平安時代中期に「新皇」と名乗り、朝廷に牙をむいた豪族がいた。
それが「平将門」である。
しかし、即位後、(承平天慶の乱)により、わずか2ヶ月ほどで討伐されてしまうのだった。
平将門を打ったとされるのは、藤原秀郷、平貞盛である。
『善知烏安方忠義伝』では、平将門の娘がその後、遺志を継ぎ、妖術などを駆使して朝廷に立ち向かったという話もある。
現在、平将門は、御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られているが、死してなお、怪異として噂は絶えていない。
日本刀の主流となった、反りのある刀を最初に作らせたのは、平将門とも言われている。
『平将門の生涯』
正確な生年は不明とされているが、一説には、討ち取られた時の年齢が38歳だとされており、その事から903年頃とする。884年頃とする説もあるようである。
『平将門の生い立ち』
平将門の父、平良将は、下総国佐倉(現千葉県佐倉市)を領地としていたと伝えられている。
平の将門は、母親の出身地である相馬郡で育ち、その出身地の名前から「相馬小次郎」と称されていたとされている。
しかし、これは相場郡に勢力があったと言うわけではないとの事。
同国の豊田・猿島両郡が実際の勢力範囲だと考えられているようだ。
将門は、15~16歳ほどの頃に、平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を私君(主従関係を結ぶこと)としている。
将門の父は、鎮守府将軍であり、将門も桓武天皇の五世ではあるが、藤原氏の政権の下では滝口の衛士でしかなかった。
忠平に人柄は認められていたとはいえ、官位は低かったようだ。
そして、京で12年ほど過ぎ、検非違使(律令制下の令外官の役職)の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだのだが入ることができなかったようだ。
そこで、日本外史や神皇正統記では、「それを恨みに思って東下へ反逆を犯した」とされてはいるが、謀反の本意は「制度に対しての行動」ではないか
と、山陽外史はしている。
この後、将門は、東下する。
その途中、叔父の平国香(平貞盛の父)らが、上野国花園村(現群馬県高崎市)の染谷川にて、将門を襲撃したのだが、叔父の国香の弟にあたる、平ら良分が、将門を援護し、これを打ち破る。
ここでの襲撃戦は、蚕飼川の戦いがモデルとなって、妙見神を讃えるために創作されたもので、実際はなかったという説もあるようだ。
この後、「平将門の乱」へとつながる騒動がおこるのだが、その説はさまざまあり、いまだに確定していない。
『平将門の乱がおこる発端となった説』
1.長子相続制度の確立していない当時、伯父の国香(國香)や良兼に独断で分割されていたため、争いが勃発したという説。
2.常陸国(茨城県)前大掾の源護の娘や或いは良兼の娘を巡る争いがきっかけとなった説。
3.領土争いにて、源護と平真樹の争い介入が原因で争いが始まった説
4.源護か、源護と縁のある者との争いではないかという説。
その後、「将門の乱」にて、将門は、戦況は有利に運んでいた将門だったが、風向きがかわり、連合軍の反撃に合い、矢が将門の額に命中し、あえなく敗れた。
『平将門の首伝説』
「京都 神田明神」京都市下京区新釜座町(四条通西洞院東入ル)には、小さな祠があるのだが、そこには平将門の首が眠っていると言われている。
「太平記」には、平将門の首は、何ヶ月経っても腐らず、生きているかのように目を開き、夜な夜な「斬られた私の体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けた。
そこで歌人の藤六左近なるものが、「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」
と歌うと、将門の首は、からからと笑い、朽ち果てたという。
しかし、将門のさらし首は、関東を目指して高く飛び去ったとも伝えられており、ほかにも、途中で力尽きて、地上に落下したとも言われている。
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