cover

以津真天(いつまで・いつまでん)は、中世に出現した怪鳥。後に鳥山石燕が視覚イメージ化し、この妖怪を以津真天と名づけた。
「太平記」に、以津真天の原話と見られる怪談がある。建武年間に、疫病が流行して、死者が多く出た。この頃、毎晩のように紫宸殿の上に怪鳥が現れ、「いつまでも、いつまでも」と鳴いたという。公卿たちが、源頼政の鵺(ぬえ)退治にならって、弓の名人に退治させようと衆議が一致し、指名された侍が、鏑(かぶら)矢で見事、怪鳥を射止めた。
その怪鳥は、まことに妖しい姿だった。顔が人間、、曲がったくちばしが付き、口にノコギリのような歯が並ぶ。しかも、身体はヘビのようで、両足の爪は剣のように鋭かった。翼を広げると、ワシより大きく、1丈6尺にも及ぶ、巨大な怪鳥だったという。
江戸期に入ってから、鳥山石燕が絵に描いた。その「今昔画図続百鬼」に収められたイラストを見ると、長い尾を具えた、爬虫類にも見えるフォルムになっている。妖怪名も「太平記」の記述に従って、「以津真天」と漢字を当てた。同書の解説文からも、この故事を踏まえたことは明らかだろう。
昭和の「日本妖怪図鑑」では、野原に死体を放置しておくのを戒める妖怪として掲載されたが、これはもちろん、この本で付け加えられた要素だった。しかし、建武の時代には、鎌倉幕府が滅び、天皇の親政が失敗するなど、激動の時代だったから、各地で武士の反乱も起きていた。こういった性格の妖怪が出て来るのが、肯ける背景はあったのだ。
怪鳥の事蹟は、日本にも数多い。中でも有名なのは、工藤祐経の館に出た妖怪だろう。滝沢馬琴が「燕石雑志」に収めた随筆によれば、平安時代、キジのような妖怪が現われた。余りの恐ろしさに、占いが行われる。この結果、謹慎をすべきとの結果がでたものの、祐経は無視したのだった。よく知られるように、この怪事件のすぐ後、祐経は曽我兄弟に討ち取られてしまう。人々は、この前兆として、怪鳥が出たのだろうと噂した。江戸の随筆に鳥の怪談は散見できるが、特に鵺の話は有名だったようだ。「塩尻」でも、田原藤太の退治した大百足虫の例と並べて、天野遠景は朝廷内の庭で「怪鳥」を射殺したと書いている。
不気味な鳴き声も、怪鳥の特徴だった。「月堂見聞集」には、京都で享保年間の出来事が記されている。その怪鳥の声が人のうめき声に似ていたため、「うめき鳥」と名前が付く。姿を見ようと、近所の者が森林を捜索したが、怪しい鳴き声しか聞こえなかった。古老が言うには、300年前にもこの辺りで鳴いたと伝えられていて、その姿はサギのようで青いという。
「閑窓自語」にも、安永年間、同じ京都に現われた類例がある。ある夜、御殿の上に牛車を引くような大きな音が続き、殿上人や女官たちが恐れおののいた。乳母が御殿の上を見ると、鳩ほどの小さな鳥が瓦の上にいたという。しばらくして、南の方向に飛び去った。鳥の姿が見えなくなると、怪しい音はしなくなった。
沖縄にも、五位鷺(ヨーラサー)という、怪鳥がいた。夜、五位鷺が鳴きながら現われた場所では、怪事件が発生するといわれていた。凶事を避けるためには、この鳥が鳴いたら、木臼を杵で3度叩きながら「ナーマヤード」と唱えなければならなかったという。
「和妙類聚抄」には、夜鷹という妖怪の記述がある。夜行性で、鳴き声で怪をなすという。目撃談によると、黄昏時に木立の茂みより立ち出る鳥が、道に隠れ、人が通れば移動してまた隠れた。形は定かに見えなかったというが、これは夜鷹だろうという。