長編27
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指輪の刻印

「真美ちゃん、残波ロックのおかわりちょうだい。」

金曜日の会社帰り、神田にある行きつけの居酒屋で会社の同僚と上機嫌で飲んでいた。

長い間取り組んできた大きなプロジェクトがまとまり、役員から直々に褒められた上に今日は給料日。

独身でひとり暮らしの俺がとぼとぼとマンションへまっすぐ帰るような夜ではない。

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◇◇◇◇

俺の名は岡谷弘樹(オカヤコウキ)28歳。

新橋に事務所を構える中堅の情報機器関係の会社に勤めている。

大学進学で信州から上京し、それ以来十年以上ずっと引っ越すことなく、新小岩にある1DKの単身向けマンションに住んでいる。

非常に住み心地が良く家賃も安いため、おそらく結婚するまではこのままだろうが、悲しいかな、女っ気がない今はここを出る見通しは全く立っていない。

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◇◇◇◇

黄色いラインの入った総武線各駅停車に乗り、新小岩駅を降りた時にはもう零時を過ぎていた。

かなり調子よく飲んだが、この程度の酔いであれば二日酔いで苦しむことはないだろう。

南口を出て荒川とは反対方向の住宅地へ向かう。

マンションまでは徒歩十五分ほどの距離だ。

駅を出てしばらく歩くと大きな建物も少なくなり、人影も少なくなる。

この時間になるともう俺の前後に人の姿はなかった。

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週末の夜であり、別に急いで帰る理由はないのだが、のんびり歩いて楽しい道でもない。

うつむき加減でやや早足で歩いていると、ふと路肩にある道路標識の根元に赤いものが落ちているのに気がついた。

ふたつ折りタイプの財布のようだ。

拾い上げてみると、革製のその財布は薄っぺらで、カード類はもちろん札入れや小銭入れも空っぽ。

「ゴミか。」

なくなって誰かが困っているようなものではなさそうであり、警察に届けるものではないかと、落ちていた場所に戻すとまた歩き始めた。

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いくつかの街灯の光の下を潜ると目の前に自動販売機が見えてきた。

この角を曲がって五分ほど歩けばマンションだ。

自動販売機の手前まで来ると、明るく照らされた道路に四角いものが落ちているのに気がついた。

「あれ?また財布だ。」

拾い上げてみると、先ほど落ちていたものとそっくりな、ふたつ折りの赤い革の財布だった。

やはり中には何も入っていない。

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「さっきの財布とそっくりだけど、おかしなこともあるもんだな。」

酔っているせいもあったのだろう、それほど深く考えることもなく、拾った財布を自動販売機の前に置くとまた歩き始めた。

そしてマンションへの入り口の前まで来ると、街灯の下にまた何か落ちているのに気がついた。

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「嘘だろ?」

みたび落ちていた赤い財布を拾い上げて中を確認すると、やはり先程と同じ物のようだ。

俺はそれを手に持って今歩いてきた道を引き返した。

自動販売機の前まで戻り、先ほど財布を置いたところを見るとそこに財布はなかった。

周囲を見渡しても人の気配などない。

更に駅への道を戻り、最初の道路標識のところまで戻ったが、やはりそこにも赤い財布はなかった。

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手に握っているこの赤い財布は、俺の歩く道を先回りして待っていたとでも言うのだろうか。

誰かの悪戯とはとても思えない。

俺が置いた財布をこっそり拾って、足早に歩く俺の前に置くためには、必ず俺を追い越さなければならないのだ。

あり得ない。

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さすがに気味が悪くなった俺は、マンションの前を通り過ぎて新中川に掛かる小岩大橋の上まで来ると、その財布を川に投げ込んだ。

ぽちゃっ

軽い音と共に橋の照明に照らされた川面に波紋が広がり、

川の流れの中ですぐにその波紋が消えた。

少しほっとしてマンションの入り口へ戻り、街灯の下を確認したが何も落ちていない。

「あれは一体何だったのだろう。」

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酔いもほとんど覚めてしまったが、とりあえず自分の部屋まで戻ったところで凍りついた。

ドアの前に赤い財布が落ちている。

しかし自分の帰るべき場所はそこなのだ。

もう財布には手を触れず、落ちている財布を避けるようにしてドアを開け、部屋の中へ滑り込んだ。

一体あの財布は何なんだ。

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見覚えのない財布だが、ピンクに近い赤という色からすると女物だと思って間違いはない。

最近はまったく女性に縁がないのに、空っぽの女物の財布につきまとわれるなんて。

でも魑魅魍魎の類なら朝にはいなくなっているだろう。

あそこに落ちていればマンションの誰かが拾っていくかもしれない。

ひとり苦笑いをして布団に潜り込んだ。

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◇◇◇◇

目が覚めたのはもう昼が近い時間だった。

特に予定はないのだが、腹が空いて何か食べる物はないかとベッドから起き上がった。

そしてキッチンへ行こうとした時、散らかったフロアテーブルの上にあの赤い財布があるのに気がついた。

朝になっても消えないどころか、部屋にまで入ってきやがった。

捨てても無駄だという事は昨夜学習している。

燃やすか。

でもそんなことをして祟られたりしないだろうか。

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キッチンにあったパンをかじりながらカウチに座り、もう一度テーブルの上の赤い財布を手に取ってまじまじと見てみた。

