中編4
  • 表示切替
  • 使い方

死にたい

先月の話なんだが。   

子供が生まれて以来、ベランダが喫煙場所になっている。  

夕食の後、風呂上りに涼みがてら、寝る前。  

その日も就寝前の一服、とベランダで吸っていた。  

時間は夜中の12時すぎ。  

少し離れた国道バイパスを行き来する車のライトを眺めながら

手すりに肘をついて、ぼーっとふかしていた。  

下のほうから「グァシャッ」って音が聞こえた。  

それほど大きな音ではなかったが 

金網のフェンスに何かぶつかったような音。  

身を乗り出して下を見ると、隣の敷地との境のフェンスに白い物が乗っていた。  

何かわからないが、かなり重そうでフェンスがひん曲がってるのがわかった。  

俺の部屋はマンションの5階で、地面からはそんなに離れてないが  

明かりは少し離れた自転車置き場の電灯くらいしかなく、あたりは薄暗い。  

目を凝らしてよく見てみると、なんとなく人の形みたいだった。  

フェンスがひん曲がるほどの衝撃なら、もしかしたら人が飛び降りたんじゃないか。  

そう思ったとたん、急に怖くなった。

誰か他に気づいた人がいないか、身を乗り出してマンションの上や横を見回したが   

誰も出てきてはいなかった。   

隣のマンションからも誰も出てこなかった。  

下に降りて確かめようか迷いながらもう一度見たとき  

誰かが近くに立っているのに気がついた。   

フェンスに引っ掛かった物を近くでじっと見ているようだ。  

時間も時間なので声を掛けるわけにもいかず、しばらく様子を見ることにした。  

だがその人は何もせず、ただじっと眺めているだけのように見える。  

「何しとるんやろ? 人じゃなかったんやろか? 

 なんでじっと見とるだけなんやろ?」  

そう思ったとき、その人がゆっくりとこっちに顔を向けた。   

暗かったが、その人が振り向いたのははっきりとわかった。  

その瞬間、なぜかわからないがものすごく嫌な気持ちになった。  

何か憂鬱な、逃げ出したくなるような気持ちだった。  

何かが怖いとか何が嫌とかではなく、ただただ、嫌だった。   

今まで例えば仕事で失敗したとか、誰かと言い争いをした後で 

落ち込んだり嫌な気分になったことは多々ある。   

だが、そんな気分とは比べ物にならないほど鬱だった。  

全てが嫌になって、自分が嫌になって、世界が嫌になって。  

今まで感じたことのない、重苦しく、息苦しささえ覚えるような感覚だった。     

なにか暗い水の底にどこまでも沈み続けるような   

底があるのかどうかさえもわからないような、そんな気持ちだった。  

顔の痛みでハッと我に返った。   

妻が俺の頬をバシバシ引っ叩いていた。  

「ちょ、やめろ。痛いが。やめいや」と言う俺に   

「何が嫌なん? 何がそんなに辛いん? なんで言ってくれんの?」

妻は泣きながら引っ叩き続けた。   

俺には何がなんだかさっぱりわからなかった。   

マンションの両隣の人が身を乗り出して俺たちを見ていた。  

妻の手を押さえて部屋に押し込み、どうにか落ち着かせて  

何があったのか聞いた。  

寝ていると外から救急車やパトカーのサイレンが聞こえてきて  

すぐ近くに止まった。  

カーテン越しに明かりが洩れるほどライトが照らされていて 

人が集まっているような騒々しさがあって、事故があったと思った。  

隣を見ても俺がいないので、ベランダに出てみたら俺がいた。  

そこでは俺が手すりを乗り越えて飛び降りようとしていた。  

あわてて引っ張り降ろしたが、俺は   

「死にたい。死にたい。死にたい」と繰り返していたらしい。   

まったく記憶にない。   

死にたくなるような辛いことはない。  

確かに、仕事や給料など全てに満足しているわけではないが   

死にたくなるほど悲観はしていない。   

というか、死にたくない。  

妻や子供との生活にも満足している。 

子供の成長が楽しみですらある。 

「不満はない。死ぬほど悩んどることもない。

 死にたいとはこれっぽっちも思っとらん」  

「お前ら残して死んでも死にきれん」

妻が納得するまで、そう言い続けた。     

数日後、警察の事情聴取を受けた。  

フェンスに引っ掛かっていたのは9階に住むAさんの奥さん。  

転落死したとのことだった。  

事故直後の俺の行動が不審で、関係があると疑われたらしい。  

俺の部屋には妻と子供が寝ていたし、俺が5階のベランダにいたのは   

多くの野次馬が見ていた。  

また、Aさんも自分の部屋にいて奥さんが外に出ていないことを証言してくれた。  

俺が無関係だということはわかってもらえたようだった。  

妻が、同じマンションの友人から聞いてきた。  

あの前日、Aさんの子供さんが事故死したらしい。  

そしてあの日、Aさんの奥さんが飛び降り自殺したということだった。  

俺はちょうどその場面に出くわしたらしい。   

あの嫌な感覚は自殺を覚悟した人が死ぬ瞬間の、

まさに死のうとする瞬間の感情だったのかもしれない。 

妻とは「とりあえず何もなくてよかった」と話したのだが。  

それからの3日間で右隣の奥さんと11階に住むYさんのご主人が亡くなった。  

二人とも自室ベランダから飛び降りていた。   

それぞれ遺書もなく、理由はまったく心当たりがないそうだ。   

   

俺たちは先週引っ越した。   

荷解きもようやく終わり、一息ついたところだが   

今のところは、なにもない。    

怖い話投稿:ホラーテラー 灰色の狐さん  

Concrete
コメント怖い
2
5
  • コメント
  • 作者の作品
  • タグ

ひっぱたいてくれた奥さんに感謝しないとな。

返信