カラスの親・一〈『話』シリーズ 外伝〉

長編11
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カラスの親・一〈『話』シリーズ 外伝〉

鶴岡美也子は、長年勤めた高校教師を退職したのを機に何か新しいことを始めようと、近くの有料老人ホームが募集していた「おしゃべりボランティア」に応募することにした。

おしゃべりボランティアとは、高齢者の話し相手になることで、孤独感や不安感を解消させることを目的としているらしい。ホームの職員ではない外部の人間が行うことで、普段言いにくいことも言えてリフレッシュになるのだろう。

美也子はどちらかというと口下手な方なのだが、第二の人生ではそれを返上したい。そんな気持ちから、このボランティアを決めたのだった。

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「鶴岡さんには、こちらのお部屋をお願いしたいと思います」

ボランティア初日、美也子はホーム内のとある個室に案内された。ドアの表札には「朝井ヒワ」とある。

「朝井さんは今年九十歳ですがしっかりされた方で、お話も大好きです。ただ足が不自由なので、お手洗いの際には職員を呼んでくださいね」

まだ若い職員はそう言って、個室のドアを開けた。

中でにこやかに美也子を迎えてくれたのは、いかにも上品そうな老婦人だった。

「ようこそ、はじめまして。朝井ヒワと申します」

柔らかな物腰で椅子に座ったまま深々と頭を下げ、老婦人は微笑んだ。

「こ、こちらこそ。鶴岡です。よろしくお願いいたします」

つられて深く頭を下げた美也子に、老婦人は椅子と、用意しておいてくれたであろうお茶を勧めてくれた。

「ありがとうございます、朝井さん」

「どうぞ、ヒワとお呼びになって。可愛らしい鳥の名前で、気に入っているのよ」

ヒワは人懐こそうな笑みを浮かべた。その笑顔に、緊張していた美也子の心も軽くなる。

「あなたが来てくださるのを、とても楽しみにしていたのよ。年寄りの話なんて退屈でしょうけど、しばらく付き合ってちょうだいね」

「とんでもない。私の方こそいろんなお話を伺うのを楽しみにしていたんです。よろしくお願いします」

その後たっぷり一時間、美也子とヒワはおしゃべりを楽しんだ。

ヒワはとても話し上手で、ホームでの生活のことや最近の出来事を面白おかしく話してくれた。また聞き上手でもあり、口下手を自認していた美也子も気づけば自分のことを無理なく語っていた。

「あら、もうこんな時間。楽しい時間は過ぎるのが早いわね。美也子さん、来週も楽しみにしているわ」

ヒワの言葉に、美也子も大きく頷いた。

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次の週、美也子は庭に咲いていた萩の花をひと束携えてホームを訪れた。前回ヒワが、「季節の花をめっきり見なくなった」と漏らしたことを思い出したからだ。

お土産を見たヒワは、美也子の予想以上に喜んだ。職員に頼んで大きな花瓶に萩を飾ってもらうと、その花を懐かしそうに見つめながらウットリと呟いた。

「をとめらに行き逢ひの早稲(わせ)を刈る時となりにけらしも萩の花咲く」

美也子はこの時ほど、自分が国語教師だったことに感謝したことはない。

「万葉集ですね。素敵です」

ヒワはすこし照れ臭そうに笑った。

「国語の先生の前でひけらかしちゃって、恥ずかしいわね」

「そんなことありません。季節の花を見て歌を思いつく方なんて、今時そうそういらっしゃいませんよ。もちろん私もです。ヒワさんは教養がおありなんですね」

美也子は心からそう言ったが、ヒワは口に手を当ててコロコロと笑った。

「教養だなんて、とんでもない。私は田舎の貧しい農家の娘で、尋常小学校も二年でやめたくらいなのよ」

「そうなんですか」

そうよ、とヒワは笑って自分の左足をさすった。

「家も貧しかったし、何より足がこうだから、学校の友達にだんだんついていけなくなってね。平仮名とカタカナだけ覚えたら、やめちゃったのよ」

時代が時代といえばそうだが、切ない過去をヒワはどこか楽しそうに話した。

「もし私に教養があるように見えたなら、それは長年お勤めさせていただいた方のおかげだわ。私は十五になる前から、とあるお屋敷の女中として住み込みで働かせてもらっていたのよ」

