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中国・四国地方で、土地の神をミサキと呼び、同じように、死者の魂をもミサキと表現した。
愛媛では、ミサキには天ミサキ、海ミサキ、七人ミサキなどに区別された。海難事故等で死んだ人の霊を主にミサキと呼び、ミサキに出会って、災いに遭うのを「イキアイ」と呼び、大いに恐れた。
南宇和では、ミサキは人に祟る神で、「ミサキが食い付く」などとも表現した。特定の場所に祀られたものではなく、野山で行き合う神、また、祀り手のない「迷い仏」とも言われていた。ミサキは人間にも取り憑き、川で憑くを川ミサキとも呼んだ。
また、ミサキは悪い風を起こすとも信じられていた。牛馬が急に草を食べなくなって急に倒れるが、まじないを行うと回復する。この不思議な現象を、「ハカゼに打たれた」と言い習わした。
真庭で祀られる「地主様」という土地の神は、その昔、彼らの先祖が旅先で殺した七人の旅人が祟るために祀ったもので、七人ミサキとも、あるいはミサキ大明神とも呼ばれた。誰か殺さないと安寧が得られない七人ミサキも、神として祠られる場合があったのだ。
高知や福岡で、ミサキは船幽霊の一種とも考えられ、海で死んだ者の霊がミサキに変化するとした。漁船に取り憑いと、船がまったく動かなくなる。この現象も、七人ミサキと呼び、飯を炊いた後の灰を、船から海へ捨てると、妖怪が離れるという。
落合では、山麓の畑に接して森林があり、その中に小祠を設けて、ミサキを祀っている。これを先祖のミサキとも呼び、その木々の枝を折るのはタブーとされた。真剣に信仰すれば、ミサキが守ってくれるが、さもなくば、崇りもあったという。
岡山に、トウビョウというヘビにまつわる民間信仰があった。トウビョウの森から谷間を隔てた、南の尾根に七人ミサキの森があったという。近隣では30年に1度、ミサキが憑いて死ぬ者が出ると言われていた。七人ミサキが憑いたら、祓い落とす方法はなく、鎮める方法もなかったという。
忌むべき場所もまた、ミサキと呼んだらしい。事故がたびたびおこる川や崖まで、ミサキと呼ぶ例があった。
山口では、ミサキは偉い人が海で死んで、その魂が「モーノモーリ」と浮遊しているもので、人に憑くという。ミサキに憑かれると体のあちこちが腫れ、最後には命を取られる。また「フルイ」が来ることもあるといい、これは身体が震えるのだと思われる。祓うには「オガム人」に「シホー」という儀式を執り行ってもらった。
ミサキは御先と書き、神の使いの動物もまた、ミサキと呼ぶ。
茅刈のミサキ様は蛇を祀ったものと言われ、雨が降らないときには「センバタキ」という名の儀式が行われる。
ヘビは、水神のミサキであるとされている。苫田のある家では、種モミを浸す神聖な泉に姿を見せるヘビの力によって、水神の神意を占ったという。このように、旧家には「ヌシ」と呼ばれる白蛇の伝説が伝わる家が多かった。トウビョウの正体も、白蛇と言われる場合もあった。
備中では、「木野山様」の小祠が珍しくなかった。明治期にコレラが大流行した頃、木野山神社を盛んに勧請したのだという。もともとは、木野山のミサキである狼を迎える信仰があったからだという。
落合では、本家の屋敷の北西隅にあるサカキの古木のそばに小祠を設け、ミサキを祀っていた。先祖のようにも言われていたが、ミサキ摩利支天とも呼ばれていた。これはウシロ神という守護神であり、祀れば神の威光によって、他人が立ち向かえなくなるほどの力が得られると信じられていた。