犬のマークのハッシュパピーというブランドの財布だ。

もちろん明るいところで見ても見覚えは全くない。

昨夜、川の中へ投げ込んだはずなのに全く濡れた様子がないのも不思議だ。

開いて札入れの部分を見てもやはり何も入っていない。

しかしホックのついた小銭入れの部分に何か硬い感触があった。

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小銭入れの中を確認すると、昨夜は気がつかなかったが、隅の方にシルバーの指輪がひとつ入っていた。

シンプルなデザインで、結婚指輪のように見える。

小銭入れに入っていたのはこれだけだ。

しかし小銭入れの裏にポケットがあることに気がつき、見るとそこにカードが一枚入っていた。

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それはどこかの店のポイントカードで、淡いピンク系のかわいいデザインであるところからすると女性向けの店なのか。

大きく中央に『AIR-Fantasy』という店の名前と、その下に小さく電話番号、住所、ウェブサイトのアドレスが記載されている。

どうやら美容室のようだ。

そして裏側には、会員番号、そして会員の名前のところには手書きのマジックで山崎佳也子と書かれていた。

この山崎佳也子という人が、この財布の所有者だったのだろうか。

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他に何かないかともう一度ポケットを確認すると、奥の方に紙切れが押し込まれているのに気がついた。

カードを出し入れする際に奥に押し込まれてしまったのだろうか。

指を突っ込んで引っ張り出してみると、それはコンビニのレシートだった。

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一瞬がっかりしたが、見るとその裏に

「佳也子 電話して 080-XXXX-XXXX 直子」

という走り書きがあった。

もう一度レシートを確認すると、日付は、2017年1月18日になっている。

半年ほど前であり、それほど古いものではない。

コンビニの場所は西神田になっているが、普通に考えるとこちらは直子という人の行動範囲なのだろう。

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空っぽの財布自体は別にしても、この指輪は意図して捨てられたものではないような気がする。

もう一度指輪を確認してみると、指輪の内側に文字が彫ってあるのに気がついた。

[IKUO.KAYAKO 12.3.11]

普通に考えて、イクオというのが山崎佳也子の旦那で、12.3.11は2012年3月11日で結婚記念日なのだろう。

今年が2017年だから結婚して五年と少しになる。

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とりあえず判ったことはここまでだが、なぜこの山崎佳也子の財布が俺につきまとうのかが、さっぱりわからない。

しかしこのまま捨てても、また同じことを繰り返すだけなのは間違いない。

こんな訳の解からない財布を持ち続けるのは嫌であり、何とかしたい。

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インターネットで『AIR-Fantasy』という店のアドレスを検索してみたが、そのサイトは存在しておらず、

カードに記載された電話番号に掛けてみても使用されていないという無機質な声が返ってきただけだった。

この店は潰れたという事なのだろうか。

残る手掛かりは、この直子という友人らしき人の電話番号だ。

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◇◇◇◇

(はい、もしもし)

電話に出た声は意外に若かった。

「すみません。直子さんですか?」

(はい・・・そうですけれど、どなたですか?)

おそらく携帯に表示されている電話番号が、履歴にない番号なので警戒しているのだろう。

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「突然すみません。昨夜山崎加奈子さんの物と思われるほとんど空っぽの財布を拾ったのですが、その中に結婚指輪が入っていたので、これは本人に届けた方が良いかなと思ったんです。

その財布の中にたぶんあなたがレシートの裏に書かれた、あなたの電話番号のメモが入っていたので、

山崎佳也子さんの連絡先が判ればと思って、失礼かと思ったんですけど思い切って電話したんです。」

(・・・・)

俺の言葉に何も反応がないのだが、そうかと言って電話を切る様子もない。

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「もしもし?あの、すみません。もしご迷惑だったら切ります。ごめんなさい。」

(あ、いえ、迷惑とかではなくて、佳也子はこの春に亡くなっているんです。)

「え?あ・・・そうなんですか。」

どこかでそんな気がしていた。

この財布があのような奇妙な現象を起こすのだから、普通の落とし物ではないことは判っていた。

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しかしそれならそれで、今後この財布につきまとわれないようにきちんと故人のところに返さないといけない。

「それではすみませんが、佳也子さんのご主人の山崎イクオさんの連絡先が判れば教えて貰えませんか?」

(は?いいえ、佳也子の旦那はイクオという名前ではないですよ。)

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「え?でも拾った指輪には、イクオ、カヤコ 2012年3月11日って刻んでありますよ。」

(え、そんなはずはありません。名前が違うし、2012年って佳也子はまだ大学生で、結婚なんかしていなかったはずです・・・

あの、拾ったのはどんな財布ですか?)

