映画は細部にまでこだわらなければ、ただの手抜きの産物にしかならない。
ロマン・ポランスキーの映画に対する姿勢は厳しい。
それであるが故にまた面白い。
「仕立てたスーツに人間を合わせては本末転倒だ。」
それはカメラを先に、役者の演技をそれに当てはめる演出への批判。
ジャン・ルノワールが『ゲームの規則』で披露した、あの人物が自由に動き回っていく様。
つまるところ、ポランスキーが最後に目指すのもあーいったところなのかもしれない。
この演出には彼自身が役者をすることもあるのが大きい。
ポランスキーは役者に演技をさせながら、最良のカメラを探っていく。
演技を先に置きながら、カメラがおろそかにならない。
ポランスキーはカメラマンよりもレンズに詳しいと言われるほどに、カメラにも熱心なのだ。
そして、役者の心情が演技にしみ出てくるものまで計算する。
役者に信頼を置きながら、だからこそそういう演出をやってのける。
シーンの切り替えは時間経過を曖昧にとらえていて、少しわかりづらい。
妊娠という時間の経過が重要な事柄を扱っているのだから、そのあたりの曖昧さがまた不安定で怖い。
時間経過をつかみきれないせいで、いつ生まれるのかはっきり把握すらできないんだから。
知らないのはミア・ファローだけで、観客はさっさとなにが起っているのか理解する。
ファローだけが1時間以上理解できない。
にも関わらず視点がファローに限られるのが脚本の巧さ。
『チャイナタウン』といい、いい脚本に出会っている。
ちなみに、このロケ地はダコタハウス。
この映画が作られた十数年後、このアパートの玄関でジョン・レノンが射殺される。
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