また、七人ミサキには様々な逸話がある。
七人ミサキは、海や川に出る、7人組の恐るべき亡霊。自分たちが成仏するために、人を取り殺す。四国から中国地方の沿岸に多く伝わる伝承で、川沿いや池に出ることも多かった。
愛媛の今治では、水死人そのものを七人ミサキと呼んでいたともいう。7人の命を奪わなければ、その怨みが消えないと考えられていた。そのせいで、海難事故が起きた同じ場所で、同じ月にまた水死人が出た。
岡山でも、七人ミサキは、7人を取り殺さないと古参の者が成仏できないために、いつも新たな仲間を狙っているという。1人殺すたびに亡霊1体が抜け、亡霊の集団から入れ替ったらしい。
七人ミサキの名称は、非業の死を遂げたり、殺されたりしたのが、必ず7人という人数に由来する。
土佐国の戦国武将・吉良親実(ちかざね)は、後継者問題から、切腹を命ぜられた。そのときに家臣7人も殉死したが、それ以来、様々な怪異が起き、親実らの怨霊が七人ミサキとなったと恐れられた。怨霊を鎮めるために、木塚明神を祀ったという。異説もあり、親実と共に元親に反対した家臣が切腹させられ、妻子たち6人も死罪となったので、この7人の霊が、七人ミサキになったともいう。
内子だと、長者一家7人が殺される。凶事が続いたので、僧が川の中の岩に7人の怨霊を封じ込めた。毎年、盆にはこの七人ミサキに必ず念仏を上げた。この念仏を止めると祟りがあると、言われていたからだ。
大正時代になっても、七人ミサキと見られる事件が起きている。7人が乗った船が遭難したが、島の人が救けなかったところ、夜に番をしていた青年が水死した。その後も同様のことが起ったので、それは七人ミサキの祟りであると言われるようになった。
西予では、旱魃がおこった時、農民間で水理を巡る争いがおこり、7人が殺されて祟りをなした。これも、七人ミサキと呼ばれた。
山口の周南では、僧衣のの七人ミサキが、鐘を鳴らしながら早足で道を歩き、女子供をさらうという。そのため、日が暮れた後は外出しないよう戒められていたが、どうしても外出しなければならないときには、手の親指を拳の中に隠して行くと、七人ミサキの難から逃れられたという。
他にも、猪の罠にかかって死んだ平家の落人、海に捨てられた7人の女遍路などが、七人ミサキに変化したという。
七人ミサキを祠る塚も、各地に見られ、塚そのもの時には七人ミサキと呼ばれた。広島の三原に、経塚、または狂塚と呼ばれる石塔があった。かつて、凶暴な7人の山伏がいて、村人たちが協力して殺したところ、その怨霊が七人ミサキとなった。その祟りを鎮めるために、この塚ができたのだという。
御荘の節崎(ふっさき)の大きな用水池のほとりには、七人ミサキが祀られていた。溺れかけた子共に聞くと、池の向こう側で女の人が手招きしていたという。
一本松の小山にも、七人ミサキの塚があった。蛇体の祭神がいて、七人ミサキは、その家来だろうという。
西条の木曳野にある小祠は、七人ミサキとも呼ばれていた。その昔、石川源太夫とその配下6人が討ち死にし、その怨霊を村人が目撃するようになったので、祀ったという。
静岡の磐田には、7人狩人の墓として伝えられる塚があり、七人ミサキとも言った。7人が山に入ったまま行方を絶ったので、塚を設けた。
大石には、七人ミサキという「ミサキ神」が祀られていて、これが取り憑くために、何度も首吊りがあった。ある老人は、夏の土用なのに急に寒いと言って炬燵を出し、布団に入っていたが、隙を見て、首を吊った。昔から首吊りが大勢出るので、「トリヂンミサキ」という祈祷をして、変死人を鎮める習慣があった。

どうも、初コメです。ミサキについての詳しい記事ありがとうございます。こんなに多くの伝承があるなんて全く知りませんでした。が、一つ引っかかるエピソードを思い出したので‥。
「第3タイショウ丸事件」
昭和13年、第3タイショウ丸(字は不明)という(おそらく漁船)があったそうです。
ある日、この船の甲板上で不気味な出来事が起こりました。
船長の見ている前で1人の乗組員が、船首部分に浮いた白いモヤと絡まるように海に落ち、
1人、また1人と海に落ち、ついに船長を除く7人の乗組員全員が海に落ちて亡くなり、その時、船長は恐怖のあまりか、金縛りにでもあったかのように動けなかったそうです。(船長が怪しいだろ)
その後、長崎あたりを燃料空?で北上し?釜山からこの船の遭難の打電があったのですがその時に打電された船名が「第2ホウエイ丸」。このホウエイ丸という名、実は第3タイショウ丸が以前付けられていた船名で、その第2ホウエイ丸時代に、船首部分から母と子が海に落ちて亡くなっていたそうです。
この話、ラジオで聞いた時は昭和13年の実際にあった事件事故という触れ込みだったのに
ネットで調べたらなぜか昭和13年の船舶事故の記録だけが空白で何も書かれてないんですよ。
何か隠してるだろ。

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