カラスの親・終〈『話』シリーズ 外伝〉

長編21
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カラスの親・終〈『話』シリーズ 外伝〉

さて、どこまで話したか… カラスを飼い始めたところまでか。

その頃、仕事の方は相変わらずうまくいっていなくてな。ようやく復刊できたと思っても、水面ギリギリを低空飛行するようなもので、いつまたダメになるかわからなかった。

儂の楽しみといえば、カラスに餌をやる時間くらいのものだったよ。

ん? 餌か? カラスは雑食だからな。そこらへんで捕まえた虫や、メシの残りなんかをやっていたよ。その時はな。

……そんな不安そうな顔をするな。お前もこの屋敷に長く勤めて、色々思うこともあるだろう。だが、儂はすべてを包み隠さず話すつもりだ。疑問はあるだろうが、今は黙って聞け。最後に信じるか信じないかは、お前次第だよ。

ある日、いつものようにカラスに餌をやりながら、ふとこぼしてしまったんだ。『お前、タダ飯を食らうだけじゃなく、少しは加勢をしてくれよ』とな。もちろん冗談のつもりだった。

ところが、カラスはなにか言いたげに翼を広げ、くちばしを大きく開いた。そして喋ったんだ。

『なにをすればいい?』と。

儂は腰が抜けるほど驚いた。驚いたが、妙に納得もしていた。こいつはただのカラスではない。そもそもが、得体の知れない化け物なんだからな。

『なにをすればいい?』もう一度カラスが言った。カラスとは思えぬ、澄んだ少年のような声だったよ。

お前になにができるのか、と儂が問うと、奴は偉そうに『なんでも』と答えた。さらに偉そうに、『その代わり見返りが欲しい』とも。

儂は鼻で笑ったよ。仕事もせずに報酬の話をするとは笑わせる、結果を出してから言え、とな。

そしてカラスに、情報を取ってこいと指示した。誰もが驚くような、それでいて曖昧さのない、根拠がしっかりしたやつを、だ。自分ができないくせに儂こそ偉そうに言ったものだが、その時はそれこそ、猫でもカラスでもいいから使える手は使いたかった。

カラスは考えるように首を二、三度傾げると、勢いよく部屋を出ていった。

三日後の夜、カラスは帰ってくると掴んだ情報を教えてくれた。

驚いたよ。それは、その頃近所に出没していた空き巣犯についての情報だったんだ。犯人はどこの誰で、どんな手口を使うのか、盗んだ品の隠し場所まで、カラスは実に詳しく教えてくれた。

もちろん、全面的に信じたわけじゃない。ただ、カラスの言うことには妙に信憑性があってな。得体の知れない化け物だからこそ、常ならぬ手段で得られるものがあるのだと思った。

ダメなら、また一からやり直せばいい。そんな気持ちで、カラスからの情報を元に記事を書くと、これが大当たりでな。犯人は自分から名乗り出るし、被害者の家からは感謝されるし、もちろん、記事は今までにないほど反響があった。万々歳だ。

上機嫌の儂に、カラスが言った。見返りをくれ、とな。まぁ、カラスからしたら当然のことだろう。

そこで、しっかり奴と話をすればよかったのかもしれんが、ふと儂は不安になってしまったんだ。

こいつは、このただ一回で儂の元を離れるつもりじゃないか、とな。

それは困る。せっかく希望が見え始めたんだ、今このカラスを手放すわけにはいかないと、痛烈に思った。

それでつい、言ってしまったんだ。

『人の世では、十年間は無償で奉公するものだ。お前がしっかり働きさえすれば、より大きな報酬をやろう。たとえば、儂の娘なんかどうだ? 今はまだ赤子同然だが、十年も経てば立派な娘になる。食うのもよし、嫁にするのもよし、好きにすればいい』

……まったく、里見義実にでもなったつもりだったのかな…

カラスは仕方がないというような顔で儂を睨んだが、なにも言わなかったよ。

その後、儂の仕事は目に見えて成功していった。人を雇えるようになり、発行部数も少しずつ伸びていった。今と比べればほんの小さいものだが、会社としての体を成すようにもなってきた。カラスのおかげだよ、本当によく働いてくれた。

