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坊主の姿をした、巨大なカニの妖怪。謎を問いかけ、答えられないと、人を食べてしまうという。
狂言には、鬼山伏狂言と呼ばれる作品群がある。威勢を張る登場人物が、弱点を指摘されて翻弄される様を笑う演目だ。
「蟹山伏」では、 家来を連れた山伏が蟹ヶ沢へ来ると、にわかに空が曇り、 目の前に妖怪が現れた。その妖怪は、慢心する山伏を懲らしめようとする、カニの精だった。カニのハサミで耳を挟まれただけで、山伏は悲鳴をあげてしまう。カニの精は、泣く二人を笑いながら去る。
恐らく、この物語を元にしたのが、蟹坊主だったのだろう。
山梨の長源寺には、以下の伝承がある。甲斐国の同寺の住職のもとを、謎の雲水が訪ねてきて、問答を申し込む。
「両足八足、横行自在にして眼、天を差す時」はどうかと問う。答に詰まる住職を雲水は殴り殺し、どこへともなく立ち去った。その後も、代々の住職が同様に死に、とうとう寺は無人となってしまう。
話を聞いた旅の僧が泊まったところ、例の雲水が訪ねて来て、同様の問答を仕掛ける。
「お前はカニだろう」と答えると、雲水は巨大なカニの正体を現し、その甲羅が砕けて、血が流れた。以来、寺には平穏が戻ったという。
異版もある。寺に、2畳もある大きなカニが、坊主の姿をして隠れ住んでいた。実は、寺を任された住職は、蟹坊主に次々と食べらえてしまったのだ。
旅の憎が泊まったとき、蟹坊主が「両足八足、大足二足、横行自在、両眼大差」とは何か、と問答をしかけた。
旅憎は「かんにん坊、かんにん坊」と答えた。すると妖怪の姿は消えた。寺の裏にある池の水を抜くと、底には、大カニと多数の骸骨が見付かったという。
ディティールの相違を幾つか紹介しよう。寺で旅僧が出会うのは、背丈が10尺もある怪僧で、正体を見破った僧は、先端が鋭く尖った、独鈷(とくこ)という仏具で刺す。血痕を辿ると、そこには巨大なカニが死んでいた。
また、長源寺の本尊である千手観音の姿が、カニの死体から立ち顕れ、それから、寺の本尊になったともいう。
長源寺の山号は蟹沢山というが、享保までは富向山と称していたから、蟹坊主の伝説が語られ始めたのは、江戸中期以降と推定される。明治には、教化のために、「救蟹伝説掛軸」が作成された。
付近には、蟹追い坂、蟹沢といった地名が残されており、長源寺にも、髮坊主の爪跡とされる2つの穴があいた石塚や、妖怪が投げたという巨岩も、今日まで伝わっている。
他にも、石川県の珠洲、富山の小矢部などにも、似た伝承が見られ、小矢部には北蟹谷の地名が残されている。
橋の上で、巨大なカニが僧に化けて問答をしかけたが、住職に鉄扇で退治されたというストーリーも、岩手の一関に伝わっている。
カニの害を、空海が封じた伝承もあった。「播磨名所巡覧図絵」によると、和(かにが)坂に昔、大きなカニの化け物が現れては、人々を苦しめていた。弘法大師がこのカニを封じ込め、この地名が生れたという。
もともと、カニは海神と関連して考えられてきた。「日本霊異記」では、老人が売っていたカニが救われるが、この老人は海の神、カニは海神の化身とされた。
似たエピソードでは、川のカニと水神へと替わり、他の、カニに関わる寺院の由来書では、観音などの使いと変化が見られる。
しかし、農耕が盛んになるにつれ、田畑の害を成すカニが、怪物として語られることが増えたのだろう。
「豊前国志」には、川上の奥にある淵の主は大カニで、これを目撃すると凶事があったと記されている。
また、伊豆には、次の伝承がある。流浪の女が行き倒れになると、カニと蚊が群がり、村に疫病が万延した。村人が、これを祠ると、神威で、村からカニと蚊はいなくなったという。