長編40
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ある人にとっての一分間

右足、左足、右足、左足。自分の足が一歩ずつアスファルトを踏むたびに、肺が、心臓が、身体の奥底に押し込まれる。今の僕はただの単調な機械となって、ニンゲンの歓声を受けながら42.195キロのコースを踏み潰していく。大都会の真ん中を走っているということは、きっといろんな人に迷惑がかかっているのだろう。だからせめて歓声に答えるくらいして、周りに恩返しをしないといけない。それなのに僕は会釈すらできないくらい疲れ切っている。このように何かを考えることだけでも脳に酸素を使うから、走っている時は極力思考はクリアにしなければいけない。それなのに何か考えてしまう。やっぱり僕は、どうしてもロボットにはなりきれない。

僕は「気づいたら」という感覚を大切にしたいと思っている。気づいたらもうゴールにたどり着いていた、というのは、なんだか一心不乱に目標へ向かう様子を表しているみたいでかっこいい。でも、本当はそんな前向きなことではなく、無意識に何かをしている間は苦痛も感じずに済むからそう考えていたいだけ。ようは過程を吹っ飛ばして結果だけ求める僕の後ろ向きな本音。体はひたすら前に進んでいるのに、心が追いついていない。僕は本当に勝ちたいのかと自問自答する。心はそれに答えない。でも体は動き続けている。ああ苦しい。心はそう思っていても体は知らんふりする。ああ苦しい。

ああ苦しい。そうやってまた考えてしまう。僕はどうしてもロボットになりきれない。それなのに足は止まらない。マシンみたいな筋肉のふくらはぎが、一人分僕の後ろに消えていく。僕は今何番目なのだろう。いや、もうこれ以上考えるな。右足を踏み出す。左足を踏み出す。考えるな。右足、左足、考えるなの繰り返し。長く苦しい1分間が過ぎていく。それでも僕の足は動き続ける。僕の心が動かし続ける。ああ早くゴールしたい。誰よりも速くゴールしたい。ボードに書かれた先頭とのタイム差を確認する。どうしても縮めたい1分間のために、僕はひたすらにゴールを目指す。

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朝の主婦はいつも異次元に飛ばされる。夫を見送り子供たちを見送り、気づけばもう7時59分。「8時でいいじゃん」と大雑把な人は言うかもしれないけど、朝の1分間は夜の同じ時間よりも倍以上の重みをもっている。まるで朝だけ砂時計の砂が、きらきらの金粉になったみたい。だから私は隙間時間の1分間だって無駄にしない。トーストを食べながら、洗濯機が鳴ったのを聞いて洗面所へと駆け出す。途中、台所の角に小指をぶつけて咥えていた食パンを落としそうになる。曲がり角の運命の出会いなんて嘘なんだ。そういえば、今やってる朝ドラでこんなシーンがあったっけ?

残りのパンを口に含み、どうしても朝洗っておきたかった汚れたエプロンを急いでハンガーにかける。こんなにも動いて、朝食は食パン一枚で、それなのにどうして太ってしまうのだろう。洗面所の鏡に映った顔を見て落胆する。きっと浮腫んでいるだけなんだと、水で縮んだエプロンの皺を伸ばしながら自分を慰める。今日は雨だから室内で乾燥させようか。浴室の水溜りのせいで靴下が濡れる。ハンガーを浴槽の上にかけながら、ふと象とネズミについて思いを巡らす。象とネズミは時間の感じ方が違うらしく、それには体の大きさが関係するらしい。

たしか象はネズミの18倍、時間がゆっくりと進むと記憶している。それならば今よりも18倍太ってやろうかと私は投げやりな思考になる。ちなみに今より18倍太ったとしたら体重はいくつになるだろう。買い物の時には遺憾無く発揮されるそろばんが今では全くの無力で、そもそも最近体重計に乗っていないことに気づく。ああ、こんな無駄なこと考えている暇はない。もうすぐ8時になるだろう。でも、1分間で朝食と洗濯の、どっちも済ませるなんて凄くない?