でもなぁ… 儂は、本当に最低なんだよ。

カラスが動いてくれるのが、いつの間にか当たり前のように思ってしまっていたんだな。会社の急成長を、まるで自分一人の手柄のように感じていたんだ。

そんなだから、カラスとの約束なんてすっかり忘れきっていた。元から、一人娘のゆきをカラスにやる気なんてさらさらなくて、十年の間に別の方法を考えればいいと、その程度にしか考えずに交わした約束だ。勝手な話ではあるが、忘れて当然といえば当然だった。

天罰、と言いたいが、すべて自分で蒔いた種だ。

カラスは約束を守り儂の言う通りに働いて、約束通り見返りをもらっただけなんだからな。

・・・・・

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その日烏丸は、そう広くはない家中を騒々しく走り回る足音で目が覚めた。

無理矢理起こされて不機嫌そうに目をこすっていると、妻の千代が血相を変えてやってきた。

「あなた、ゆきがどこにもいないんです。朝見たら、布団がもぬけの殻で…」

その途端、烏丸は雷に打たれたように十年前のカラスとの約束を思い出した。

裸足のまま外に飛び出し、カラスが寝ぐらにしていた納屋を乱暴に開ける。

しかしそこにいたのは、いつもの見慣れた鳥ではなかった。

五メートルはあろうかという大蛇が、黒曜石のような鱗をヌラヌラと光らせ、赤く小さな舌をしきりに出し入れしながら横たわっていた。

「カ、カラスなのか…?」

腰を抜かしながらもなんとか絞り出したその声に、大蛇は反応を示した。身じろぎをすると、俵を引きずるような音が納屋に響く。

「この姿の方が、大きなものを食いやすい。約束通り、報酬をもらったぞ」

大蛇はカラスと同じく、澄んだ若い声で言った。

烏丸は、丸太のような蛇の胴体の一箇所が、異様に膨れているのに気がついた。

そこになにが入っているのか、考えたくはなかった。それでも口が勝手に動く。

「まさか、まさかゆきを…」

「まさか? 私とお前の約束だったはずだ。十年後に娘をやると言ったのは、お前だ」

心外そうに大蛇が言った。

その時、烏丸の後ろでものすごい悲鳴上がった。烏丸を追いかけてきた千代が、大蛇の姿に慄いた声だった。

しかし千代は、逃げもしなければ烏丸のように腰を抜かすこともなかった。大蛇の膨れた腹に狂ったように駆け寄ると、納屋の壁に立てかけてあった鍬を手に取り、そこめがけて思い切り振り下ろしたのだ。

金属同士がぶつかるけたたましい音がして、鍬は弾き飛ばされた。

千代はその後も何度も大蛇の腹に鍬を叩きつけたが、その度に甲高い音がするだけで、鱗一枚に傷をつけることすらできなかった。烏丸はその様子を、千代が糸が切れたように倒れるまで、見ていることしかできなかった。

夜になり、目を覚ました千代に烏丸はすべてを打ち明けた。

化物を飼っていたこと。そのおかげで仕事が軌道に乗り始めたこと。

ゆきがいなくなってしまったのは、自分の浅はかさのせいだということ。

千代は泣き喚き、烏丸をなじった。顔を掴み髪を引っ張り腕に噛み付き、部屋中の物を投げつけてきた。

いつしか夜が明け、二人とももう動けないくらいボロボロになった時、千代がポツリと言った。

「私も、ゆきと同じ目にあわせてください」

「え?」

「あんな化物の腹の中に、あの子一人で置いておくわけにはいきませんから」

その足で、烏丸は納屋へ向かった。大蛇はもういつものカラスに戻っており、小首を傾げてピョンピョンと跳ねながら近づいてきた。

その姿に唾を吐きかけてやりたい衝動に駆られながら、烏丸は言い捨てた。

「新しい約束だ、カラス」

「なんだ?」

「今後は、五年に一度報酬をやろう。ただし、報酬の内容を決めるのはこちらだ。文句を言わず、身を粉にして働け。儂が『もういい』と言うまで、あるいは、儂の会社がなくなるまでだ」

カラスはしばらく考えるように頭を左右に振り、やがて「いいだろう」と頷いた。

それから五年後、烏丸千代のささやかな葬儀がいとなまれた。

川で溺れて行方不明になったとして、遺体のない葬式だった。

・・・・・

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「旦那様、なぜですか? なぜそのカラスを、そのままお側に置かれたのです?」

