アルジェント作品に共通して言えることであろうが、この映画の中で描かれる「怖さ」は具体的な対象によるものではない。一応、物語は殺人事件の謎解きという体裁をとっているが、恐ろしいのは決してその犯人ではない。
アルジェント作品にありがちなことだが、物語の結末に到っても、犯人が殺人を犯し続けた論理的な回答、
物語の細部細部を明確につなぎ合わせる鍵は与えられることはない。
論理的な整合性を求めてしまっては、この作品は駄作でしかない。
思うに、この映画を見ていく中で与えられる不安は、外在的なものではなく、内在的なもので、それゆえに整合性など永遠に求められないし、そもそも必要ではないのだろう。
ピアニストのマークは、殺人現場で見た絵がなくなっていたことに気付くが、いつなくなったのか、自分がその絵を見たときに感じた違和感は何だったのか、思い出そうとしても思い出せない。
カルロは、バーで聞いた「イーノ」と言う言葉の意味が、思い出せない。
カルロの母親は、何度聞いてもマークの職業がピアニストであることを覚えられず、マークは「技師」であると思い続けている。
物語の最後、ダヴィンチ学校の教室の黒板に人の大脳の絵が描かれていたこと、そしてこの映画の最大の謎の解明に象徴的に表されているように、大脳の持つ記憶という働きが決して完全ではないこと、
常に記憶は失われていく可能性があることに、この映画の持つ不安感は起因する。
自らの内部に把握できない、或いは消失しつつあるものがあることに、すべての恐怖はつながっているのだ。
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