リビングに戻ると朝の占いが最下位を発表するところだった。いて座のあなた!という声に、がっくりと肩を落とす私に残された救いの手。

ラッキーアイテムは「食パン」。それを見て私は、くすりと笑う。

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海難救助隊になってからもう一年が経つ。環境や生活は一変し、身体も訓練生の時より引き締まった気がする。しかし、何がいちばん変わったかといえば、カップ麺の食べ方だろうか。俺はそう思いながら目の前のカップを覗き込んだ。タイマーの数字が残り1分を切ると、俺の腹は別個の生物のように意識とは関係なく鳴り響いた。今日は特に訓練がきつかった。とはいえ、いつ出動がかかるかわからないから気を抜いてはならない。俺は残りわずかな待ち時間を使って、デスクの上で雑になっていた書類をまとめた。救助隊とはいえデスクワークもあることは、実際になってみないと分からないことだった。

以前の俺はカップに湯を入れた後、指定された時間を守って食べていた。少し硬めの麺が好きとか伸びた方がいいとかの好みもなく、元来几帳面な性格の俺は何事もきっちり守らないと気が済まなかった。しかし今では、3分待つところを2分の時点で食べている。食える時に食っておけという先輩の教えが、救助隊の一員になってからは嫌というほど身に染みた。いつ出動がかかるかわからないから、何事もできるだけ早く済ませる習慣がついた。そのおかげで、案外、硬めの麺も美味しいということに気づいた。

今では毎日が新しい発見の連続だ。俺は、海難救助隊になれてよかったと思っている。さあ、あと残り10秒だ。午後からの仕事も頑張るぞと気合いを入れ直した矢先、棟全体に響き渡るサイレンの音を聞いた。それは、出動の合図だった。せっかくカップ麺が出来上がったのに。もちろん俺は出動の準備に取り掛かる。今日は1分待った時点で食うべきだったなと着替えながら頭の片隅で思う。明日は挑戦してみようか。きっとそれもまた、美味しいに違いないだろう。

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恋人を待つ時間ほど、楽しくて寂しい時間はない。屋内で待っていて、と彼から連絡があったから、私は近くの喫茶店に入ってメニュー表を見るふりをしていた。きっと雨が降ってきたことを心配してくれたのだろう。私は彼の優しさに思わずありがとうと呟いてしまう。そう、彼は優しいのだ。たとえ外では雨が降っていても私の気分は晴れ渡っていて、真っ青な空にひとつだけちぎれ雲が浮いているような、そんな情景が今の私の心の景色。早くこのだだっ広い空を、雲のような柔らかい感情で満たしてほしい。澄み渡るだけの空よりも、入道雲がもくもくと膨らむ夏の空の方が私は好きだ。

恋人を待つ時間ほど楽しくて寂しい時間はない。ついさっきまでは、そう思っていたはずだった。今は全然楽しくない、ただひたすらに寂しいだけの時間。私はメニュー表の代わりにスマホを持って、さっきから何度も確認している彼から届いたメッセージを指でなぞる。仕事で行けなくなった、ごめん。たったこれだけで、私の空では、世界中のどこよりも土砂降りの雨が降る。私はおそらく1分ごとに同じ文章を読んで、その度に同じ量だけ雨を降らせている。降水量は一時間の雨の量で測るみたいだけど、今の私には1分間でも長すぎる。

入道雲は雨のサインだってどこかで聞いたことがある。大きな雲は上昇気流によってできるってことも。きっと、私は浮かれ過ぎていたんだ。彼にとって大切なものは沢山あるはずで、私のことがいちばん大事なんて、肥大した彼に対する妄想に過ぎない。13:31。待ち合わせの時間は、ついに過ぎてしまった。それでも、仕事を抜け出したと言って雨の中を彼が走ってくるのを、私は諦め切れないでいる。ねえ、もしまだ私のことが好きなら、今すぐ本当の優しさを教えて。もう私に、これ以上、ごめんなさいを呟かせないで。

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十八歳の時から工場作業員として働き始めてもう五年が経つ。これをベテランといっていいのかわからない。5年とか23歳とか数字の問題ではなく、つまりこれは職種の問題だ。世間一般的に誰でもできると謳われている仕事に、ベテランなんて言葉は似合わない気がする。工場における僕の役割は製造部がつくった部品の点検をすることだ。一日何万個も生み出される部品はどうやら自動車に使うらしい。他工場に部品を供給する前に、不良品がないか確かめるのだが、その役割を担うのは別に僕でなくてもいい。

