集落の水引役をしていたおじさんから聞いた話。
昭和初期のこと。
中辺路町野中というところに、炭焼きをしている人がいた(以下、Aさん)。
その当時、大阪の岸和田に紡績関係のかなり割の良い仕事があった。
「稼げるし、町には遊ぶところがたくさんある」
そんな話を聞かされて、中辺路の若者達はみんな大阪に行きたがった。
Aさんもご多分に漏れず、仲間が大阪に行ったという話を聞く度に自分も行きたいと強く思っていたそうだ。
そんなある時、仕事で山に入っていると、着物姿の三十歳くらいの男が現れて、
「お前、大阪行きたいか?」と聞いてきた。
Aさんは人雇いと思ったらしく、「行きたい」と答えると、
「では、連れて行ってやろう」と言って男が前を歩き出した。
その歩くのが尋常でないくらい速く、険しい山道や崖もスタスタと行ってしまう。川なども飛び跳ねるように渡って、Aさんが追いつくのを待っていたという。
Aさんが必死でついて行くと、やがて町が見えてきた。民家や商店が建ち並んだきれいな町だったが、人影は全く見えなかったという。
先を行く男にAさんも続いて歩いたが、平坦な道の筈なのに、山を登ったり谷を下ったりしているように感じたそうだ。
しばらくして小高い丘の上に出たところで、Aさんはたまらず座り込んでしまった。その時、突然強い風が吹いてきた。
はっと正気づくと、夜の闇の中、河原の石の上に座っていた。
着物の男の姿は、どこにも見えなかったという。
仕方なしに川から上がって山道を彷徨っていたAさんを、炭焼き仲間が発見し、無事保護した。
何日も歩いていたように思ったが、実際はいなくなった日の晩に見つかったそうだ。
Aさんはしばらく家で養生したが、一週間くらいは腑抜けたようになって、何もする気が起きなかったそうだ。
山に住む魔物の仕業で、Aさんの大阪に行きたいという気持ちにつけ込まれてしまったのだろうと、人々は噂したという。
水引きのおじさんが若い頃に、もう老年に達していたAさんから直接聞いた話です。
風が吹いて正気になったことについてAさんは、
「恐らくあの風が山の神さんで、自分を助けてくれたのだろう。
あのまま男に連れていかれたら、命を落としていたかもしれん」
と話していたそうです。
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珍味様
怖い&コメントありがとうございます。
おっしゃるように、人間が住むところでなかった場所に、最近になって踏み込んでいったわけですから、やはりアウェーなのだと思います。異界と見なしたのも頷けます。
男の正体は何なんでしょうね?狸や河童と解釈することが多いのに、この場合、抽象的に魔物としていたのが不思議です。
山に住む魔物に連れ去られそうになり、山の神様に助けられる…昭和初期と言えば、とっくに二十世紀の御代に入っていたのに、やはり山は人間にとってまだまだ神秘の場所なのですね。それは二十一世紀の現代でも変わらない気がします。何億年という気が遠くなるような時間を経て形成され、その上にまた気の遠くなる時間を、動植物が住み着いて生き、死んで堆積してる場所ですしね。人間の小ささを思い出させるのも当然かもしれませんね。
鏡水花様
怖い&コメントありがとうございます。
古来、日本人は自然の全てに神さまがいると考えていたそうですので、鏡水花さんのスタンスは、まさに純日本的ですね。自然を敬う心を忘れてはいけないと思います。
どうもありがとうございました。
物の怪に騙されそうになって、山の神様に助けられた…。
私は信仰している宗教は有りません。
ただ、人智を超える自然の中にこそ神様がいるんじゃないかと、勝手にお日様に手を合わせたり月や星に手を合わせてしまいます。
海や山、川や湖や森や…
そんな中に自然神がおられるのではないかなと。
ttttti様
怖い&コメントありがとうございます。
梅田北ヤードの開発など、大阪は今でも発展しているところです。関西は未訪問でしたか。自分は最近までずっと関西に住んでました。
大阪だけでなく、古き都の京都、琵琶湖だけじゃない滋賀、守備範囲の広い兵庫、歴史の宝庫奈良、日本のチベット和歌山……素敵なところがたくさんありますので、機会があればぜひお越しください。
岩間トオルさん
天下の台所大阪は昭和初期に至っては更なる繁栄を見せ、現在の大阪があるのですね。
昔から魅力的な都へは、実は私は一度も行ったことがありません。
というか関西の主要都市にすら訪れたことが無いのです。そんな私にでも非常に興味深い内容でした。
shibro様
怖い&コメントありがとうございます。
和歌山は高い山はないですが、果てしなく山が広がっていて、異界のように感じる時があります。
手堀りトンネル……私の知っているところと同じなら、地元では有名な心霊スポットです。昔はその道しかなくて、何回か通ったことがあります(何もなかったけど)。
今後ともよろしくお願いいたします。
面白いですね。
山ってやっぱり不思議です。
杉の森林なんか見てたら空間が違うように見えてきます。
初めて掘りっぱなしみたいな狭いトンネルを見た時はぞっとしました。あの気持ちにもう一度戻りたいです。