いま日本はグロがブームになっている。エログロナンセンスのなかの、エロでもなく、ナンセンスでもなく、グロテスクが。人間がいともたやすく巨人に食われてしまうマンガ、宇宙生物が人間を食い寄生する映画も近日公開。初夏に見た中島哲也の『渇き。』もまたグロのメガ盛り、ラーメン二郎状態であった。人があっけなく殺され、切り刻まれ、クルマに跳ね飛ばされ、無惨な肉塊と化していた。
そして中島哲也とともに、日本のグロテスク・シネマの雄、三池崇史の最新作『神さまの言うとおり』である。近年海外でも評価が高い三池監督だが、特徴は現代的なエグイまでのシャープなセンスとエログロナンセンスの壁を中央突破しようとするエンタテイメント性が外国の観客に訴えるのだろう。もちろんかれは、フィクションとしてのグロの限界を知っている。どんなにリアルな描写をして、人を切り刻んだとしても、もはや現実の九州であるいは北海道で起こった女子高生の友人や家族への殺人のほうがフィクションをとっくに追い越してしまっているのことを。ネットに公開されるイスラム国の人質殺害の映像はノンフィクションなのだ。事実が悪夢を追い越した時代に私たちは生きている。
そういう時代に映画がなにができるか?もはやグロをパロディとするしかない。血飛沫が赤いビー玉なのも、吹き飛ばされる頭を直接描写しないのも、コードを意識したというよりも、そういう残酷さを超えたブラックでファンタジックなユーモアということだろう。
内容としては、不条理な殺人ゲームに巻き込まれる若者たち、というストーリーも深作欣二の『バトル・ロワイアル』(2000)や、アメリカ映画の『ハンガーゲーム』(2012)だけではなく、凡庸なSF小説や映画に珍しくない設定で、この映画もその既視感のなかにある。小道具に、ダルマさん、招き猫、こけし、といったクールジャパンなアイテムが出て来るところは、海外へのアピールポイントでもあっただろう。
なぜこの不条理なゲームがあるのか?という疑問に応えないまま、映画は終わる。さも続編があるかのようなラストも、どこか中途半端な気がした。三池崇史は多作である、量産する映画作家である。小説でいう書きなぐりのような作品も多い、しかし、その量産するエネルギーこそ、かれの真骨頂だろう。この中途半端さを、この性急なまでのスピード感を、どう評価するか?車酔いしてしまう人もいれば、そのスリルに恍惚となる人もいる。
私はどちらでもないが、ある意味この中途半端さの無思想こそ、三池崇史なのだという気がする。
そしてこの作品そのものよりも、グロを求めるこの国とはなにか?を考えてしまう。映画史に残る名作ではないし、三池崇史は残りたいとも思っていないだろうが、いまの日本を考えるうえで見ておいても損はないだろう。
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