地元の知り合いから聞いた話。
当時、新聞にも掲載された話らしい。

昭和60年頃のこと。
和歌山県中辺路町の民宿に、予定時間より随分遅れて、ある予約客がやってきた。その様子は尋常でなく、顔面は蒼白、体は小さく震え、呆けたようになっていたそうだ。
しばらくしてようやく落ち着き、宿の主人に自身が体験したことを語り始めた。

その日は朝から本宮を出発。熊野古道の名所を巡りながら中辺路町の近露まで行く計画だった。朝からすでに小雨が降り出していたらしい。
発心門王子、猪鼻王子と過ぎていくと、それまでの苔むした急峻な林道から舗装された道路へと変わる。この辺りを三越峠と言い、口熊野と奥熊野を隔てる境界とされた。
峠に差し掛かって道が良くなり視界も開けて気が抜けたのか、徐々に強い疲労を感じてきたという。
そんな時、道の外れに平屋を見つけた。古びているものの、人が住んでいる気配がある。
玄関を開けて「ごめんください」と呼ぶ。
返事がない。
申し訳ないと思いながらも、勝手に玄関の縁に腰掛け、雨宿りがてら休憩させてもらうことにした。
しばらくすると、さやさやと衣擦れの音がこちらに近付いてくる。
着物姿の上品そうなお婆さんだった。
白髪の老婆は愛想良く笑い、
「旅の人、どうぞゆっくり休んでください」
とお茶を出してくれた。
礼を言ってお茶をもらい、それから老婆に色々と話しかけた。
しかし相手は、穏やかな表情のままこちらを見つめるだけだったという。
どうしたのだろう、とその人は内心不審がった。
すると、不意に老婆が口を開いた。
「旅の人、どうか娘に授けてやってください」
言っている意味が分からず、固まっていると、
家の奥の方から、女の泣くような声が聞こえてきたという。

そこで我に返って辺りを見回すと、崩れかけた廃屋の中で独り座っていたそうだ。
女の声はもう聞こえず、老婆の姿も消えてしまっていた。
その人は恐ろしくなり、廃屋を飛び出して無我夢中で国道まで走った。たまたま通りかかった車に乗せてもらい、ようやくこの宿に着いたのだという。

その人は、翌日にはすっかり元気を取り戻したらしく、朝早くから宿を発って田辺の方へ向かったそうだ。

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三越峠は熊野古道の難所と言われています。中辺路側と本宮側、どちらから来てもキツい坂道を登る必要があり、かなりしんどかった記憶があります。
江戸時代には茶屋が建てられ、熊野詣の旅人で大変賑わったそうですが、現在は迂回する道が作られ、かつての面影はあまり感じられません。

白髪の老婆は幽霊だったのか、はたまた狐狸に化かされたのか、真相は分からないままです。

はと様
今回も拙作をお読み頂きありがとうございます。
違う空間、誰かの記憶の断片、遠い過去……そんなところにたまたま行ってしまったのかもしれませんね。
浅茅が宿でしたか。内容うろ覚えでしたf(^_^;)詳しい解説をありがとうございます。
不思議な味と言ってもらい、嬉しく思います。少しでも楽しんでもらえれば幸いです。
今後とも、よろしくお願い致します。

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こんばんわ。またまた読みにお邪魔しました。
なんだかふと、違う空間に紛れ込んでしまったような、不思議なお話ですね。
↓のコメントのお話は雨月物語の浅茅が宿だと思います。男が都に上り、その後戦火の影響で故郷に帰れず、何年かたち戻ってみると、焼け野はらに自分の家が残っていて美しい姿のままの奥さんが待っていた。
泣きながら再会を喜ぶも一晩眠り目が覚めてみるとボロボロの廃屋に一人。奥さんは戦争に巻き込まれて亡くなっていたと言うお話だったと思います。
それにしても、岩坂さまのお話は何だか不思議な味?といったら失礼でしょうか。。m(__)m
とても面白くて大好きです。

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tttttiさん
怖い&コメントありがとうございます。
この話を聞いた最初は幽霊かと思いましたが、tttttiさんのおっしゃるように、誰かの記憶の断片に触れてしまったのかもしれません。「授けてください」と言うからには、やはり子ども(孫)を欲しがっていたのでしょうか。熊野詣に来た都の貴人と結ばれたい、子を宿したいと思う人は居ただろうし。
お褒めの言葉を頂き恐縮しきりです。ありがとうございます。
少しでもお暇潰しになれば幸いです。

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岩坂トオルさん
何処か幻想的で、夢に出て来そうな内容でした。
何者かの記憶の断片に見せられ、気づくと荒廃した場所にいる。老婆と啜り泣く女性の描写に色々と想像を掻き立てられました。
岩坂さんの作品は背景がしっかりしていて引き込まれます。それでいて不可思議な現象を絶妙に表現されているのは舌を巻きます。
今回は特に物語色が強く、怖話としても楽しめました。
次回作も期待しております。

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鏡水花様
怖い&コメントありがとうございます。
おっしゃった内容だと、今昔物語や雨月物語にあったような気がします(うろ覚え)。
言われて気付いたのですが、今回の話は、もしかしたら遠い昔、まだ人の往来があった頃にタイムスリップしてしまったかもしれませんね。
幽霊や妖怪の仕業にするより、そちらの方が情緒があると思います。
示唆に富むコメントありがとうございました。引き続きよろしくお願いします。

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shibro様
怖い&コメントありがとうございます。
流石お詳しい!蛇形地蔵は、三越峠よりさらに中辺路側にあります。この辺りは「草鞋峠」「岩神峠」「三越峠」という3つの峠が続く難所です。多分、車でも行けます。
土砂崩れの状態が分からないのですが、今は正規ルートが通れず、迂回路の推奨をしているようですね。
地元のことを知っておられる方がいてとても嬉しいです。今後ともよろしくお願いします。

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記憶力の乏しい婆ぁなので、今、パッと浮かばないのですが…
ある男が都に行かなくてはいけなくなり、妻を故郷に残したまま数年。
やっと妻を呼び寄せる事が出来るまでお金も貯まり、故郷に帰って妻と会ったが妻は以前と変わらず美しく優しく…
次の朝になってみたら、家はボロボロの廃屋。
妻は骨となって夫の帰りを待ちわびていた…。
そんな話しを思い出していました。

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今調べたら、熊野古道で歩きでないとダメな場所なんですね。以前蛇形地蔵を見ようと車でめっちゃ山の中入り込んでいったことがあって(もしかして見つかってたら怒られたんかな)結局、歩きで下っていかないとダメだったので引き返しました。それ以上は土砂崩れしてて道がなかったし。まともに土砂崩れを見たのは初めてだったんですごく怖かったの覚えてます。
しつこくコメントしてすみませんでした。

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最初の三行でちょっとぞっとしました。信憑性が高い証拠だからでしょうか。発心門王子に行って少しの間近辺を散策したこと思い出しました。あんな山の中なら何が起こっても不思議はない気がします。三越峠…名前の記憶ないんですが、行ったことあるかもしれないのでいっぺん調べてみます。そしてまたぞっとしたいと思います(≧▽≦)>

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