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「ハッシュパピーのふたつ折りの赤い革の財布です。」

(え・・・そうですか・・・。あの、もしお時間があればお会いできませんか?

電話では話がまどろっこしいですし、是非そのお財布を直接見せて欲しいんです。)

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◇◇◇◇

それから2時間後、新小岩駅の北口を出てすぐのところにある『TOMSCAFE』で彼女と待ち合わせた。

北千住に住んでいるという彼女は、電話した時にたまたま亀戸にいたのでわざわざ新小岩まで出向いてきてくれたのだ。

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「はじめまして。岡谷といいます。」

「飯田です。すみません、いきなり呼び出したりして。」

「いいえ、そもそも電話を掛けたのは僕の方ですから。

それなのにわざわざ新小岩まで来てくれるなんて恐縮です。」

そして俺は財布、指輪、レシートのメモ、そしてポイントカードをテーブルに並べ、昨夜起こった奇妙な出来事から、彼女に電話を掛けることにした経緯までを説明した。

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「この財布は私が佳也子にプレゼントした物なんです。二年前の誕生日でした。」

飯田直子が話してくれたのは次のような内容だった。

◇◇◇◇

山崎佳也子と彼女は2013年四月の同期入社だった。

コンピューターソフト開発の会社で佳也子は隣の部署だったが、フロアが同じだったこともあり、一緒に昼食を食べたり、退社後にふたりで飲みに行ったりと仲良くしていた。

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しかし彼女はあまり仕事や職場に馴染めず、早く寿退社したいと婚活に励み、

そして2016年の秋に結婚して退社した。

相手は山崎義男という、見た目は普通のサラリーマンだったが、これがとんでもない男だった。

結婚前は真面目な雰囲気で佳也子にも優しく接していたようなのだが、結婚後数か月過ぎた頃からそれまでの態度が急変し、

外で遊んで帰ってきては毎日のように佳也子に暴力を振るうようになったのだ。

そんな彼女に対し、退社後も飯田直子は友人として相談に乗っていたのだが、

今年の三月に彼女は自宅で首を吊って自殺したのだった。

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◇◇◇◇

飯田直子はテーブルの上から指輪を手に取ってじっくり見ている。

「このイクオって誰なのかしら。佳也子の口からそんな名前を聞いたことはないわ。

2012年の三月って彼女が大学三年生を終える頃よね。その頃の彼氏なのかしら。

それにしても、なぜこのお財布が岡谷さんの後を追いかけたのか全く分からないわ。」

そして飯田直子の提案で、縁もゆかりもない俺が持っているよりも良いだろうと、赤い財布と指輪などは彼女が一旦持って帰ることになった。

そしてまた何かあれば連絡を取り合うことにして俺達は店を出た。

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しかしその連絡は、すぐに取ることになってしまった。

マンションへ帰り、部屋に入るとテーブルの上に飯田直子が持ち帰ったはずの指輪が転がっていたのだ。

周辺を見たが財布はどこにもない。

指輪だけがこの部屋に返ってきていた。

飯田直子はおそらくまだ電車の中に違いない。

電話には出られないと思いショートメッセージを送った。

--- 指輪だけが俺の部屋に返ってきた。直子さんの手元に指輪があるか確認して。

すぐに返信があった。

--- 財布はあるけど、指輪だけないわ。

しかし、すぐにはどうすることも出来ない。

とりあえず今日のところは一旦メッセージのやり取りを終えた。

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テーブルの上で光る指輪を眺めながら、泡盛をちびちびと飲んでいた。

手元に返ってきたのは指輪だけという事は、俺のところに来たがっているのはこの指輪なのだ。

昨夜はあの財布の小銭入れにしまわれていたため、財布ごと移動してついてきたという事か。

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これだけ不思議な出来事を起こす、自殺した人の所有物だった指輪を目の前にしても何故か恐怖心は湧いてこない。

普通ならば青くなってお寺か神社に持ち込むのだろう。

しかしこの指輪からは変な邪気は感じられず、不思議と手元に置いておきたいような感情が湧いてくるのだ。

どうしてだろう、知らない男女の名が刻まれた指輪なのに。

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そしてこの指輪に刻まれた日付は東日本大震災のちょうど一周忌だ。

関東以北の人間にとっては結婚式に適した日とは思えない。

調べてみると日曜日の友引だから結婚式には悪くない日であり、そんなことは気にしなかったのだろうか。

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◇◇◇◇

--- 直子さん、佳也子さんの実家の住所は分かりませんか?

俺は飯田直子にメールした。

やはりこの指輪は何ら関係のない俺が持っていてはいけない。

実家で引き取ってもらうか、佳也子のお墓に返そう。

そう思い飯田直子へメールを送ると、返事はすぐに返ってきた。

--- 彼女は結婚するまで自宅から通勤していたから知っているわ。千葉の柏だからそんなに遠くないけど、行くの?

--- 明日は日曜日だし、ちょっと行ってみて、もしご家族に会えれば指輪を返しがてら、話を聞いてみようかと思って。

--- もし岡谷さんがよければ、一緒に行ってもいい?