ヒワが話の途中で口を挟んだことも、それが詰問調であったことも、烏丸は咎めはしなかった。深い溜息を一つ吐き、責めるようなヒワの視線を真正面から受け止めた。

「儂はその十年間で、カラスの有益性を身を以て実感していた。化け物で、その上我が身を蝕む毒のような存在だと知りながら、それでも手放すことを惜しんでしまったのだ」

「そんな…」

「目の前で娘とカラスを天秤にかけられたら、そりゃあ儂だってゆきを選ぶさ。そこまで外道ではない。しかし、ゆきは気付いた時にはもういなくなってしまっていた。泣いてカラスを責めたところで、もう戻っては来ないのだ。そう思うと、加えてカラスまで失うわけにはいかなかった。ゆきがいなくなった時点で、儂にはもう仕事しか残されていなかったからな。それにおそらく儂は、そこから少しずつ人の枠から外れてしまったんだろう」

烏丸は自嘲気味に言った。

「ゆきがいなくなってからの十年間、儂はがむしゃらに働いた。働いて働いて、最後には儂自身がカラスに食われて終いにしようと思っていたんだ。会社はできるだけ大きくして、儂の兄の息子たちに継いでもらうつもりだった。二人の甥には、儂のしてきたこと、会社のカラクリをすべて教えたよ。『お前たちは、人ならざるものの力は借りずにやってみろ、儂のようになるな』と伝えたつもりだった」

「ところが、だ。甥たちは儂の話を聞いただけで、すっかりカラスに魅了されてしまったようでな。どうしてもカラスの力を使いたい、そうすれば会社はもっと大きくなると、そう盲信してしまった。話すべきではなかったと後悔したが、もう遅い。仕方なく、儂はこの屋敷で隠居生活をしながら、カラスの面倒を引き続き見ることになった」

「……面倒を見る、とは?」

ヒワは震える声で尋ねた。頭の中に、屋敷で短い期間を一緒に過ごしたたくさんの子供たちの顔が、花火のように浮かんでは弾けていった。

烏丸は口元を歪めた。笑っているのか怒っているのか、深い皺に隠されてわからない。

「お前がなにを考えているのかは、なんとなくわかる。始めに言ったように、儂は嘘は言わない。信じるかどうかは、お前次第だ」

前置きのようにそう言うと、ゆっくりと目を閉じた。

・・・・・

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こっちで隠居すると決めた時、橘と桜を見つけたのは幸いだった。

二人が昔ゆきのものだったことは… あぁ、聞いているのか。二人は儂に恨み言の一つも言わず、よく仕えてくれたよ。感謝している。

しかし、この広い屋敷に儂一人というのは、なんとも寂しくてなぁ。

そんな時、一人の子供が迷い込んできた。貧しさから親に捨てられた子だった。

屋敷でしばらく面倒を見ていたが、ここは子供が育つには良い場所ではないからな。カラスに奉公先を見つけさせ、そちらに移した。奴にとっては、そんなのはお手の物だからな。

子供は半年もいなかったが、儂はしばらくその半年間が忘れられなかった。子供の声はゆきを思い出させ、辛いものもあったが、それよりも懐かしさが勝ってなぁ。

それ以降、カラスに孤児を探させては、奉公先を斡旋してやるようになった。

まぁ、なんのことはない。儂の自己満足だよ。自分勝手な罪滅ぼしといってもいい。実際動いていたのはカラスであり、食事や生活の面倒を見ていたのはお前たちだからな。

それでも、夜眠っている子供たちの顔をこっそり覗くのが、その頃の儂の心を慰めてくれたのは確かだ。たまに気づかれて、怖がられたり泣かれたりもしたな。

まぁ、この屋敷にあんなにも子供がいたのは、そういうわけだ。

…うん、お前が疑うのも仕方がない。何度も言うが、信じるかどうかはお前が決めろ。儂はただ、聞いてもらいたいだけだからな。

お前が気になっているのは、カラスへの報酬だろう。

それは、儂自身だよ。

一番最初にやったのは、片方の腎臓だったな。次は右の肺だ。まるで肉屋の量り売りのように、儂の体を少しずつ奴にやっていったんだ。

そんなことが可能なのかって? 当の儂にも理屈はわからんが、カラスは痛みもなく上手に、指定された臓器を抜き取ってくれたよ。情報を盗み取るのと、要は変わらんのかもしれんなぁ。

