cover

百々目鬼(とどめき・どどめき)は、平将門を討った藤原秀郷の伝承を背景にした、多くの眼をそなえた妖怪。
鳥山石燕は百々目鬼を、「今昔画図続百鬼」で裲襠(うちかけ)をまとった女性に描いている。しかし、顔も身体も判らないイメージだった。人間の形態を取りながら、著物の中は空洞、またはまったく見えない姿だったのかもしれない。ただ、左腕だけがあらわになり、その表面に、細かな眼が幾つもあるというのが、判り得る妖怪の外見だ。
石燕による説明文には、こうある。つねに人の金に手を付けてしまう、浅ましい女がいた。金を盜む罪を犯し続けたので、腕の皮膚に鳥の目のような斑痕を生じた。これは、欲張るあまりに、金銭の精が崇りを成したのだろう。
鳥目は、当時の銅銭の、中央の穴が鳥の目に見えることからの別称である。金は、俗に「お足」と呼ばれることもあり、「足が付く」という洒落も考えあわせたのかもしれない。
「百目鬼」「百目貫」「百目木」などと書いて「どどめき」「どうめき」と読む地名はが日本各地にあった。ここから、石燕が創作した妖怪との解釈がある。
しかし、水木しげるの「百目」のモデルになったと考えられる、ずんぐりした、別のフォルムの妖怪がいた。四肢を持ち、全身に目がある妖怪は、葛飾派による版画のモティーフとなり、これも「百々目鬼」と記されているのだ。
百目鬼(どうめき)と呼ばれる妖怪退治の伝承も、関係がありそうだ。これは、藤原秀郷による平将門成敗のメタファーである。
平安時代に、平将門は、常陸国や下総国に勢力があった。全国に手を拡げようと、いわゆる平将門の乱を起こす。
当時、下野国の押領使であった藤原秀郷は、将門の軍勢と幾度にもわたり、剣を交えるが、苦戦。
秀郷は下野国に戻った折、宇都宮大明神に戦勝祈願を行い、神から聖剣を授かる。この剣を持って引き返し、将門をようやく討ち取ることができた。この功績をもって、秀郷は朝廷から恩賞として下野国司に任ぜられる。
秀郷は下野国に館を築いて、領地を治めた。すると、土地の老人から、兎田に百の目を持つ鬼が現れると知らされる。
秀郷が兎田に赴くと、丑三つ時の頃、にわかに雲が巻き起こり、両手に百もの目を光らせ、全身に刃のような毛を持つ、身の丈十尺の鬼が現れ、死んだ馬を食べていた。
秀郷は弓を引き、妖怪の身体で、最も光る目を狙って、矢を放った。矢は鬼の急所を貫き、鬼はもんどりうって苦しみながら明神山の麓まで逃げる。鬼は身体から炎を噴き、裂けた口から毒気を吐いて苦しんだ。
翌朝、秀郷は鬼が倒れていた場所に行ったが、黒こげた地面が残るばかりで、鬼の姿は消えていた。
400年の後、室町時代には、明神山の北側にある寺の住職が怪我を負ったり、怪火によって寺が燃えるといった事件が続いた。
智徳上人が、その寺の住職となって以降、必ず姿を見せる歳若い娘がいた。実はこの娘こそ、400年前に、瀕死の傷を負った鬼の、変身した姿だったのだ。
長岡の百穴に身を潜め、傷ついた体が癒えるのを待っていた。更に、娘の姿に身を変えては、秀郷に斬られた兎田を訪れては、邪気を取り戻すため、自分が流した大量の血を吸っていたのだった。寺の代々の住職は、邪魔だったので、襲って怪我を負わせたり、寺に火をつけては追い出していたという。智徳上人はそれを見破り、遂に鬼の正体を暴く。
これ以降、この地名を百目鬼と呼ぶようになったという。今も宇都宮の明神山には「百目鬼通り」という名称で残る。この伝説にちなんだ百目鬼面と呼ぶ、ヒョウタンを加工した郷土玩具さえある。