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飯田直子は若干ぽっちゃり系で感じは悪くない。

というかはっきり言って好みのタイプだ。

北千住に住んでいること以外、彼女自身に関することは何も聞いていないが、パートナーはいるのだろうか。

あの容姿と優しそうな雰囲気であればいても不思議はない。

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とりあえず明日彼女と一緒に出掛ける約束をしたのだから、俺と一緒にいることを不快には思っていないのだろう。

しかし、おそらく彼女にとってそんなことはどうでもよく、

真剣に山崎佳也子の遺物に深い関心があるだけに違いない。

考えてみれば相談相手になっていた元同僚に自殺されたのだ。

彼女も何かしら心に傷を負っているのかもしれない。

心の片隅に滲んでくる、これをきっかけに仲良くなれればという気持ちは、虫が良すぎるなと自嘲してグラスに残っていた酒を煽った。

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山崎佳也子のことは気になるものの、飯田直子と出かける機会を得たことで、多少気分を良くしてシャワーを浴び、タオルで身体を拭きながら裸のまま居間に入ろうとした。

すると居間のフロアテーブルの前に女性が正座して座っているではないか。

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その女性はじっと俯き、テーブルの上に置いてある指輪を見つめているようだ。

背中まである黒いロングヘアで、顔は全く見えない。

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彼女は細かい花柄をあしらった薄いブルーのワンピースを着ており、袖から覗いている腕が異様に白い。

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いや、よく見ると体全体がうっすらと透けているように見える。

明らかにこの世の存在ではない。

俺の幻覚だろうか。

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身体を拭く手も止まり、居間の入り口に立ち尽くしてじっとその女性をみていると、

やがてその女性はゆっくりとこちらを見上げるように振り向いた。

やせた顔は腕と同じように真っ白で、おそらく俺のことを見ているようだが、

その目は焦点が定まっていない。

そしてこちらを見上げているその首には

ロープが食い込んだような赤黒い跡が痛々しく残っていた。

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(この女が山崎佳也子か?)

しかしその顔には見覚えがない。

なぜこの幽霊が俺にまとわりついてくるのだろう。

逃げようかと思ったが、体が全く動かない。

それにパンツすら履いていないこの姿で外に飛び出すわけにもいかない。

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女はゆっくりと立ち上がり、立ち尽くす俺の方へ音もなく滑るように近づいてきた。

「コウキサン・・・

アナタト・ケッコン・シタカッタ・・・・」

途切れがちに女の声が聞こえてきた。

目の前の女性の口は動いておらず、耳の奥に直接響くような声だ。

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この女は俺の名前を知っている。

俺とは無関係だと思っていたのに。

そして俺と結婚したかったと。

いったい誰なのだ。

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女はさらに俺にスーッと俺に近づき、止まることなく俺の身体にぶつかった。

しかし彼女の体には何の感触もなく、俺の目の前で霧散した。

煙の塊がふわっと自分の身体にぶつかったような感じだ。

そのまま女はどこかに消えてしまったが、

テーブルの上には依然として指輪が鈍く光っている。

しばらくそのまま様子を伺っていたが、再び女が現れる気配はなかった。

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◇◇◇◇

「それは間違いなく佳也子だわ。」

柏に向かう常磐線の車内で、俺は飯田直子に昨夜現れた女の幽霊の話をした。

「髪型もそうだし、花柄でブルーのワンピースは、彼女が首を吊った時に着ていた服なの。」

飯田直子は不安そうに眉間にしわを寄せて俺の顔を見た。

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「本当に彼女の顔に見覚えはなかったの?」

「ああ、まったく。でもあんなに痩せて真っ白い顔にぼんやりした目つきじゃ、生きている時の顔と全然印象が違うのかもね。」

「佳也子はもともとちょっとぷっくりとした可愛い顔立ちだったのに、結婚してから見る間に瘦せていったのよ。

見ている方も辛かったわ。

でも結婚すればよかったって言うくらいだから、岡谷さんが全く知らないというのも変な話ね。」

そう言われても、あの長い黒髪にあの顔立ちは全く記憶にない。

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もしかしたらあの指輪は無差別に男へついて行って、

その男の意識の中から名前を読み出し、

誰に対しても同じことを言って取り憑いてしまうのではないか。

「そんな、その辺のコンピューターウィルスじゃあるまし。でも岡谷さんってコウキって名前だったんですね。覚えておこうっと。」

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◇◇◇◇

柏駅からバスで十分ほどの住宅地に佳也子の実家はあった。

『原口』という表札の下にある呼び鈴を押し、佳也子の母親が出てくると、飯田直子が顔見知りだったこともあって快く対応してくれた。

娘を亡くした母親の心情を慮って、財布は以前に飯田直子のアパートに忘れていたのを偶然見つけたことにした。

しかし佳也子の母親の話は、参考にはなったものの結局問題を解決するには至らなかった。

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母親はこの指輪のことを憶えていた。

佳也子が大学二年生の頃、大好きな人が出来たと騒いでいたのだ。

そして恋人になれるように願掛けだと言って結婚指輪もどきのリングを買ってきて身につけていたのだった。

その指輪に間違いないと母親は言ったが、いつも身につけていたために裏に刻まれた文字は見たことがなく、イクオという名前には心当たりはないと言った。

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「佳也子からその好きになった人の名前は何度か聞いたことがあるのだけれど、ごめんなさい、思い出せないわ。

