調伏された九尾の狐が、殺生石に変身し、付近の鳥獣を毒で苦しめるなど、更に悪を重ねたとする伝承。
殺生石とされるのは、栃木県那須町に現存する溶岩で、微量ながら、硫化水素などの有毒ガスが噴出している。
ここから、鳥獣が近づけば落命する、殺生を余儀なくされる怪石という伝承が生まれた。
鳥羽上皇を惑わした玉藻前は、陰陽頭・安倍泰成に九尾の狐の正体を暴かれ、那須野に逃れる。
九尾の狐の院宣により、二人の武将は、数万の軍勢を率いて、九尾の狐を弓で射ると、今度は石に変身して、毒を吐き続けたという。
なお、当地の伝承にはバリエーションが見られる、
那須野に現われた九尾の狐は、婦女を誘惑し、恐れられていた。
那須の領主・須藤権守貞信が、朝廷に九尾の狐の退治を要請。三浦介義純と上総介広常を、安倍泰成を参謀に、八万余の軍勢とともに那須野へ派遣。
調伏軍はまず、犬を放って演習を始め、騎射を訓練。貞信が、刺さったら決して抜けない矢を得る。
貞信が、九尾の狐を射ると、巨大な殺生石に変身する。
この後にも障りは続いたので、今度は殺生石を祠ろう必要が生じたのだという。
九尾の狐の鎮魂のため、名僧が何人も訪れるが、殺生石の毒気で頓挫する。
南北朝の僧に、源翁心昭がいた。源翁には、自らの因縁に苦しむ毒龍に引導を渡し成仏させたという伝承もある
この源翁が、殺生石の教化に成功。すると、3つに割れて飛び、1つが残る。これが現存の殺生石なのだという。
一説に、三つの破片は、3ヶ所の高田と呼ばれる地に飛散したという。ただし、殺生石飛来の伝説は他にも各地に存在する。
玄翁のが開山した、岡山の化生寺境内には、殺生石の石塚が、また、福島の表郷中寺にも、殺生石の破片と言われる石が安置されている。
ちなみに、殺生石破碎の時に使った金槌を、玄翁にあやかり、玄能の呼称が始まったとする説もある。
四散した殺生石の中には、石を踏むと、足にマメやイボができるという信仰もある。
昔の人は、これを玉藻の石を踏んだためと、よく口にしたという記録もある。
大阪に伝わる殺生石は、石に鳥や虫が留まると、表面が二つに割れて呑みこむと伝えられている。
また、殺生石の一種と考えられる蛙石に、人が座ると、誰しも自殺したくなってしまう。
死んだ後、石の傍らに揃えてある下駄を取り片づけても、いつの間にか、下駄が元に戻っているという怪談もある。
石の崇りについては他にも、長野の鏡石がある。これは山の神が頂から鏡を御年、石に転じたとされるもので、玄能で砕こうとすると、火の雨が降り、その者は落命したという。
これら殺生石の物語は、鍛冶師や石工によって伝承される一方、各地を行脚する比久尼などによる口誦が芸能にも移入したのだろう。
殺生石は、まず能曲の主題として、取り入れられた。
能の「殺生石」では、 玄翁が旅先の那須で、巨石の上で空飛ぶ鳥が落ちてしまうのを目の当りにする。
前シテとして、土地の女が、玉藻前の物語と、殺生石のいわれを語り始める。実は、この女こそが、殺生石の執心が具現化した姿と判る。
玄翁が殺生石に引導を授けると、石は二つに割れて中から狐の姿をした物怪が後シテとして登場。
朝廷の追討を受けて命を落とした過去を物語り、回心したことを告げ、舞台から去る。
この演目では、舞台に殺生石の大道具が設けられる点でも、特色がある。
能曲「殺生石」は玉藻前伝説ともども、近世では小説の組材としても活用。瀧澤馬琴は、草双紙「殺生石後日恠談」を物している。
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