鬼婆というと定義がおぼろげである。鬼の女を指す事もあれば日本の伝説に現れる多くの女の妖を指す事もある。鬼婆伝説は各地にあるが「安達ケ原の鬼婆」が特に有名だ。安達ケ原の鬼婆は老婆の姿をしており、人をとって喰らう妖怪である。細かい筋立てとしては諸説あるが、以下の伝承がもっともポピュラーな内容であろう。
昔、京都の公家屋敷に姫が生まれ、岩手という名前の乳母が世話をすることになった。岩手は姫を手塩にかけて大事に育てていたが、ある日のことその姫が不治の病を患っていることがわかる。易者はこの病を治すために「胎児の生き肝を食べさせなさい」と告げ、岩手はそれを信じた。まだ幼い自分自身の娘を置いて、胎児の肝を求めて旅に出たのだ。しかし長い年月をかけて探し求めるも、なかなか見つけることが出来ない。いつしか岩手は安達ケ原の岩屋へとたどり着き、そこで機会が巡ってくるのを待つことにした。数年がたったある日、旅の途中らしい若い夫婦が宿を求めて岩屋へとやってきた。女の方は身重だった。二人を招き入れたのだが、しばらくして急に女が産気づき、男は慌てて薬を買いに出かけた。岩手にとって、突然訪れたこの上ない好機。この時を逃すまいと、出刃包丁で女に襲いかかった。腹を切り開き、胎児の肝を取り出したところで、女が身に着けていたお守りに気づく。見覚えがあった。実は、そのお守りは岩手が旅に出る前、自分の娘に渡したものだったのだ。実の娘を殺してしまったことを悟り、岩手は気がふれてしまった。それ以来、岩屋へやってくる旅人を、招き入れて殺しては生き血と肝をすすり、人肉を貪る「鬼婆」となったのだという。
ここまでが、老婆が如何にして鬼婆と化したかというストーリーだ。
またその後日談は、能「黒塚」のモデルともなっている。
月日が流れ、鬼婆の噂を知らずに紀州熊野の僧がこの岩屋に宿を求めた。異様な雰囲気を感じ、鬼婆のことを知って逃げ出すことになるのだが、すぐ鬼婆にバレてしまう。追いかけられて絶体絶命の窮地に陥ってしまった。僧は最後の頼みと荷物の中から如意輪観世音菩薩を取り出して、必死に経を唱え祈願した。すると菩薩像が空高く舞い上がって一大光明を放ち、破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めたのだという。僧によって鬼婆は阿武隈川のほとりに葬られ、黒塚と名付けられたという。この話から転じて、今では安達ケ原の鬼婆のことを「黒塚」と呼ぶことも多い。
その他、有名な鬼婆伝説としては奈良に伝わる「浅茅ヶ原の鬼婆」がある。花川戸周辺に浅茅ヶ原という場所がある。当時そこは旅の通り道として知られていたが、宿泊できるような場所がまったくない荒地だった。そこには人家が一件だけあり、宿を見込めるのはそのあばら家だけだった。あばら家には老婆と娘が2人で住んでいたのだが、実は老婆は鬼婆だった。金品を奪うために、泊めた旅人の寝床を襲って殺していたのだ。娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。老婆が殺した旅人が999人に達したある日、1人旅の稚児がやってきた。そして老婆はいつものように寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって母親の行いを咎めようとしていたのだった。老婆が自分の行いを悔いていると、稚児が現れた。実は稚児は、浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くため訪れたのだった。観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆は今まで殺した人を投げ捨ててきた池に、ひとり身を投げたという。
この最後の老婆の行いについては、竜になった・仏門に入ったなど諸説ある。老婆が身を投げたという池は「姥ヶ池(うばがいけ)」として、後世に伝えられており、現在は花川戸公園に跡地が存在している。
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