でも間違いなくイクオという名前じゃなかったと思うの。

だって私の父、つまり佳也子のお爺ちゃんが郁夫という名前だから、もし佳也子の好きな人が同じ名前だって聞いたら絶対忘れないはずだもの。」

そしてもし必要がないのならぜひ置いて行ってくれという母親の希望に従い、佳也子の位牌が置いてある仏壇に財布と指輪を供えた。

そして飯田直子と共に冥福を祈って手を合わせると、母親に礼を言って佳也子の実家を出た。

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◇◇◇◇

山崎佳也子の実家を訪れたのが昼過ぎだったが、もう夕方四時を過ぎている。

ずいぶん長居をしてしまった。

「どこかで一緒に夕食を食べて帰らない?このまま帰ってひとりで食べるのもつまらないわ。」

飯田直子の申し出に、俺は心の中で小さくガッツポーズをした。

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お互いの駅にアクセスが良いところという事で亀戸を選び、

居酒屋の暖簾を潜ったのはまだ五時過ぎで開店したばかりだった。

日曜日の夕方という事もあってか、まだ他の客はおらず、

静かに話がしたいと店の奥にある和風の個室にして貰った。

靴を脱いで畳の座敷に上がりテーブルにつくと、とりあえずの飲み物とつまみを頼んだ。

そして運ばれてきたビールのジョッキを握りしめ、かちりと合わせると喉が渇いていたのか、飯田直子は一気に半分ほど空けた。

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「いい飲みっぷりだね。普段からよく飲むの?」

「うん、お酒は好きよ。岡谷さんは?」

「そうだね。毎日缶ビール一本といったところで、あと週一くらいは外で飲むかな。」

「結構いけるのね。」

飯田直子は独身であり、北千住の小さなアパートで独り暮らしをしていると言った。

彼氏がいるのかを聞こうかと思ったが、昨日初めて会ったばかりの彼女にいきなりそれを聞くのはさすがに躊躇われた。

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「しかし、イクオという男は全然正体が判らないね。」

「でもお母さんは、佳也子が好きだった人はイクオという名前じゃないと言っていたわ。」

「でも指輪にははっきりとそう刻まれているのだから、お母さんの勘違いじゃないかな。」

やはり大学時代の彼氏なのだろうか。

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「でもね、彼女が指輪を買ったのが大学二年の終わりでしょ?

ということは2011年の春だから、指輪に刻まれた2012年とは一年くらい日付が合わないわ。」

「何かの記念日とか、目標の日だったとか?」

「まだ付き合ってもいないのに?」

飲みながらふたりで疑問をぶつけあっては黙り、を繰り返していたが、

あるきっかけで話が前に進むことになった。

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「やっぱり大学時代の彼氏なのかな。彼女はどこの大学出身か知っている?」

「東京理科大って言ってたわ。確か情報工学って言ってたかな。

コンピューターの会社だったからね。」

「・・・・俺と同じ大学だ。」

初めて俺と山崎佳也子に接点が見つかった。

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チリン

不意にテーブルの上で風鈴のなるような音がした。

テーブルの上を見回したが、それらしい音を発するものは見当たらない。

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「岡谷さん、そのジョッキ。」

飲み物はビールから日本酒に変わり、空のビールジョッキがテーブルの隅に寄せてある。

その底に何か入っていた。

ジョッキを手に取ってみると、それはあの指輪だった。

「また返ってきちゃった。」

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ジョッキから指輪を取り出し、おしぼりで拭うとテーブルの真ん中に置いた。

「実家の仏壇よりも岡谷さんの方がいいってこと?なんで?」

「解からない。」

何度も繰り返した”解らない”というセリフをまた繰り返した時、

飯田直子がいきなり右手を突き出し、テーブルの上の俺の手を握りしめた。

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いきなりの彼女の大胆な行動に、ドキッとしてどうしたのかと彼女の顔を見ると、その目は俺の方を見ていない。

彼女の視線は俺の斜め後方を見ていた。

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振り返ると、彼女の視線の先、和室の隅にはあのブルーのワンピースを着た山崎佳也子が正座しているではないか。

