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厩神(うまやがみ)は、水木しげるが、日本で広く信仰されていた守り神をイラストに仕立てた際の命名と思われる。
昔の農家にとっては馬は牛と並んで、家族同然に大切に扱われていた。また、労働力として農耕には不可欠で、財産でもあった。ここから、馬小屋である厩(うまや)の安全を守る目的で、魔除けとして、主に猿を祠った。
猿の絵を描いた絵馬やお札を魔除けとして貼ることも多かったが、馬小屋の柱の上に祠を設け、猿の頭蓋骨、または猿の手足を神体として納める場合もあった。これを一般には、「厩猿」と呼んだ。
鎌倉時代の「石山寺縁起絵巻」には、早くも馬小屋につながれた猿が描かれている。元々は猿飼と呼ばれる人々により、中世から行われてきたのが「厩祈祷」だった。
「猿曳き物語」に、この信仰に関連すると思われる、江戸期の「厩祈祷」の様子が紹介されている。
馬の持ち主は、猿飼に頼み、まじないの文句を唱えてもらった。
そのまじないの文句を見てみよう。昔、天竺に、羽の付いた馬が天より下ったが、人間は天馬を棒で追い回した。馬は大暴れ、人間と馬は互いを忌避し合った。
そこで、天上の庚申尊は、自ら猿に変身し、人間に馬に乗る事を教えた。また、馬の病気も、猿が擦ると元気になった、というのだ。
季節ごとに、馬の安全を願う祭礼として、馬小屋の周りで猿を舞わせる風習もあった。大道芸の猿まわしはその名残りである。
これらの信仰から派生して、猿の頭蓋骨や手を祀るようになったのだろう。
骨を入手できない人々は、猿を描いた絵馬や護符、そしてサルノコシカケまで祀ったのだ。
骨は、馬小屋の軒下や柱にワラ縄や針金で無造作に吊したり、ワラや綿で包み、石造や木造の神棚を設けたり、仏壇の引き出しの中に大切に保管したりした。
これらの骨については、様々な言い伝えが残っていた。頭蓋骨に関しては、馬の守り神で、子馬が無事に産まれ成長したとか、馬が病気にかからない、火災が起きないなどの効力があったという。
猿の手は、それで馬の腹をさすると安産するといい、これが転じて、猿の手で種を蒔くとキュウリやササゲが豊作とも信じられていた。
農家にとって、厩神は福の神だったので、広く信仰されたのだ。
猿が馬の守り神であるという信仰は、インドが起源と考えられている。
日本では陰陽道によって体系化され、五行の三合によって馬と猿が関連づけられたとする説がある。五行思想とは、木・火・土・金・水という五つの気が互いに作用しあって天地の万物を生じたとする考えで、現象一切を決まった理屈で説明するための原理だ。
陰陽道では、三合といって世の中に存在する物全て、気の循環が考えられた。馬は火、猿は水に関係するという発想を背景にしたのが、厩神信仰。火を水で制御しようという論理なのだ。
また厩神は、牛にも家畜の守り神としての力を発揮したようで、岡山など西日本では、猿の頭蓋骨が、「牛神様」と呼ばれて信仰されていた。
馬と一緒に。観音菩薩の参拝に行くということもあった。守護仏として馬頭観音を祀ることもあり、馬が不慮の死を遂げた際には、その場所に、馬頭観音像を建てて供養をすることもあったという。
馬の守り神であるとともに、猿そのものを神とするという信仰も生まれた。この一つが、庚申信仰だった。
村々の境に庚申冢を置いたのも、この信仰の一環である。庚申講の旗や掛け軸を見ると、三猿の他に、三ヶ月、太陽が描かれている。これらに人の一文字を加えると、火になるという思考法で、火申という表現もあった。