一つ家(ひとつや)の鬼婆)は、江戸の花川戸にいたとされる鬼女の伝説。
用明天皇の時代というから、今から1400年ほど昔の頃。花川戸の近くの浅茅ヶ原に、唯一の人家であるあばら家があった。ここには、老婆と若く美しい娘が住んでいた。この老婆は、旅人を泊めては殺害し、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てていた。娘はその犯行をいさめて来たが、老婆は聞き入れなかった。
老婆の殺した旅人が999人に達した時、一人の稚児が宿を借りた。老婆は、寝床についた旅人の頭を石で叩き割る。しかし、よく見ると、それは自分の娘だった。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自ら老婆の罪を止めようと決心したのだ。
老婆が悔いていると、稚児本人が現れた。稚児は、浅草寺の観音菩薩の化身だったのだ。
鬼婆は池に身を投げたと伝えられ、そこは姥ヶ池(うばがいけ)と呼ばれた。一説に、鬼婆は、観音の霊験で龍に変身させれたともいう。
似たような鬼婆伝説は、他にもある。
福島の二本松には、鬼婆の墓として、黒塚(くろづか)があった。この鬼婆は安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたという。
一つ家の伝承から100年ほど後の、神亀年間。紀州の僧が、安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩屋に宿を求めた。そこには、一人の老婆が住んでいた。老婆は、奥の部屋を決して見てはいけないと僧に言い残し、岩屋から出て行った。奥の部屋をのぞくと、そこには、人間の白骨死体が山のように積み上げられているではないか。
驚いて、逃げ出した僧を追って、老婆は恐ろしい鬼の姿に変身、猛烈な速さで追いかけて来た。僧は必死に経を唱えると、持っていた観音像が光を放ちつつ空に上り、白真弓に金剛の矢をつがえて射って、鬼婆を仕留めた。
別説もあった。観音像の力で雷鳴が轟き、鬼婆は雷に打たれて絶命したとか、夜が明けたので僧の命が助かったなどともいう。また、その僧は、鬼婆に偶然出会うのではなく、鬼婆を討つ目的で安達ヶ原へ向かったという伝承もある。
僧は、安達ヶ原で旅人たちを襲う鬼婆の調伏の命を受けたものの、鬼婆はすでに逃走していた。後を追って、尾山で鬼婆に追いついた僧が、鬼婆に斬りつける。しかし、鬼婆はわずかに傷を負ったのみで、一度は取り逃がしてしまう。
その約3年後、ある旅人が鬼婆を見付け、報せを受けた僧は逃げた鬼婆を追い詰めた末、今度は見事に退治した。鬼婆の頭は僧の建てた堂に、胴体は尾山の丘にと、別々に埋め、供養のために桜を植えた。
鬼婆の頭蓋骨は、僧の子孫に伝わったとも、桜は、後に見事な大木に育ったともいう。
後代、この鬼婆の伝承は、「黒塚」の題名で神楽の演目になり、ここから、娘の病気治療のため、赤子の生き肝を切り取る、岩手御前というキャラクターが登場したと思われる。
また青森にも、別の鬼婆伝説がある。
源頼義の家来が、敵地だった陸奥への潜入を命じられ、娘を故郷に残して、妻だけを連れて行く。侍は敵に討たれてしまうが、女は陸奥に留まった。数十年後、老いた女の住む庵に、旅の夫婦が宿を求めた。女のほうは身重だった。嫉妬した老婆は、包丁で女の命を奪う。実は、女は、他ならぬ老婆自身の娘だったのだ。この後、老婆は旅人を襲う鬼婆に変身する。
浅水には、鬼婆が包丁を洗ったという滝が伝わっており、浅水(あさみず)という地名も、安達ヶ原へ行った者は殺されるために、翌朝を迎えることができないという意味の「朝見ず」が語源とされている。
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