ヒワは座ったままの姿勢で器用に体を動かしながら、お茶の準備をする。それを手伝いながら、美也子はためらいがちに尋ねた。

「その足は、お怪我ですか?」

「いいえ、生まれつきなの。私は七人兄弟の末っ子でね。あら、その頃はそれくらい割と普通だったのよ。でもきっとそのせいで、母親のお腹の中の栄養がもうほとんど残ってなかったんだと思うわ」

ヨイショ、と椅子に座りなおし、ヒワは湯気の立つ湯呑みを手に取る。

「そうね、美也子さん。今日は少し、私の昔の話をさせてもらってもいいかしら。少し長いのだけれど」

「もちろんです。聞かせてください」

美也子も向かいの椅子に腰掛けて頷いた。

お茶を少し口にして、ヒワは昔を思い出すように目を宙に泳がせた。

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朝井ヒワは、農家の七人兄弟の末子として生まれた。生まれた時から彼女の左足は萎縮して動かず、産婆は「この子は一生歩けないだろうね」と首を振った。

しかしその予想に反し、ヒワは活発な少女に成長した。ゆっくりとではあったが杖をついて歩けるようになり、同い年の子供たちと同じ時期に尋常小学校へも入学した。

学校を二年でやめてしまったのは、足の不自由さだけではなかった。その頃亡くなった父を継いで家長となった長兄が、「足の悪いヒワに学業は無駄」と判断したからだ。長兄は、二十歳近く年の離れた不具の妹に愛着も興味も示さず、穀潰しだとあからさまに邪険にした。

そんなヒワの心の支えになったのは、母だった。

母は自身の最後の子供であるヒワを、殊の外気にかけていた。体の不自由なヒワが一人でも生きていけるようにと、料理と裁縫を厳しく仕込んだ。

そのおかげもあり、十歳になる前にはヒワは料理・裁縫担当として、家の中でなんとか居場所を得ることができた。特に裁縫の腕はなかなかのもので、近所からも仕立ての依頼があるほどだった。

しかしその状況も、母が亡くなると一変した。ヒワが十四歳の時だった。

長兄とその嫁は二人で、農作業のできない者は穀潰しだとヒワに奉公に出るよう迫り、どこからか一件の奉公先を見つけてきた。

それは、住み込みの女中の仕事だった。条件は料理と裁縫ができることのみ。ただし、親の不幸以外での里帰りを禁止するという。

「先方は、お前の足が悪いのも承知の上だ。もってこいじゃないか」

そう言って、長兄夫婦は追い出すも同然にヒワを奉公へ出したのだった。

ヒワとしても、母のいない居心地の悪い家を出られるのはありがたいことだった。しかし、当然奉公先への不安はあった。

女中として雇うというのに、足が不自由でも構わないとはどういうことだろう。もしかしたら、女中とは名ばかりの妾か、もっと悪ければ身体を売らされるのかもしれない。

不安に押しつぶされそうになりながら杖をついてたどり着いたのは、人目につかないよう木立に囲まれた、大きな洋館だった。

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「…ご苦労をなさったんですね」

美也子は嘆息しながら言った。ヒワの話は、美也子の想像以上に悲しいものだった。

「こんな歳になるとね、辛かったことも悲しかったことも、みんなただの思い出になってしまうから、大丈夫よ」

ヒワは穏やかにそう言った後、「でもね」と少し声をひそめた。

「ここから先の話は、今思い出してもとっても不思議な、決して忘れられない話なの」

もったいぶった前置きに、美也子も思わず身を乗り出す。

「お屋敷に奉公に出られてから、ということですか?」

「そうよ。そのお屋敷の主人はね、とある大きな会社の創始者だったの。会社の名前は伏せるけれど、美也子さんもきっと知っているはず。この辺りでは知らない人はいない、そんな会社よ」