僕は日本の人口1億24××万人のうちの一人でしかない。代替品はいくらでもある。でも、一台の自動車につきその部品の役割を果たすのはその部品しかない。だから僕は二千個に一個あるかわからない不良品を血眼になって探しているわけだし、自分の仕事も、そのようであって欲しいと思っている。と、こんなことを考えているうちに一箱分の点検が終わっていた。今日七個目の新しい箱を準備する。まだ昼休憩にもなっていない。今日はいいぞ、順調なペースだ。五年目にもなると一日の適切なペース配分がわかってくる。点検作業だって勝手に手が動いてやっているようなものだ。

簡単な仕事ほど難しいと僕は思う。誰でもできることほど誰もやろうとしないから、それをやり続けることは凄いことだとは思う。でも、それは決して誇りにはならない。ベテランなんて言葉が恥ずかしく感じるような仕事に、僕の人生は支配され始めている。23分の5が28分の10になった時、工場で過ごした時間の割合はより大きくなる。このまま三十六歳まで働き続けると、これまでの人生の半分が工場に奪われたことになる。嫌なら辞めればいいじゃないか。そう考えながらも僕の手は毎分三十個のペースで部品を点検し続ける。時給960円、分給16円。これが僕の人生の値段。

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部品、部品、部品、部品。どれも同じに見える部品をひたすら手に取り、その表面に傷はないか、形は歪でないかを確認していく。せめていろんな種類の部品があればこの退屈は少しは紛れるだろう。あるいは、周りの景色が刻々と変わっていけばもっと作業は捗るだろう。ただ同じ場所で、同じ部品を見続けるという苦行。四十歳も間近にして、俺は何をやっているのだろう。「原田さん、ペースはや過ぎですよ」隣で作業している男の声にはっとする。俺より年下の彼はもう五年もこの工場に勤めているという。だからこの工場においては彼の方が先輩で、何かと彼から指示を受けることがある。

「もっと丁寧にやってください」しかし彼の声は俺の耳に届かない。ペースはや過ぎ。手を動かしながら、さっき言われた言葉を反芻する。彼は俺が昔マラソン選手だったことを覚えているのだろうか。たしか最初の自己紹介で言ったはずだ。しかし、誰も俺のことを知らなくても文句なんて言えない。何の成績も残せなかったただの無名ランナーに過ぎないから。あの時、ペース配分を見誤ってさえいなければ。もう何年も繰り返してきた後悔が再び蘇る。こんな時、引退後の食い扶持を稼ぐために工場勤務を選んだことは間違いだと気づかされる。単調な作業は人に無駄な思考時間を与える。だから俺はぐだぐだと昔のことを考えてしまう。

数年前に行われた国内代表選手を決める大事な選考レース。俺はそのレースで一時はトップを独走していた。しかし、前半に飛ばして走った疲れが後半に足を動かなくさせた。そして一閃、一人の男にじわじわと追いつかれ、あっという間に追い越された。その後俺の順位はずるずると落ち、結局代表に選ばれることはなかった。それからの俺は、いつまでもあの日のレースを走り続けていた。足を踏み出すたびに、心臓が破けそうになり肺が悲鳴をあげていたあの時よりも、今の方が息苦しいのはなぜだろう。一分一秒が苦痛となってのしかかるのは今も昔も変わらず、でもたしかにあの時の俺は、今の俺とは違って、輝いていた。

あの頃の血のたぎりを、今では思い出せなくなっていた。血液はおよそ1分間で全身をひと回りするという。しかし体のどこを探しても、以前の俺の面影は見つからない。俺の体を巡る血は、もう以前の赤色ではない。