取られた儂の方も、生きるのに不便は感じながらも不思議と生き長らえた。まぁ、こんな歳まで生きておいて、普通の人間と同じように考えるのはおこがましいかもしれんがな。

外見上はなるべく変わらずいたかったんだが、もうやるところがなくなってしまってな。

だから、こんな体になったところで、お前がなんら心配することはないんだ。

・・・・・

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「さぁ、儂の話はこれで終いだ」

どこか晴れ晴れと烏丸は言った。

「儂もこの屋敷も役目を終えた。あとは屋敷は朽ちるにまかせるだけ、俺はカラスの腹の中だ」

「役目って…」

ヒワはついていけず、オロオロと問い返した。

「お前は知らないだろうが、屋敷の屋根裏がカラスの寝ぐらだったんだ。いわばこの屋敷は、カラスの鳥籠だ」

烏丸は淡々と語った。

「しかし甥の奴が、自社ビルを建設してそこでカラスを飼うと言いだした。強欲な奴だから、カラスを儂以上に飼い慣らして、さらに富を得たいんだろう。何度も止めたが聞かんのでな。もう知らん好きにしろと、そういうわけだ。儂が死んでも、会社がある限りカラスは動いてくれるだろう。儂のような姿になってまで富に執着したいのなら、そうすればいいさ」

烏丸は鼻で笑ったが、ヒワはなんだか胸を締め付けられるようだった。

「旦那様」

思わずヒワは口走っていた。

「私に、旦那様のお供をさせてください」

烏丸は深い皺の奥の目を一瞬見開き、そして声を上げて笑った。

「供をすると言っても、お前では儂を支えられんだろう。儂もこんな体だ、お前の面倒は見れん」

「でも…」

「ヒワ。ありがたいがな、やめてくれ」

烏丸は迷いを払うように首を振りながら言った。

「足の悪いお前をわざわざ雇ったのは、なにかあってもお前なら逃げることもできんだろうと、そう踏んだからだ。今、結局なにもなく数十年が過ぎてしまったことを、儂はよかったと思っているんだぞ。主人の思いを無駄にするんじゃない」

「旦那様…」

「お前の次の勤め先は、もう手配してある。気に入るかどうかはわからんが、とりあえずはそこに行け。悪いようにはさせん」

まるでタイミングを見計らったように扉が開き、橘が入ってきた。烏丸に深々と一礼すると、ヒワを抱き上げた。

これで最後だ。そう直感したヒワは、思わず叫んだ。

「旦那様、ありがとうございました。本当に、お世話になりました!」

烏丸はなにも言わなかった。

橘はヒワを食堂へ連れていった。そこでは桜が、お茶の用意をして待っていた。

いつもと変わらぬ光景だったが、ここでもこれが最後なのだとヒワは感じた。

「橘さんと桜さんは、どうなさるんですか?」

二人は顔を見合わせ、同じ顔で微笑んだ。

「私たちのお役目も、これでおしまいです」

「私たちは元々、ゆきお嬢様のものですから。お嬢様の元に戻ろうと思うわ」

どういうことか、尋ねることはできなかった。

まるで幕を降ろすように、ヒワの意識は遠のいていった。

気がつけば、三畳間の自室に朝日が差し込んでいた。布団から身を起こし、ヒワは慌てて部屋を出る。

いつも静かな屋敷内だったが、その日は異様なほど静まり返っていた。

昨日の最後の記憶の場である食堂に行くと、テーブルの上には「給金」書かれた分厚い封筒と、一枚の紙片、そしてなぜかボロボロに色褪せた紙雛が一対置かれていた。

ヒワは男雛と女雛を手にとってまじまじと眺めた。墨が薄くなってはいたが、その雅やかに微笑んだ顔にはどこか見覚えがあった。

「橘さん、桜さん…?」

紙雛は、もちろんなにも言わなかった。

ヒワは封筒と紙片を手に食堂を出た。途中通りかかった階段には、なにをどうしたのか大きな家具が折り重なるように積み上げられていた。ヒワが上れないようにバリケードを張っているようだった。