彼女は相変わらず焦点の定まらない目つきだが、振り向いた俺と目が合った。

「佳也子」

飯田直子が声を掛けると、山崎佳也子はゆっくりと彼女の方へ視線を移し、

ほんの少し微笑んだように見えたと思ったところですっと消えてしまった。

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◇◇◇◇

翌日の月曜日、俺は会社を休んで大学へと足を運んだ。

正門を入ると真っすぐに図書館へ向かい、2010年度から2013年度の卒業生名簿を手に取った。

この名簿に載っている名前が、佳也子が大学二年生の時に在籍していたほぼ全員という事になるはずだ。

まず一番古い2010年度の名簿から始め、教員も含め全員の下の名前を確認していく。

もちろんイクオという名前を探しているのだ。

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俺の名前もあった。

この年度は俺と同期の卒業になるため知っている懐かしい名前も多く、

つい名前を追いかける指が止まりがちになるが、それでも三十分ほどでひと学年分の確認を終えた。

イクオという名前はそれほど珍しい名前ではないと思うのだが、

10年度卒の中には一人もいなかった。

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続いて11年度に移るとここではふたりのイクオを見つけた。

連絡先をメモして12年度へ移る。

指で追っていくと情報工学科のところに佳也子の名前があった。

名簿は毎年更新されているのか、山崎佳也子の名前の後ろには括弧付きで原口と書かれており、そして近況のところは、『2017年他界』となっていた。

つい最近改定されたばかりなのだろう。

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原口佳也子・・・

何かが心の中で引っ掛かった。

しかしここでゆっくり考えるのは時間が勿体ない。

12年度の名簿に載っているイクオはひとりだった。

彼は同じ学科の同期であり、こいつが一番怪しいかも知れないと思いながら、最後の13年度を確認し、更にひとりのイクオを見つけた。

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◇◇◇◇

記載されていた四人のイクオの電話番号は全て携帯電話であり、ひとりひとり電話をかけてみた。

幸いにも四人とも一回で電話がつながった。

しかしその結果、四人中三人は佳也子の存在すら知らなかった。

そして同期で同じ学科のひとりだけが彼女を知っていた。

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その彼の話では、彼女が二年生の頃に好きな先輩が出来たと話しているのを憶えていると言う。

女性の極端に少ない大学で、そこそこのルックスと穏やかな性格の彼女は、一部の男達の間でアイドル的な存在だった。

その彼女に好きな人が出来たという事で、学科内ではちょっと話題になったので憶えているとと話してくれた。

しかし彼自身は彼女と関わりを持ったことはないと言い切った。

そうするとイクオに対する佳也子の完全に一方的な片思いだったという事なのだろうか。

それでも、この指輪が俺にまとわりついてくる理由がさっぱりわからない。

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◇◇◇◇

図書館を出ると、久しぶりに大学のカフェテリアへ立ち寄った。

六、七年ぶりだろうか。

全体の雰囲気はあまり変わっていないが、テーブルや椅子が新しくなっており、メニューも当時なかったものがずいぶん増えている。

自動販売機でコーヒーを買うとテーブルに座った。

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この時間は授業中であり、カフェテリアにたむろしている学生はまばらだ。

その数少ない学生達の賑やかな様子を見ながら

自分も学生だった頃を懐かしく思い出していた時、

真ん中あたりのテーブルに陣取っている数人の学生達の向こうに、ぽつんとひとり座っている女の子に気がついた。

ショートヘアに丸顔のその女の子には見覚えがあった。

「原口・・・」

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思い出した。

とうとう思い出した。

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◇◇◇◇

大学時代、俺は校外の演劇サークルに所属しており、彼女は同じサークルの後輩だった。

しかし団員は100人近く在籍しており、その7割が女性という事もあって、彼女の存在を特別に意識することはなかった。

それでも同じ大学だということもあり、その顔と原口という苗字はかろうじて認識していたが、佳也子という名前までは記憶していなかった。

だから山崎佳也子という名前を見ても全く分からなかったし、

飯田直子は会話の中で常に佳也子と呼んでいたので、気がつかなかったのだ。

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佳也子の実家に行った時に原口という表札は見ていたが、

あの時はイクオとの関係に意識が向いており、

特に珍しいわけではないその苗字を過去の自分の記憶に照らし合わせることもしなかった。

そう、あの劇団ではもうひとり岡谷という苗字の団員がいて、

みんな俺のことを苗字ではなく名前で呼んでいた。

佳也子の幽霊がコウキサンといった時点で気がつけばよかった。

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卒業を目前にした公演の最終日、突然彼女に好きですと告白された。

しかしあの日は卒業前の最終公演で、

俺は多くの女性から別れの挨拶と共に花束を貰っていた。

そんな中での彼女からの告白に、何と答えたのかすら憶えていない。

そしてあの頃は劇団員には公にしていない恋人がいた。

それもあって彼女のことは適当にあしらったのだろう。

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◇◇◇◇

俺は席を立ち、原口佳也子のほうに向かった。

彼女はじっとこちらを見ている。

しかし間に陣取っている学生達を迂回したところで彼女は消えてしまった。

周りを見回してもどこにもいない。

その時、携帯が鳴った。飯田直子からだった。

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◇◇◇◇

先日と同じ居酒屋で待ち合わせ、同じ和室に腰を下ろした。

「話はふたつあるの。」

ビールを運んできた店員が部屋を出ていったところで、飯田直子が話し始めた。

「指輪、持ってる?」

俺はポケットから指輪を取り出して、彼女の目の前に置いた。

飯島直子はそれを手に取ると刻まれた文字に目を近づけて、

じっくりと文字を確認している。

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「やっぱりね、間違いないわ。イクオなんて男は存在しないのよ。」

