福岡県福岡市中央区城内1−4
夫と恨み殺した女の執念が宿る「お綱門」
納得のいかぬ我慢を強いられた者の恨みがどれほど恐ろしいものか。まさにこの話は物語っている。虐げられた者の心に恨み・憎しみが生まれ、やがてたたりとなって蘇るのだ。
福岡市の中心部・天神から国道202号線を西へ車で10分。ここに福岡城跡地がある。福岡城の別名は舞鶴城。初代福岡藩主・黒田長政が7年がかりで築城した平山城だ。天守閣はないものの、高い石垣に囲まれた広い城跡は、かつての黒田藩の栄華を思わせる。水堀で囲まれた城跡は木々で覆われ、敷地はかなりの広さだ。周囲は陸上競技場や公園になっている。
城を守るその門には、もう一つ、いわれある名前が付いていた。人はこの門を「お綱門」と呼んだ・・・。
黒田藩の武士・浅野四朗左衛門は、妾にした采女(うねめ)という女に夢中だった。采女はもともと、主君・黒田忠之が参勤交代の帰りに一目ぼれして連れ帰った遊女だった。
藩主・忠之のあまりの女への寵愛ぶりに、藩から非難が出て、忠之は采女を浅野へ下げ渡したのだった。
浅野には妻と2人の子どもがいた。妻の名はお綱。浅野は采女に夢中になるあまり、とうとうお綱親子を下屋敷へ追い出してしまった。浅野は生活の面倒も見なくなり母子は暮らしに困ったが、お綱は黙って耐えていた。
ある時、お綱の娘の節句の祝いの日が来た。下男の善作を城へ向かわせた。浅野から祝品をもらうためだ。しかし浅野は善作を突き返す始末だ。善作はお綱に申し訳ないと、浜で自害してしまった。
善作の死にお綱の堪忍袋の緒が切れた。そばにいた子犬の喉を咬みきり、2人の子どもを刺殺したのだ。そして長刀を手に本宅へ向かった。番人は、主人は留守だと言ってお綱に斬りつける。瀕死の傷を負い、血まみれの身体で城へ向かうお綱。裏切った夫に一太刀浴びせねば気が済まなかったのだ。しかし、福岡城にたどり着くと力尽き、東御門に手をかけたまま息絶えてしまう。
死してなお恨みが消えることはなかった。その後、夫の浅野はお綱の霊にたたられ、苦しみながら死んだ。浅野家の跡目を継いだ彦五郎は霊に追い回され狂い、藩主の刀を盗んで、釜煎りの刑となった。お綱が本宅から福岡城まで駆けた道には、草木1本生えなかったという。
しかも、その後東御門に手が触れた者は、熱病にかかり死んでしまったという話もある。かくしてこの門は、お綱門という異名がついた。
お綱のすさまじい怨念を負った東御門は、のちに浅野の本宅跡へ移された。現在その場所は家庭裁判所が建っている。何とも皮肉な結末だ。
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