ヒワは階段を素通りし、玄関から外に出た。朝日の眩しさに目を細めると、玄関のすぐ前に車が停まっているのが見えた。

どれくらい待っていたのか、運転手は暇そうにあくびをしていたが、ヒワに気がつくと慌てて近づいてきた。

「朝井ヒワさんですか?」

「はい」

「あぁ、よかった。お待ちしていましたよ。さぁ、乗ってください。あ、お手伝いしますよ」

運転手はヒワの手を取り車へと導く。それはタクシーだったが、ヒワは車に乗るのはもちろん間近に見るのも初めてのことで、かなり戸惑い運転手に首を傾げられた。

車はヒワを乗せ屋敷を出る。屋敷周辺の見慣れた景色は、あっという間に遠ざかった。

「いや〜、大きなお屋敷でしたね。奥様、行き先は伺っていますので、ご安心してお任せください」

「奥様だなんて。私はただの使用人です」

言いながら、烏丸邸から出るのも、烏丸邸以外の人と言葉をかわすのも、数十年ぶりのことだと内心驚いていた。

「え、使用人の方? こりゃまた失礼いたしました。それにしても、使用人にタクシーを使わせてくれるなんて、太っ腹なご主人ですねぇ。今日もね、『朝井ヒワという人が出てくるまで、屋敷前で待機するように』なんて変わったご依頼でね。いやぁ内心、夜まで待たされたらどうしようなんて心配してたんですよ。いったい、どんなお大尽なんですか?」

「さぁ… 私もよくわからないんです」

「え、使用人なのに?」

運転手はバックミラー越しに不審そうな視線をヒワに送ってきたが、すぐに口をつぐんだ。

烏丸邸での自分の仕事が全て終わってしまったのだと、ヒワの頬を幾筋も涙が伝った。

・・・・・

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「車に揺られて着いた先は、小さな児童養護施設だったわ。そこの厨房が私の新しい職場だったの。旦那様は、私にもできる仕事を探してくださっていたのね。そしてそこで、びっくりするような出会いがあったのよ」

「びっくりするような出会い、ですか?」

これ以上なににびっくりするのだろう、と内心思いながら、美也子は問い返す。

「施設の若い職員さんがね、私に話しかけてきたの。『ヒワさん、僕を覚えていますか?』ってね。分からなくて首を傾げていたら、『僕は子供の頃少しだけ、烏丸さんの屋敷で保護されていたんです』と」

「え?」

「彼は、たくさんいた子供たちの中の一人だったの。残念ながら私はすっかり忘れていたのだけれど、彼は食事係だった私のことを覚えてくれていたのね。嬉しかったわ。烏丸邸での話をできる相手がいるとは思わなかったから。といっても、彼は数ヶ月しかいなかったお屋敷のことは、断片的にしか覚えていなかったようだけれどね」

「そ、そうですか」

美也子は思わず自分を恥じた。烏丸がヒワに語った『子供たちは養育していただけ』とは、どう考えても嘘くさいと思っていたのだ。

ヒワは美也子の心を読んだように、「本当に、驚きだったわ」と笑った。

「彼は、旦那様から紹介された奉公先に二十歳まで勤めて、それからその施設で働き始めたんですって。その児童養護施設というのがね、旦那様の会社が後ろ盾となって設立されたものだったの。旦那様の、子供を思う気持ちというのは、本物だったと思うわ」

ヒワはしみじみと言った。

「それからは、ごく普通にその施設で働いて、体が言うことを聞かなくなってから、ここのホームに入れてもらったの。私は三十年近く烏丸邸から出ることがなかったから、最初は浦島太郎のような状態でね。たくさん失敗もしたけれど、いろんな方に助けていただいてやってこれたのよ」

当時を思い出したのかクスクスとヒワは笑い、懐かしそうに目を細めた。

「こうやって語るとほんの一言だけど、実際過ごしてみてもあっという間だったわ。施設で働いていた間は、毎日子供の声が聞こえて賑やかで、しょっちゅう小さな揉め事があっては、それ以上に笑い転げてしまう出来事もあった。それなのに、不思議ね。毎日代わり映えしなかった烏丸邸での日々の方が、この頃は強く思い出されるの。なぜかしらね」

「…最後に残されていたという紙片には、なにか書かれていたんですか?」

遠慮がちに美也子が訊くと、ヒワは遠くを見たまま答えた。

「『前に進め』と、それだけがね。旦那様の筆跡だったけれど、もう腕が両方なかったはずなのに、どうやって書いたのでしょうね」

最後のおどけた一言に、美也子もつられて笑った。

笑いながら、それは間違いなく烏丸からヒワへのメッセージだろうと思った。

「さて、これで私の不思議な話はお終い。あぁ、誰かに話せてスッキリしたわ。ごめんなさいね、美也子さん。こんなに長い間、年寄りの昔話に付き合わせてしまって。お給料払わなきゃ」