「どういうこと?」

「指輪のこの文字、反対から読んでみて。」

「『11.3.21 OKAYAK.OUKI』 ・・・ なるほどね。」

「何よ、大発見だと思ったのにあまり驚かないのね。」

飯田直子は不満げに口を尖らせた。

そしてビールのグラスを一気に空け、手酌しながら続けた。

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「その真ん中のKの後ろの点は文字の点ではなくて傷なのよ。

それを確認したくて今日来て貰ったの。

結局、佳也子が見ていたのはイクオではなくあなただったのよ。

でもこの11.3.21って何の日付かしらね。」

「俺が卒業する直前、原口に好きだと告白された日だ。」

「彼女のこと、思い出したのね。」

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俺は先ほどカフェテリアで起こったこと、そして原口佳也子について思い出したことを話した。

「大学に現れた佳也子は学生の頃のままの姿で、それを見て岡谷さんも佳也子のことを思い出したということね。」

そう言いながら、飯島直子はバッグから一枚の写真を取り出した。

それはショートヘアで若々しい笑顔を満面に浮かべ、飯田直子と並んで写っている原口佳也子だった。

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「入社してすぐの頃の写真よ。

これを見れば何か思い出すかと思って持ってきたけど必要なかったわね。」

写真を手に持って眺めながら飯田直子は言った。

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「写真を見ていたら、この頃の佳也子が言っていたことを思い出したの。

大学の頃すごく好きな人がいて、もし私がその人の苗字になると、ローマ字でどちらから読んでも同じになるのよ、だからきっと運命の人だと思っていたのにあっさりとフラれちゃったって。それでピンときたのよ。」

何が起こっているかは大体飲み込めた。

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しかし、まとわりついてくる指輪を何とかしたいという問題は解決できていない。

まとわりつかれる理由がはっきりしただけなのだ。

「指輪を作った時に最終公演の千秋楽の日が判っていたはずはないから、この日に告白するぞって言う事前の意気込みなのか、フラれた記念日なのか、いずれにせよ後から刻んだ日付なんだろうね。」

飯田直子は頷きながら新しく運ばれてきた日本酒をぐい呑みに注ぎ、

そしてそれを一気に空けると俺の目を見つめた。

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「ふたつ目の話なんだけど。」

「どうぞ。」

「昨日の深夜、佳也子が私のところに来たのよ。」

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◇◇◇◇

飯田直子は、夜中にふと何かの気配を感じて目を覚ました。

身体を起こすと、部屋の隅に先ほど居酒屋で見たのと全く同じ格好で、佳也子がカーペットの上に正座していた。

彼女は恐怖を感じることなく、ベッドから抜け出すと佳也子の正面に同じように正座した。

「佳也子、久しぶりね。」

飯田直子がそう話しかけると、佳也子は口を動かすことなく彼女に語り掛けた。

「ナオコ・・・オネガイ・・・ガアルノ・・・」

飯田直子は黙って頷いた。

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ここまで話して飯島直子は何か言いにくそうに話を切ると、ぐい呑みを再び一気に煽った。

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「ナオコニ・・・

コウキサント、ケッコン、シテホシイノ・・・」

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「どういうことだ?」

なぜそうなるのか理解できない俺は飯田直子に問いかけた。

飯田直子に対し佳也子は語った。

自殺する時に俺の事をひたすら考えていたと。

優しい弘樹さんと結婚できていればこんなことにはならなかったのにと、涙を流しながら首にロープを掛けた。

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そして意識が遠ざかったあと、気がつくとどこだかわからない場所を延々と彷徨っていた。

ふと夜道を歩く俺を見つけた。

そして自分ではそうするつもりはないのに、いつのまにか俺に取り憑くようになってしまったと佳也子は言った。

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「コウキサンガ、ダレカト、ケッコンシタラ・・・

ワタシハ、キット、ソノオンナヲ、フコウニシテシマウ・・・

ソンナコト・・・

シタクナイノニ・・・・」

そんな、勘弁してくれ、と俺は思った。

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「デモ、ダイスキナ、ナオコナラ、

ソンナコトヲ、シナクテスム・・・

ダカラ、ケッコンシテホシイノ・・・

コウキサンニハ・・・

シアワセニナッテホシイ」

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◇◇◇◇

俺はぐい呑みをちびちびとやりながら飯田直子の話に耳を傾けていた。

「原口も無茶を言いますね。

でも俺が誰かと結婚して、それでもし不幸な目に遭ったとしても、

直子さんには何の責任も影響もない。

直子さんだって自分で結婚相手を選ぶ権利があるはずでしょう?