まるで無機質なロボットのように、俺は黙々と作業を続ける。声を無視され続けた隣の男は、いつのまにか、どこかに消えていた。

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何かを書いている時、がむしゃらに走り続けていたあの頃の自分を思い出す。書くことと走ることはとても似ている。原稿用紙に文字という足跡をつけ、話の終着に向かってひたすらにペンを動かす作業は、苦しいけれど楽しくもある。走るという単純な行為は、単純だからこそ純粋に自分の強さを測る物差しになる。僕は走ることが好きだった。たとえプロになろうがなるまいが、体が動く限り走り続けたいと思っていた。しかし、国の代表としてレースに参加させてもらい世界の壁の高さを知った。レースの結果は散々だった。僕はそのまま選手を引退した。世界大会の話題には誰も触れず、ただ代表選考レースの逆転劇だけが、いつまでも伝説のように語り継がれた。

僕は、新しい道を走らなければならないと思った。過去の栄光と挫折のどちらも清算したかった。そして僕が選んだのは作家という茨の道だった。しかし、今では書くこと自体に楽しさを覚えている。書くことも走ることも、楽しいという根っこの部分は同じだ。ただ小説はマラソンと違って、自分でコースを決めなければいけない。その違いも魅力的に感じ、僕は小説が大好きになった。できるだけ考えないようにしていたあの頃とは違い、四六時中悩み続ける毎日を過ごしていた。そしてある日、これまでにないアイデアが突如彼方から走り寄ってきた。

時間の感じ方は人によって違う。たとえ同じ時間でも、場面や人によってさまざまな形に変える。それならば僕は、誰かにとっての一分間を、1分間で読める短編の形で書こう。読者は自分の1分間で、他人のそれを追体験する。そんな作品を書きたいと思った。思う前に、すでにペンは走り出していた。いつだって思考は行為の前を走っているが、行為が思考を追い抜くこともある。僕はそんな逆転劇を知っている。そして、行為と思考がデッドヒートするレースほど面白い物語が生まれる。僕はあいつに感謝していた。代表選考レースの伝説は僕だけのものではなく、二人で作り上げたものだと思っていた。

今頃あいつはどうしているだろう。そう思った矢先、話題の彼はどこから入ってきたのか突然目の前に姿を現した。紛れもなく、かつて同じゴールを共に目指した原田という男だった。しかし、彼の手には刃物が握られていた。僕は説得を試みたが、彼は聞く耳をもたず、僕の背中を何度も刺した。生々しい鮮血が辺りに飛び散った。僕はこれまででいちばん苦しい1分間を過ごした。その1分間を作品にできないことが悔しかった。彼はこちらをじっと見ていた。僕もまた彼の顔を睨み返そうとしたが、いつのまにか僕は死んでいた。気づいたら、もう、死んでいた。

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ついに、やってしまった。一時の気の迷いと言えば嘘になる。俺はあの時から、遠ざかる彼の背中を殺したいと思っていた。彼さえいなければ、ボロ工場で年下の上司に愛想を尽かされる未来なんて有り得なかった。だから俺はやっと追いついたその背中を機械的に何度も刺した。かつての盟友の哀願も聞かずに、書斎と呼べる部屋の床が赤く染まるまで繰り返し刃物を動かす。どうして俺を負かした奴が狭い部屋にこもって小説なんか書いてるんだよ!あの時のお前はどこに行った?自分のことを棚に上げて彼のことばかりを非難する。俺はマラソンを辞めて輝きを失ったのに、お前はどうして今もなお輝いて見えるのか。

俺とお前の何が違うのか。工場で散々考えてきたはずの問題はいまだに答えが見つかっていない。ただ部品を触っていた時間分の給料しか俺は手に入れてこなかった。俺はゴールを見失っていた。彼に追いついた場所がゴールではなくスタートであることを知った。人を殺した。犯罪者になった。いや、俺は犯罪者になることを承知でこの部屋に入ったはずだった。時間をかけてゆっくりと侵入するか、それとも特攻隊のように突入するか。俺は散々悩んだ末に後者を選択した。そして鍵のかかっていない玄関から堂々と入った俺の足音に気づかないほど、彼は原稿に集中していた。彼が輝いて見える理由なんて最初からわかっていた。俺も、何かに夢中になりたかった。

