついに、首謀者である青年将校達は、部下の兵士達の任を解き、原隊に帰還させると共に、決起失敗の責任を取って自決を図ったが、その前に突入してきた鎮圧部隊によって自決は失敗に終わった。

そして、その青年将校達が逮捕後、処刑されたのが、このNHKセンターが立つ前に存在した陸軍刑務所という訳なのである。

今でも、この霊はNHKセンターで時折姿を目撃されている
世を憂い決起した若者達だけに、今でもなお、現代人に何かを伝えたいのかもしれない。