原口にお願いされて決めるべきことじゃないですよね。」

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俺に幸せになって欲しいという原口の気持ちはありがたいが、自分の思いだけでまだ会って三日しか経っていない相手と結婚しろなんて我儘にもほどがある。

それが幽霊なのだと言ってしまえばそれまでだが。

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「でもね、佳也子は・・・私も今付き合っている人と結婚すると不幸になるって言うのよ。」

「不幸?」

「そう、私も佳也子と同じ目に遭うって。」

幽霊になると未来が予見できるのかどうかは知らないが、そう言い切られてしまうと聞き捨てならないだろう。

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「直子さんの彼氏ってそんな人なの?」

「これまでは特に直接的に暴力を振るわれたことはないんだけれど、でも結構短気なのよね。

佳也子にそう言われるともの凄く不安になるわ。岡谷さんは付き合っている人はいないの?」

「いない。」

ここからどのように会話をつなげていいか解らず、しばらくふたりで黙ってしまった。

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しかし原口の言っていることはどう考えても無茶だ。

「残念ですけど、ここまでにしましょう。

直子さんは、この件は全て忘れて下さい。原口の事は僕自身で対処します。」

「何とか・・・なるんですか?」

「解かりません。でも何とかするしかないですよね。

どうにもならなければ、誰とも結婚せずに原口の幽霊と仲良く暮らしていけばいいのですから。」

「そんな・・・」

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「あ、誤解しないでくださいね。直子さんと結婚するのが嫌でこんなことを言っているんじゃないんですよ。

直子さんの事は初めて会った時からタイプだな、素敵だなって思っていたんですから。

だから当然決まったパートナーもいるだろうなって思っていました。」

その彼氏は原口から否定されているのだが。

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「それに何より不安なのは、

原口も自分で言っていたんでしょう?

自分ではそのつもりじゃないのに俺に取り憑いてしまっているって。

だとしたら、僕と直子さんが結婚すれば悪いことはしないと彼女が言っても、実際はどうなるか分かりません。

やめておいた方がいいですよ。僕と関わるのは。」

飯田直子は黙ってしまった。

何と返事をしていいのか解からないのだろう。

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客観的に見れば、電話番号を書いた紙があの財布に入っていただけで、俺がこの件に直接関係のない彼女を巻き込んだのだ。

原口によって彼女に降りかかるかもしれないリスクを敢えて冒させるわけにはいかない。

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◇◇◇◇

俺はテーブルの上に置いてある指輪をポケットに入れると立ち上がった。

「じゃあこれでお開きにしましょう。

直子さん、この三日間本当にありがとうございました。

助かりました。今日の分は僕に奢らせて下さい。」

そう言って伝票を取り上げるとレジへ向かった。

飯田直子は黙ったまま後をついてくる。

彼女は何を考えているのだろうか。

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店を出て駅に向かうが、俺はJR線、彼女は東武線になる。

取り敢えず東武線の改札まで送ると、俺はもう一度彼女に頭を下げた。

「それじゃ、ここで。もし直子さんが原口の忠告に従うのであれば、次は良い人に出会えるといいですね。

本当にいろいろどうもありがとう。それじゃ、さよなら。」

何かやりきれない気分でそう言うと、

飯田直子の返事を待たずに軽く手を振り、真っ直ぐJRの改札へ向かった。

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◇◇◇◇

まだそれほど遅い時間ではないが、電車は空いていた。

空いている席に座り、ポケットから指輪を取り出した。

俺は原口に対して何も悪いことはしていないと思う。

しかし、こんなことを考えても仕方がないのだが、

もしあの頃俺に彼女がいなくて、

もしあの日から原口と一緒に過ごしていたとすれば、

彼女が死ぬことはなかったのだろう。

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脳裏にあの最終公演の直後の舞台裏で、花束と一緒に俺に向かって真っ赤な顔で告白してきた原口の真剣な眼差しが浮かんだ。

(可愛かったな。)

指で指輪を弄んでいると、不思議に劇団にいた頃、

視界の隅にいた原口の姿が次々と思い出される。

思い出してみると原口が積極的に近寄ってきていたのだろう、意外に会話も交わしていた。

単に俺が意識していなかっただけだった。

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◇◇◇◇

新小岩の駅を出てマンションへ向かって歩く。

後ろから誰かがついてくる足音が聞こえた。

コツコツというヒールの音からすると女性だろう。

振り返ってみると、後ろを歩いていたのは原口だった。

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ロングヘアの白い顔ではなく、ショートカットの元気そうな原口だ。

首にロープの跡もない。

思わず俺は原口に向かって微笑んだ。

それを見て原口は俺の横にくると、黙ったまま並んで歩き始めた。

そして原口が手をつないできた。

それは煙のような存在ではなく、やや冷たいがしっかりした実感があった。

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マンションの前で顔を上げると、暗い闇の中で古びた建物が俺を見下ろし、大きくため息を吐いたような気がした。

横に立つ原口も同じようにマンションを見上げ、何故か微笑んでいる。

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結局これからもずっとこのマンションに住み続けることになりそうだ。

◇◇◇◇

おそらく死ぬまで。

◇◇◇◇

原口と一緒に。

◇◇◇◇

FIN

Concrete
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