日本の妖怪を代表する存在で、各地に伝承があり、異称のバリエーションも多数ある。
体格は子供ぐらいで、全身は緑色または赤色。頭頂部に皿があることが多い。皿は円形の平滑な無毛部で、いつも水で濡れている。もし皿が乾いたり割れたりすると力を失い、最悪死んでしまう。口は短いくちばしで、背中には亀のような甲羅があり、手足には水掻きがある。 両腕は体内で繋がっており片方の腕を引っ張るともう片方の腕が縮み、そのまま抜けてしまうこともあるという。また、肛門が3つあり、体臭は生臭い。
一般に多い形態は頭に皿を戴く半魚人だが、イメージも多様。必ずしも川に限らず、海にもいたようだ。
だから、「河童」は、妖怪分類の上でも大きなグループを形成する、一種の「普通名詞」と考えるべきだろう。
南方熊楠は、紀州で、河童を「かしゃんぼ」と言ふのは、火車からの連想とした。昔は、人を取り殺そうとする妖怪は、すべて「かしゃ」と呼んだのだという。
これは、卓抜、かつ簡潔な折口信夫「河童の話」に紹介されている。
折口信夫が説くところでは、そもそも水神で、この神が零落したのが河童だという。
食器の皿に、食べ物ではなく、生命の根源である水を注ぐ意味もあり、ここから河童の皿が生まれたと考えている。
元が水神というのは、各地に河童の信仰があった点でも、肯ける意見だ。
「封内風土記」によると、陸前に川童明神社があり、伝説では坂上田村麿が東征した時に勧進したというが、祭神ははっきりしない。
「攝陽郡談」には、河虎宮の記載がある。
河童が住んでいた河虎の凄という場所があり、殺したところ、崇りが起きた。河童の霊を鎮めるため、川岸に祠り、河虎宮と名づけたという。
また、河童は、人に取り憑くこともあったという。九州では広く、河童の憑依が信じられていた。
「甲子夜話」に、対馬の河童が紹介されている。
この河童は、浪間にのぞく岩の上で甲羅干しを楽しみ、人に見られると、海中に飛び込んで隠れる。
河童が人に憑依すると、狐に憑かれた時とそっくり同じ状態になるのだという。
河童に関するタブーもあり、鹿児島では、五月の「河童の婚礼」とされる日には、水に入ることを固く禁じた。
「越後風俗誌」によれば、川の渡しを守る家では、夕顔と胡麻を決して栽培しなかった。
河童が夕顔と胡麻を嫌うので、これらを植えないことで、舟の安全を保ったのだという。
馬を水中に引きずり込む河童の伝承も、各地にある。
馬は大事に飼われていたので、水浴びさせて、禊(みそ)ぎをさせることがあった。この時、馬の手綱を握っているのが、猿だったという例があるという。
この起源から、馬と河童の関係が始まったのではないかというのが、折口信夫の意見だ。
古くは、毛利元就の家臣が退治した妖怪の名が、淵猿だった。頭の窪みの中に、水をたたえていたという。
また、「三河雀」によると、水の中に住む妖怪が、川猿と名づけられている。
しかも、この川猿は馬の厄病神で、馬が出会うと頓死してしまうのだ。
武田信玄の典医が、馬に乗って、川を渡ろうとしたところ、水中から黄色い腕が、馬の脚をつかんで離さない。
刀を抜いて、斬り付けると、岸に腕がころがっていた。
その夜、医者の寝床に忍び込む、怪しい影があった。河童が腕を取り返しに来たのだ。
河童は、秘薬を伝授し、腕を返してもらう。
馬をかどわかし損なった河童が、許してもらう代償に、骨接ぎの秘術を教えたと、「利根川図誌」にある。
これらは、各地に伝わる、河童の詫び状とも関連するだろう。
河童を避ける、まじないの和歌が「中陸漫録」に引用されている。
天草では、トミシャゴとカタバミをすり潰した汁で、爪を赤く染め、花と葉を髪に付けておけば、夕方に海に入っても、異変に遭うことがないと、信じられていた。
なお、折口信夫は、河童の夫婦像を自宅に祠っていて、その歿後にも、何か生きているかのような雰囲気を漂わせていたという。
そこで、像の中から魂を抜き、水を入れた器に移し、その水を川に流すという儀式を執り行った。河童像の魂を、川に戻したのだ。
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