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狐憑き(きつねつき)は、悪い狐の霊が憑依した状態を指す。背景には、各地に秘かに伝わる、狐の霊験を信じた民間信仰があった。
農耕神や商業神として尊ばれる稲荷神への信仰は幅広く行われ、狐はその使いやシンボルとして親しまれて来た。多くの稲荷社で、狛犬の代りに宝玉を口にくわえた狐像が置かれていることにも窺えよう。言わば、聖獣である。
この狐のイメージとはまったく別に、管狐(くだぎつね)やオサキが憑くことを、特に狐憑と呼んだ。
管狐は、ごく小さな謎の獣とされた。昔は、この不思議な動物を信じる家系を、クダモチやクダ屋と名づけ、区別したのだ。管狐は、家にも富をもたらすが、75匹に増えてしまうので、やがて、その財産も食い潰してしまうと言われている。
管狐は、飯綱(いづな)や飯縄権現とも言い、これをあやつる者を、特に飯綱使いと呼ぶ。飯綱使いは、憎むべき相手に飯綱を飛ばして、病気にさせるなどと信じられていた。
オサキは、御先狐や尾崎狐とも表記され、尾が裂けているともいい、尾裂とも書く。このオサキを信じる家系は、オサキ持ち、オサキ使いという。
管狐とオサキは、北日本の信仰だった。これに対し、山陰では人狐(ひとぎつね)、九州では野狐(やこ)という信仰があった。
人狐は、池に住む水イタチともされ、カワウソだったのかもしれない。島根では、人狐持ちと呼ばれる特定の家から嫁を迎えると、人狐を75匹も連れて来るので、家が傾くと考えられた。鳥取では、狐憑きの家を狐づると言いならわし、家の周りに75匹の狐の眷族が住むとした。
野狐は、九州北部と南部で、特徴が異なる。
北部の壱岐島では、野狐が人の脇の下に潜むとその人は病になった。野狐に、火傷の傷跡をなめられると死ぬといわれていたため、火傷の場合は、蚊帳の中に入り、周囲に灰をまくか、または刀剣を置いて、野狐が中に入ることを防いだ。
九州南部では、野狐が憑いた家では、財産が使い尽くされ、しまいには、牛や馬にまで憑依し、苦しめた例もあるという。
飯綱使いと同様、狐を人に憑依させる術を心得た宗教者もいた。稲荷おろし、または稲荷下げとも呼ばれた者たちは、墮落した山伏や巫女だったという。
実態は、一種の占い師に過ぎなかったのだが、狐を憑けると称して、金をだまし取った。もちろん、本来の稲荷信仰とはまったく関係が無い。
稲荷おろしを行うと、呼んでもいない狐や、時には狸がその者に憑依した。「こっくりさん」と呼ばれる占いも、このあたりから発生したのだろう。
狐憑は、極度に興奮して、暴れ回ったりもした。今日では精神疾患とされる症状を、昔は狐の仕業と考えたのだ。
物託(ものつき)と表現され、「今昔物語」に出たのが、狐憑のもっとも古い例とされる。
「市井雑談」によると、豊臣秀吉の家来の娘に狐が憑いたので、秀吉が城に呼んだ。憑依した狐は、秀吉の心を読み、西国と四国の狐狩りをして懲らしめると知ったので、娘の身体から、慌てて退散した。
豊臣の七人衆の一人として知られた武将・加藤嘉明(よしあきら)にも、狐憑のエピソードが伝わっている。
加藤嘉明が、土地の者に命じて、狐を鉄砲で射った。すると、その男は暴れながら、わめき出してしまう。困った親族が祈っても、一向に治らない。そこで、一人の僧が、自分が妖魔を退散させると経文を読み始めた。
この様子を見た加藤嘉明は、その僧もまた狐だと指摘する。本来なら、命じた自分にこそ、憑依すべきだろう。自分が強いから、怖がった狐は弱い家来に憑いたのだと、笑っていたという。