美也子は頭の中でいくつか社名を上げてみる。この辺りでは、ということは、全国規模ではないにしろ県内外では名が通っている、ということだろうか。

「初めてお屋敷に行った私を、旦那様、屋敷の主人が直々に迎えてくれたの。立派な髭の気難しそうなご老人でね。着ていた着物も、古めかしかったけれど立派なものだったわ。その時はもちろんわからなかったけれど、後から出た百円札の板垣退助に、よく似ていて驚いたわ」

「お屋敷は、外観はもちろん中もとても大きくて広くて、なのにどこも美しくて。おまけに床には絨毯まで敷き詰められていてものだから、汚い格好で草鞋を履いた自分が、とても恥ずかしく思えたものよ。旦那様とお屋敷の両方に圧倒されてしまって、廊下を歩くだけでもおっかなびっくりだったわ。おまけに、通された応接室は私の生まれた家が丸ごと入ってしまうくらい広くてね。ソファなんて初めて見たけれど、座ったらまるで雲に乗ったように体が沈み込んで。あまりのことに目が回るほどだったわ」

ヒワは当時を思い出すようにクスクスと笑った。

ヒワのその引き込まれるような語り口は、美也子に都会の暮らしに驚く山育ちのハイジを連想させ、少女が目を白黒させる様子が眼裏に浮かぶようだった。

「その応接室でなにを聞かされたかというとね、旦那様はご自身の経歴を話し始めたの。

『自分は幼い頃から耳聡く、噂話の真偽や、どこで誰かがなにをしたのかが不思議と手に取るようにわかった。それで十五の時から、世の情報を人々に広めるための仕事を始めた。初めは内容も粗雑だったし、時代が明治に変わるゴタゴタで何度も廃刊になったが、その度不屈の精神で復刊させてきた。会社は少しずつ大きくなり、今では知らぬ者はいないほどだ。今は会社を人に譲りこうやって隠居生活をしているが、まだまだ自分の影響力は絶大だ』

とね。まぁ、要は自慢話よ」

「幕末生まれの方ですか? 随分とご長寿だったのですね」

美也子の言葉に、ヒワは大きく頷いた。

「当時もう九十近いお歳だったはずだけれど、とてもそうは見えなかったわ。腰なんかもピンと伸びて、お声にも張りがあって。自分のことをお話しすると時なんか、まるで子供のように目が爛々と輝いて。不思議だけれど、なんとなく愛嬌のあるお方だと、その時はホッとしたものよ。妾にされるんじゃないか、なんて心配も、まったく不要だったわ。私に言われたのは、本当に料理と裁縫の仕事だけだったの」

美也子はホッと息を吐く。それを見て、ヒワは嬉しそうに微笑んだ。

「話はまだまだ続くのだけれど、旦那様のお名前を伏せたままではわかりにくいわね。仮に、お名前を烏丸さんとしましょうか」

ヒワはすっかり冷めてしまったお茶を口にして、また語り始めた。

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烏丸邸は豪邸にもかかわらず、使用人はヒワを含めて三人しかいなかった。

一人は壮年の男性で、烏丸から「橘」と呼ばれていた。橘は烏丸の執事のような存在で、外部とのやりとりも担当していた。

もう一人は「桜」と呼ばれる掃除を担当する女性で、橘の妻だということだった。ヒワの指導を担当してくれたのも彼女だった。

二人は田舎に似つかわしくない雅やかな雰囲気を持っており所作も優雅で、使用人というよりどちらかといえばかしずかれる側のように思えた。常に穏やかな笑みをたたえており、ヒワはこの二人が声を荒げたり、喧嘩をしているのを見たことがなかった。

