" 雷獣は雷のときに落ちてくることからその名前があるが、人びとが目にしたというその姿かたちは必ずしも一定していない。
江戸時代には雷獣の伝説が数多くあるが、その姿についてことに詳しい記述が残るものがひとつある。文政六年(1823年)、八月十七日、折から風雨が激しい一夜――築地鉄砲洲は細川采女正殿の屋敷に墜落した異様な獣についてである。
「形は猫より小さく鼬よりは大也。犀の如く又牛の如く、鼻下に一眼あり。鼻薄く桃色、前足黒く後足白く、脊頂黒事(くろきこと)黒繻子の如し。耳狗の如く裂け猿の如し、鼻鳥の嘴の如く、四足短く爪猫の如く、歯並細かにして鼻胴より長し、臭気甚だし。」
(「異獣之図」)
その鼻は犀か牛の角のように長く伸び、その下には異様なまでに飛び出した巨大な一眼、また体格は猫よりは小さく鼬より小さかった……ということである。
落ちてきたときにはすでに死んでおり異臭甚だしかったが、細川屋敷ではこれを狗の子として使用人たちの口裏を合わせたらしい。しかし文政六年に落ちてきた獣の姿は他にも描き残されており(「怪獣之図」)、こちらはやや太った姿であるものの、特徴はかなりの部分が一致している。同日風雨の際には江戸市中の三、四カ所にこの異様な獣が落ちてきたと記されているが、これらについての記録は知られていない。
雷獣は落雷のときにあらわれる動物で、天と地を往還し、普段はおとなしいが雨気に応じて獰猛になるという生態が一般に知られていた。
江戸時代から『玄同方言』『駿国雑志』『越後名寄』『甲子夜話』など、さまざまの文献に姿をあらわしている。うち『信濃奇勝録』には雷獣について、以下のような記述がある。
「此の山に雷獣ありて住む、故に雷岳と云ふ所あり。其の形子犬の如く、毛は狢に類して、眼の回り黒みあり。はなづら細く、下唇短く、尾も短し。あしうらは皮薄くして、小児の足のごとし。足甲五本ありて鷲の如く、冬は穴を穿りて土中に入る。故に、千年もぐらとも呼べるよし。常には軟弱にして人に馴れ、もし雨ふらんとするときは、猛くして当たりがたしといへり。山中陣頭雨ふらんとするときは、岩上にあらはれ、飛んで雲に入ること蝗の如しとぞ。」
文中の「此の山」とは信濃の蓼科山のことである。別称の「千年もぐら」については『奇獣写生図』にその図版が残っている。この生き物は両国橋の見世物小屋にも姿を見たという記事がある。(『燕石雑誌』滝沢馬琴、1810年)
他にも多々残る伝承を照合しても雷獣の姿かたちは必ずしも一定しないが、「さほど大きい獣でなく」「猛禽類を思わせる爪がある」……ということはどうやら共通しているようだ。
この生き物が雷鳴とともに落ちてくるだけでなく、雨気に応じて空を飛ぶという記述も多い。
『古史伝』(1811年、平田篤胤)には、捕獲した雷獣が激しい夕立のさなか、小屋の天井を破って天に昇り、雲のうちに飛び込んだ、という記事が掲載されている。畑を荒らす蝗のごとく……という記述もあることから、当時の人々にこの未確認動物はときに複数の群れであらわれると考えられていたものらしい。
江戸も後期になるほど雷獣の存在はポピュラーなものとして人々に受け入れられており、浅草などの見世物小屋でもこぞって人々がつめかけたが、その正体の多くは鼬やオコジョなどの小獣であった。
しかし、岩手県花巻市愛宕町雄山寺や、新潟県寺泊町西生寺には、「雷神のミイラ」「雷獣のミイラ」と伝わるものが残っている。ミイラ化しており、猫に似て猫よりやや大きいこの獣の死骸には不可思議なことに、眼らしき穴の痕が伺えない。この獣の死骸の伝来については、檀家からの寄進であった、ということ以外は一切不明である。
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