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山の峠や山道を歩いていると、急激に空腹に襲われることがある。
空腹感と、やる気のなさ・もうここから進みたくないという気持ちが湧きおこり、酷い時には1歩も進めなくなり、そのまま死に至ることもある。
これは昔から伝わる現象で、「ヒダル神」に憑かれるとこうした症状が出るというのだ。

ヒダル神は火葬場や海岸でもまれに起こったが、主に山道を歩く者が憑かれやすいことで有名だ。
現在の和歌山県では、東牟婁郡新宮市と那智勝浦町の間に餓鬼穴という洞窟が存在するが、昔はここを覗くと必ずヒダル神に憑かれたという。
滋賀県にある御斎峠(おときとうげ)では腹の膨れた餓鬼に化けたヒダル神が現れ、山道を歩く旅人に「茶漬けは食ったか」と尋ねた。
「食った」と答えると襲いかかり、腹を裂いて胃の中に残った米粒をむさぼり食うという恐ろしい噂もある。
そのため、本能寺の変の際に徳川家康がここを命がけで通ったという伝承もあるのだ。

山道を通る者はヒダル神の対策を取っており、弁当は必ず1口分残しておいたという。
憑かれたときに食べ物がないのは致命的だったのだ。
もしも憑かれてしまったら、なんでもいいので1口食べると良いとされ、食べ物がない時は道端の草でもいいと言われている。
草すらも生えていない場合、手のひらに「米」と書いて口にするふりをすると助かるという。

このヒダル神は、近年でも憑かれる者が出る。
ある若者たちが部活帰りに山道を通った時だ。
彼らは乗っていた自転車を押して、他愛もない話をしながら夕刻の山道を進んだ。
しばらくするとすっかり日が落ち、辺りは山の中の暗闇に包まれた。
数メートル先どころか自分の手がやっと見えるほどの暗さに怖くなり、同時に異常な状況に困惑していた。
普通に帰るよりも近道だったのだが、時刻がまずかった。
こんなに暗くなるとは思わなかったので、つい入ってしまった道である。
2人がひたすら進むうちに視界はぼやけ、なぜか急に空腹感に襲われた。
腹が減っているのを意識しなかったわけではなく、突然に空腹が襲ってきたのだ。
その感覚は異常で、もうどうでもいいやという気持ちさえ呼び起こした。
一気にやる気が失せ、このままここに居たい・動きたくないという感覚がわいてくる。
しかし友人の声に導かれながら先へ進んでいると、ようやく街灯が見えて見慣れた道が顔を出したのだった。
振り返ると今来た道は、そこには何もない空間のように真っ黒い口をあけているだけだった。
ふと気づくと空腹は収まっており、先程のやる気の失せた感覚もない。
狐に化かされたかのように奇妙な体験である。

昔から伝わっているヒダル神の伝承にぴったりとはまる出来事が現代でも起こっていた。
急に覚える強烈な空腹感・一気に気持ちが落ち込む喪失感が同じである。
ヒダル神の現象そのままなので、恐ろしくも感じる。
しかし、近年はこの症状が科学で解明されている。
これらの症状は登山家に多く見られるものであり、急激な血糖値の低下などが引き起こしていると言われる。
食事をとらずに長い時間山道を歩くと、慣れない山道の歩行で疲労が蓄積し、低血糖状態になるのだ。
すると、なにもしたくないという虚脱感や強い空腹に襲われ、ひどい場合は命を落とすことになるという。
そのため登山家たちはチョコレートなどの簡単に摂取できる食べ物を複数持ち歩くのだ。
昔の人が弁当を1口分残していたのは、低血糖状態から抜け出す術を知っていたからなのかもしれない。