「とんでもないです、ヒワさん。素敵な物語を聞いているようで、とても面白かったです。ありがとうございました」

ヒワと美也子は互いに頭を下げあい、顔を見合わせて笑った。

「あら、もうこんな時間ですね」

美也子が時計を見て気づく。

「来週もまた、楽しみにしています」

「そうね。美也子さんに楽しんでもらえるような話を、また用意しておくわ。それとね…」

ヒワは一旦言葉を切ると、ゴソゴソと引き出しを探って塗り絵のノートを取り出した。

「これね、切り取ると絵葉書になるの。来週までに仕上げておくから、一枚差し上げてもいいかしら?」

「いいんですか?」

「もちろん。いつも色々いただいてるもの」

言いながらヒワは、いくつかのページをパラパラとめくった。

「どのお花がいい?」

「どれでも。ヒワさんの好きな花にしてください」

「そうねぇ… うふふ、じゃあ、来週のお楽しみにしましょうか」

ニコリとヒワは微笑んだ。

・・・・・

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ホームを出ると、来るときは晴天だったはずの空が、今にも降り出しそうなほど曇っていた。

美也子は帰り道を急ぎながら、頭の中でヒワから聞いた話を反芻する。

話が事実であれ作り話であれ、それは美也子にはどうでも良いことだった。どちらかといえば、すべて嘘ではないしにろ六割方は創作だと思っていたくらいだ。

それよりも、古事記を編纂したという稗田阿礼と太安万侶ではないが、高度な技術を持った語り部による良質な物語を聞く機会に恵まれた喜びに、心は踊っていた。

ヒワの了承が得られたら、彼女が体験した話を文章に残しておきたい。もちろん今回の話は難しいだろうが、それ以外の当たり障りのない、でも残しておかなければいつかきっと消えてしまう庶民の日常というものを、記録したいと思った。

ーーでも。

驚くほど詳細に、矛盾のないように語られたヒワの話だったが、ふと引っかかりを覚えて、思わず美也子は立ち止まった。

烏丸は、妻をあとは五年に一度ずつ自分の臓器や体の一部をカラスに捧げ続けてきたと言っていた。それが可能かどうかはこの際置いておいて、少しずつ与えたとしても、その数十年間を一人の体でまかなうことは可能なのだろうか。

美也子は詳しいことはわからないが、生命活動の維持に不要な臓器などそうはないだろう。年の割には元気そうに見えたという烏丸が、カラスを働かせるために与えてきたものとはなんだろう?

それに、『いなくなった前任の女中』については、結局語られなかった。

ヒワは屋敷にいた子供にその後会ったと言うが、全員の消息が明らかになったわけではないだろう。

ーーやはり、烏丸は……

「ガァ!」

突然背後から聞こえてきた声に、美也子は大袈裟に体を震わせた。振り返ると、大きなカラスが電線に留まってジッと美也子を見つめていた。

先程の話の主役ともいえる存在の登場に、美也子の背中を汗が伝う。

するとそんな美也子をからかうように、カラスはもう一声鳴いて翼を羽ばたかせ、どこかへ飛んでいった。

美也子はホッと息を吐く。そして、なんだかおかしくなってきた。

「ただのカラスよ。ヒワさんの話だって、疑ったところで今更どうしようもないわ。そもそもが荒唐無稽すぎるもの」

あえて声に出してそう言うと、先ほどよりも早足で、美也子は帰路を急いだ。

・・・・・

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次の週、美也子は彼岸花とススキを取り合わせた花束を手に、ヒワのホームを訪れた。

正直、彼岸花を持参するかどうかはかなり迷った。その立ち姿や有毒性から、死人花や幽霊花と呼ばれ敬遠されることも多い花だ。

しかし、別名の曼珠沙華は「天界の花」という意味を持つし、スッとまっすぐ伸びた姿や鮮やかな赤色が美しくて、美也子は好きな花だった。それに先週ヒワがしていた塗り絵も、確か彼岸花だったはずだ。

もしもヒワの嫌いな花だったら、本人に見せる前に職員に片付けてもらおう。そう考えながら持ってきたのだった。

「こんにちは」

事務室に挨拶すると、いつもならにこやかに対応してくれる事務員が、なぜか気まずそうに目を背けた。

すぐにやって来た顔見知りの職員は、今にも泣きそうな顔で深々と頭を下げた。

美也子は、嫌な予感がした。

「鶴岡さん、せっかく来ていただいたのに申し訳ありません。実は朝井さんは、先週お亡くなりになったんです」

「そんな…」

先週ということは、美也子と別れてすぐのことだろうか。あんなに元気そうだったのに?

