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巨大なナマズが地底に潜み、地震を起こすと信じられて来た。地震の原因と想定されたのは、元来は龍だった。
この地底の大ナマズを押えるために、要石と呼ばれる巨石が、茨城の鹿島神宮、千葉の香取神宮にそれぞれ祠られている。一説に、鹿島神宮の要石がナマズの頭、香取神宮が尾を押さえているとも言われている。
鹿島神宮の要石を押さえつけているのは、祭神のカシマミヅチとされるが、これは地震源が龍と考えられていた時代からの名残りとも考えられよう。
「古事記」の表記に従うと、建御雷之男神と記されるこの雷神の、要石に関する事蹟は記紀には見当らないため、中世以降の信仰と思われる。
更に、定家の門弟として知られる鎌倉期の歌人・葉室光俊が、この要石を歌に詠んでいるので、遅くとも13世紀には存在が知られていたと見て良い。
一方で、ナマズと地震との関係は「日本書紀」にも言及があり、天正地震を体験した豊臣秀吉が、伏見城築城の際に認めた文書に、ナマズが起こす地震への注意を喚起している。
ナマズが地震と関連付けて、視覚イメージが固定されたのは、江戸時代あたりと推定される。直接には、安政大地震の時から流行を見た、鯰絵と呼ばれるカリカチュアの摺物が大きく貢献した。
カシマミヅチが地震源であるナマズをこらしめる図柄とともに、庶民がナマズに意趣返しする絵もあり、災害の後にあっても、大衆がイマジネーションに遊ぶ様子が窺える。
鯰絵のプロトタイプとして、瓢鮎(ひょうねん)図と呼ばれる禅画が室町時代にあり、これは、ぬるぬるしたナマズを、滑りやすい瓢箪でいかに押さえるかという「ひょうたんなまず」の画題を描いた水墨画である。
また、大津絵でも、瓢箪を持った猿がナマズを押さえるという画題が存在する。
肥後国の阿蘇神社には、ナマズに関する古伝が多い。主神の健磐龍命(たけいわたつのみこと)が蹴破った阿蘇谷の湖水が流出すると、湖の主である大ナマズが、遠く上益城の村に流れ着く。この村は鯰村と呼ばれたという。
このナマズを片付けるのに天秤棒で六回分を要したので、六荷から転訛、六嘉なる地名が生まれた。
また、阿蘇谷の黒川の流れが曲がりくねっているのは、ナマズの流れ出た跡というし、ナマズの霊を祠ったのが、国造神社の鯰社だという。
一方で、豊玉姫神社のナマズは、国に大難あるときに六尺の大ナマズとして顕現し、神託を告げるという。
豊玉姫は乙姫とも同定され、ナマズが乙姫を救けたとの伝承もある。
同社では、ナマズは肌の病いに利益があり、美肌の神としても親しまれている。
同様にナマズを祠った社が、他に遥拝神社、日奈久阿蘇神社、鯰三神社、大池神社などに置かれている。
御坊山には阿蘇大明神が祀られているが、洪水の時に神輿をを運んで来たのがナマズとされ、氏子はナマズを食べない。遥拝宮には、今でもナマズの絵馬が多く奉納されている。
付近にはナマズに関する伝説も多く、白旗の大ナマズ、赤飯とナマズ、御坊山とナマズなどの伝承が存在する。
阿蘇山があることからも、噴火や地震との関連が興味深いところだ。
阿蘇神社では、ナマズは神の使いとして、今でも尊重している。
他の地方でも、筑前国の大森神社の氏子である五つの村では、ナマズを食べないことで知られていて、これは大森神の使いがナマズだったからと、「太宰管内志」が伝えている。
更に、「新撰美濃志」には、美濃国の養老寺の本尊である不動尊は、生津からナマズに乗って来顕したので、ナマズを食べた者は参詣できなかった。