呪怨 ザ・グラッジ3 もう無茶苦茶ですよ

トビー・ウィルキンス、2009年の作品呪怨 ザ・グラッジ3。
もう無茶苦茶ですよね。生前の伽倻子や、その家族にまでスポットを当てて、伽倻子の妹なる人物が呪いを収拾させようとアメリカからやってくるのですが、どう考えても姉妹である必要性を感じない。もっと変わり果てた姉の姿を見た妹のリアクションや、それによる葛藤や決断みたいなものが見えるのかと思いきや、監督自体が設定忘れてたんじゃないかと思うぐらい、姉妹設定で話が全く広がっていかない。0です。
主役の女性が子供の霊を発見した時のリアクションも明らかにおかしいですよね。いや確かに本家でも敏雄君と遭遇して会話するシーンはあるんですよ。ただその時だけは白塗りをしていないので、怪しいですが、まあ生身の人間として接するのは理解できたんですけど、今回は白塗りにも関わらず、普通に会話してしまっていますからね。現場で誰か「これはおかしい」と一言言えなかったんですかね。
最近のホラーで結構流行っている描写があって、それはクリーチャーが出て来ると、部分部分を早回しする事によって動きが一瞬急速に速くなる。それによりジャンプカットみたいにクリーチャーの動きだけがブツ切りになるという技法があって。この作品でも、それが用いられてたんですけど、あんまり良いと思わないんですよね。
何故かというと、やはり動きをちゃんと見たいというのもありますが、モロに“人の業”じゃないですか。映像を加工しているという事実がある以上、そこには人の手が加わっている訳で、あそこまで露骨な加工だと、怖さを強調しようとしているという作り手の狙いが見え見えで、逆に全然怖くない。
だから本家の“階段落ち”のシーンなんて最高ですよね。あれはシンプルに主観カメラでカットも割らず、主人公の視点という呈のシーンなんで、臨場感が尋常ではなくて、まるで伽倻子が僕らを襲って来るような感覚にさせるなかなか恐ろしいシーンがあるんですけど、そういうシンプルなやり方の方が良かったりもするんですよね。
だからあまり露骨な映像的加工をされると、所詮、作り物の世界を単に覗いているだけなんだと逆に現実に引き戻されるし、制作費はなくても撮り方で恐怖を演出できるという事を、このシリーズは体現していたように思うんですけど、そういう精神はハリウッドリメイクには全く受け継がれておらず、ただ単に女性の裸が出ない事で、「我々は全く新しいホラー映画を作っている」と悦に入っているアメリカ人たちが容易に想像できてしまう。