悪路王(あくろおう)

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路王(あくろおう)とは、平安時代における蝦夷の首長である。
盗賊の首領と言われることもあれば、鬼とされる場合もあるようだ。
岩手のアテルイと同一視されているが、ほかにも異称が多数存在しており、どこまでが同一人物でどこまでが別人なのかは史料により異なる。

岩手県や宮城県に伝承が残っているのだが、ほかにも、北関東の栃木県や、蝦夷とは関係がない滋賀県にもゆかりの地とされている旧跡が存在しているようだ。
しかし、どの伝説にも、、坂上田村麻呂、または、坂上田村麻呂をモデルにした伝承上の人物によって討伐されているのは共通しているようである。
『賊としての悪路王』
悪路王に関して、一番古い記録とされているのが『吾妻鏡』文治5年(1189年)9月28日の条である。
『吾妻鏡』の略文。↓
「奥州合戦にて藤原泰衡を破った源頼朝は、鎌倉への帰途に着く際に捕虜の多くを解放し、残すところ30名弱を引き連れていった。途中でとある山に立ち寄った頼朝は、当地のいわれを捕虜に尋ねてみた。
捕虜いわく「田谷の窟といいます。ここは田村麿や利仁らの将軍が帝の命を受けて蝦夷討伐に赴いたとき、賊の主である悪路王や赤頭らが砦を構えていた岩屋です」
↑の「田谷」は「タコク」で達谷窟(たっこくのいわや)の事。
「田村麿」は田村麻呂の事だが、その100年後の人物のはずの藤原利仁が、同輩のように語られており、伝承に矛盾が生じているようだ。
赤頭という者は、『吾妻鏡』以外では確認したことがないという。
伊能嘉矩の解釈では、アカカシ→アカシラ→アカラと略せばアクロに通じるとし、元は一人の名前を2分して表記したことが、いつしか別々の人物として解釈されてしまったのではないかとされている。
また、別の説もあり、やはり赤頭は悪路王と別人で、、伊達郡半田村で死亡していたという説もあるようだ。
『日本王代一覧・元亨釈書』の略文↓
「桓武天皇20年(801年)。陸奥国の高丸という賊が達谷窟から兵を起こし、駿河国清見関まで攻め上った。坂上田村麻呂は節刀を賜り、討伐に出た。高丸は退いて陸奥に引きこもった。追撃に向かった田村麻呂は神楽岡にて高丸を射殺し、また悪路王という賊も退治した。」
高丸は、悪路王の事だと言われているが、『日本王代一覧』巻之2では別人のように記されている。
『悪路王が鬼だという説』
日野には鬼室集斯の墓があるのだが、そこには、「鬼室王女、朱鳥三年戊子三月十七日」と書かれた石碑があり、後代になると、この石碑の文字が人名だと忘れ去られ、この石碑の文字の「鬼」や「王」のみを読んでしまった結果が、悪路王の鬼伝説へと結び付つく。
そして、日野の蒲生野には「コボチ塚」がある。
この「コボチ塚」は、「雄略天皇」に殺害されたと言う「市辺押磐皇子」が、従者とともに埋められたものを後になってからこぼち(壊し)、二人を別々に埋葬し直した事から付いた名だという。しかし、この由来は忘れられ、鬼が塚を壊して、屍を喰らい、そこに住みついたという伝承になったという。
そしてこの 『天正本 太平記』巻第29「八重山蒲生野合戦の事」にはこう書いてある。
『天正本 太平記』巻第29「八重山蒲生野合戦の事」の略文↓
「佐々木道誉と佐々木秀綱が敵の接近を聞きつけ、舟岡山に登って敵の軍勢を見てみると、雲霞のような大軍が3か所に陣を張っているようだったので、自分たちも父子3人に分かれることにした。
一方面の部隊は五郎左衛門尉高秀を大将に200騎ほどを割り当て、蒲生野・小椋の一族を案内役とし、悪事高丸の壊塚(こぼちづか)を背後にして陣を張った。」
この3つをまとめると・・
「鬼室王女、朱鳥三年戊子三月十七日」と書いてる石碑の「鬼」と「王」のみを読んだ事による誤解、本来の由来が忘れ去られ、鬼が塚を壊して屍を喰らったという伝承になった事と、そして、「天正本 太平記」での悪事高丸の壊塚(こぼちづか)が繋がり、「こぼち塚=悪事高丸という鬼王が壊した塚」
という解釈により、悪路王は、鬼だという説になったのではないかと推測される。