表面的な印象としては、小人が好き放題に暴れ回っているだけの映画で、これを観て可愛いだの不快だのという感想だけで終わるのは、ヘルツォークに申し訳ない。恐らくこの映画、普通の人間達がやっているような差別行為、暴力行為というものを、フリークスという特殊な風貌の人間に演じさせる事によって、強調させて描きたかったように思う。
そしてそれは吉と出ている。このフリークスがしている事を否定すればする程、自分自身を否定する事になりかねない。この映画はそういう事を再認識させたかったのだと思う。例えば差別行為。劇中では盲目の小人が標的にされ差別されるが、差別なんて未だに新たな差別が時代によって生成されていく。今の時代、フリーター、ニートという肩書きによっておおよその人格が決定されてしまう。これを人種差別と同様、立派な差別であり、身近に差別は存在している。
豚を殺したり、食べ物を粗末にする事だってそうだ。自分達が思い当たる節がないだけで、実際にこのフリークスが行っている事は多かれ少なかれ、自分達も行っている事で、食べ物の需要と供給によって企業が動いている限り食べ物を粗末にするという事は生じる。
だからラストカットで一人のフリークスが不気味な笑い声で笑い続けるカットで締めくくられるが、この笑いは私達自身を皮肉混じりに笑っているように思えて仕方がなかった。
一体じゃあどうすれば良いのでしょうか、この映画は問題提議しかないのがいけ好きません。メッセージを効果的にフリークスを使って落とし込めたまでは良いですが、全ての問題を解決するには、圧倒的な人類の進化か、人類が滅亡するしか思い付きません。
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