主人である烏丸とは、ヒワは初日以外ほとんど顔を合わせることはなかった。

屋敷には立派な食堂があるにも関わらず、烏丸はいつも自室で、橘がわざわざ運んでくる食事をとった。ヒワの作る食事を褒めることはなかったが、残すこともなかった。

繕い物や仕立物についても、ヒワが直接烏丸に承ったことはなく、いつも橘伝手だった。橘は細かな注文や寸法を、ヒワが驚くほどよく把握していた。やはり出来上がりについて烏丸から感想を聞くことはなかったが、時折橘が「気に入っているようですよ」と片目を瞑って教えてくれた。

主人と顔を合わせない生活に初めこそ違和感を感じたが、慣れてしまえば気楽で良かった。橘も桜も、口数こそ少なかったが優しく接してくれ、烏丸邸での生活にヒワは徐々に馴染んでいった。

屋敷には烏丸の家族と思われる人物は住んでおらず、烏丸はいつも一人で自室に篭っているようだった。身内はいるのかいないのか、それらしき者が訪ねてくることは一度もなかった。

その代わり、なぜか屋敷にはいつも数人の子供達がいた。

子供達はヒワより幼い者ばかりで、孤児だということだった。烏丸がどこからか集めてきては屋敷で養い、奉公先を見つけて送り出しているのだという。いわゆる慈善事業だった。それを聞いた時は、あの気難しそうな烏丸にも優しい心があるのだと、ヒワは素直に感心した。

子供達は長くても一年ほどで屋敷を去っていったが、皆天真爛漫を絵に描いたように明るく元気で、歳の近いヒワを姉のように慕ってくれた。ヒワも、大人ばかりの屋敷で思いがけず子供の声が聞けるのが嬉しく、仕事の合間をみては一緒にお手玉やあやとりなどで遊んだり、余った端切れで前掛けや人形用の服を縫ってあげることもあった。

奉公先が決まったといって屋敷を離れる時には、涙を流して別れることもあった。

「ヒワねぇちゃん、また絶対来るね」

どの子も大きく手を振りながらそう言ったが、言葉通り戻ってきた者は一人もいなかった。

ヒワは、彼らが新しい奉公先で頑張っていると信じ、一人いなくなればまた一人増える子供達に姉のような愛情を注ぎ続けていたが、烏丸邸で過ごす年月が重なるにつれ、子供達のことで気になることもあった。

一つは、子供達の奉公先について子供達はもちろん、橘も桜も知らないこと。普段外部との接触が皆無に思える烏丸が、どうやって奉公先を見つけているのかが不明なこと。

もう一つは、子供達の誰もが決まって口にする、ある言葉だった。

「夜になると、誰かが僕のことを見てるんだ」

「寝ていると、上から顔を覗き込まれるの」

そして、そう話した子供は必ず近いうちに烏丸邸を離れていった。

あの子達はどこへ行っているんだろう?

橘や桜に尋ねたこともあったが、二人とも知らないと口を噤むばかりだった。本当は知っているんじゃないか、そう思うこともあったが、単なる女中の分際で主人のすることに首を突っ込むことは憚られた。

何人もの子供達を送り出し、烏丸と顔の合わせることはほとんどないまま、ヒワの烏丸邸での生活は過ぎていった。

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「奉公にあがってから、一年が経った頃かしら。ある時ね…」

話しかけたヒワを遮るように、壁の時計が三時を告げた。いつの間にか、美也子がヒワの元を訪ねて一時間が経っていた。

「あら、もうこんな時間なのね。続きはまた来週にしましょうか」

美也子は、子供の頃に近所の公園で見た紙芝居を思い出した。自転車であちこち回っていたあのおじさんは、いつもいいところで話を切って子供達をやきもきさせていた。あれと同じ気持ちだった。

「続きが気になります」

素直にそう言った美也子に、ヒワは声を上げて「嬉しいわ」と笑った。

俄然不気味さを増してきたヒワの話。

いったいこの先どうなるのだろうか。

後ろ髪を引かれる思いで、美也子はホームを後にした。

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