頭の中を言葉がグルグル回るばかりで、美也子は言葉が出てこなかった。

促されるままヒワの部屋だった場所に向かい、その道中に職員から詳しい話を聞く。

「鶴岡さんが来られた次の日、朝起きてこられないのでお部屋に様子を見にいったら、もう… 病院では、眠っている間の心臓発作ではないかと言われました。とても穏やかな顔をされていました。きっと、苦しむことはなかったのではないかと思います」

「そう、ですか」

「本来なら、鶴岡さんには早めに連絡を差し上げるべきでした。ですが、朝井さんが鶴岡さん宛てに残されたものがあって、それを直接お渡ししたくて…。申し訳ありません」

ゆっくりと開けられたヒワの部屋は、すでに片付けられていた。ベッドと箪笥しかないガランとした部屋を見ると、ヒワが亡くなったということが急激に事実として波のように美也子に襲いかかった。思わず眩暈を覚えて、美也子はギュッと目を閉じた。

「鶴岡さん、大丈夫ですか?」

「えぇ… すみません。あまり急なことなので、驚いてしまって。職員の皆さんの方がショックでしょうに」

「はい… 何度あっても、こればっかりは慣れないものです」

言いながら、職員は箪笥の一段目の引き出しを開けた。中から『鶴岡美也子様』と書かれた封筒を取り出す。

「これが、鶴岡さんに残されたものです。なにかわかりますか?」

「はい、多分」

封を開くと、予想通り塗り絵の絵葉書が出てきた。

「曼珠沙華と いへば美し 彼岸花」

真っ赤に塗られた彼岸花の花弁の下に、小さくそう書かれていた。美也子は思わずクスリとする。

表書きを見ると、宛先の代わりに美也子宛てのメッセージがあった。

《美也子さん、話を聞いてくれてありがとう。彼岸花は悪い別名もありますが、曼珠沙華という名前は『おめでたいことが起こる前兆として天から降ってくる赤い花』という仏教の経典からきているそうです。美也子さんに、これから良いことがたくさんありますように》

美也子は目頭が熱くなるのを感じた。

「残念です。今日鶴岡さんが持ってきてくださったお花、朝井さんきっと喜ばれたでしょうに」

本当に残念そうに職員は言った。

「こんなことを言っていいのかわかりませんが、朝井さんは、まるで死期を悟っていらっしゃるようでした。最後の夜に私、『今までありがとう』と言われたんです。朝井さんはよく感謝の言葉を口にしてくださる方でしたから、その時は大して気にしなかったんですが… 今はそれが悔やまれます」

美也子はヒワから聞いた『死期を悟ると自分の人生を語りたくなる』という烏丸の言葉を思い出した。

ヒワもそうだったのだろうか。

だとすると、それに立ち会えた自分はきっと幸運だったのだ。美也子は強くそう思った。

その時だった。

コンコン

窓の方で小さな音がし、思わず振り返った美也子は目を疑った。

そこには、見たことがないほど大きなカラスが一羽、窓枠に留まって室内を覗き込んでいたのだ。

「しょ、職員さん、あれ…」

「あ、また来てる。シッ、シッ!」

職員は眉をひそめ、窓の内側から手を振ってカラスを追い払おうとする。しかしカラスはしつこくその場に留まり、なかなか去ろうとしなかった。

「もう、やっと行った」

「あの… また、って?」

憤慨した顔の職員に恐る恐る尋ねると、職員は困ったように言った。

「あのカラス、最近この辺をうろついて、あんなふうに窓に張り付いていたんです。それも、決まってこの部屋にだけ。そのせいではないんでしょうけど、その後朝井さんが亡くなったものですから、気味が悪くて… すみません」

「……」

おそらく職員以上の気味の悪さを感じている美也子は、なにも言えなかった。

・・・・・

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ホームを出てから、美也子は顔を上げず早足で帰路を急いだ。胸にはお守りのように、ヒワから送られた絵葉書を抱いていた。

そんなはずはないと思いつつ、背中に刺さるような無数の視線を感じる。

振り向けば、電線や家々の屋根に留まったカラスが一斉にこちらを見ているのを見てしまうようで、美也子は逃げるようにして帰路を駆け抜けた。

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