無計画ともいえる俺の殺人計画は成功した。だから今すべきことは一刻も早くこの場から立ち去ることだ。それでも、俺はまだ何かを探している。探しているのに何を求めているのかわからない。夢中になるということが、どういうことなのかわからない。あの頃の俺は走るのに夢中だったはずだ。誰よりも速く走りたいと思っていたはずだ。ああ、そうか。俺が今探しているのは、自分の手で殺したその背中なんだ。レースが終わってからも二十四時間三百六十五日頭の中で追いかけ続けたその背中に俺は夢中だった。そして本当はいつまでも彼に走り続けていて欲しかった。だから、選手を辞めて作家になるなんて、俺は絶対に許せなかった。

俺は、馬鹿だな。後ろも振り返らず死ぬ気で走ってやっとの思いでつくった1分のマージン。それがあっという間にひっくり返された時、1分間はなんて短いのだと思った。今の俺はそんなちっぽけな1分間のためにこの先長い人生を棒に振った。そして、いちばん大切な夢を失った。彼が動かなくなってから1分間が経つ。もしかしたら不審な騒ぎを聞いた誰かが警察に通報しているかもしれない。一刻も早く逃げなければならない。それでも俺は彼のために、もう1分間だけここにいようと思った。

ゆっくりと目をつむり手を合わせ、俺は静かに黙祷を捧げる。

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(1分間の空白)

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俺はゆっくりと目を開けた。

彼はもう、目を覚まさなかった。

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「……続いてのニュースです。昨日未明、M県Y市内の自宅マンションで元マラソン五輪代表の永井正樹氏が、背中から血を流して倒れているところを、隣人の通報により駆けつけた警察官によって発見されました。永井氏はその後病院に運ばれましたが、まもなく死亡が確認されました。遺体の背中には刃物のような鋭利なもので刺された傷跡が複数あることから、警察は他殺と断定し捜査を進めています。永井氏はかつてマラソン……」物騒な世の中になったものだ。トースト片手にそのニュースを見ていた私は、思わずため息をついた。永井正樹って、あの伝説の六人抜きをした人だよね?今は何してるのか知らなかったけど、殺されたなんて可哀想に。

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それよりも、もうすぐ占いが始まっちゃう。私は慌ててリモコンを手に取り、いつものチャンネルに切り替えた。

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「……続いてのニュースです。M県Y市内の自宅マンションで元マラソン五輪代表の永井正樹氏が何者かに背中を刺されて殺害された事件で、県警は11日、事件に関与した疑いがあるとして元マラソン選手の原田良太容疑者を強盗殺人容疑で逮捕しました。原田容疑者は容疑を認め、「あの日のレースのことを根に持っていた。俺が馬鹿だった」などと供述している。また、警察の取り調べに対し原田容疑者は、凶器であるナイフを海に捨てたと供述しており、これにより県警は海難救助隊を動員し、犯行現場に近いM県Y市の海で捜索を行う予定です」……というわけで、今回は警察の捜索に協力する形で出動することになった。

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「非番のところを呼び出して悪いが、三班の隊員たちには一日かかりで凶器の回収に尽力してもらう」隊の指揮を取る基地長の声は勇ましい。俺は周りの声に重ねつつ、誰よりも大きな声ではいと返事をする。救助隊というからには人命救助だけが仕事だと思っていたが、そうではないらしい。これもまた新しい発見だ。気合を入れ直して1分間で出動の準備を整える。ただの宝探しのような任務が楽しみで仕方がない。俺はやっぱり、仕事が大好きだ。

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朝早く起きて電車に揺られて会社に行って怒鳴られてまた電車に乗って家に帰って風呂に入って寝るだけの日々。上司の怒鳴り声は大きな足となって毎日僕を踏み潰す。赤の他人にどれほど人の人生を踏みにじる権利があるのかなんてそんな言い訳ばかり思い浮かぶ僕はとっくに気づいている。この人生を選んだのは僕自身だ。だから今日も自分の意思で上司に怒鳴られるために電車の長椅子に座っている。「ごめんなさい」そんな僕に突然謝る女の声。理由はわかっている。俯き加減に座っていた僕の頭には何かをぶつけられた感触が残っていた。僕はそのくらいでは怒らない。

いいですよと言いながら顔を上げると、母親に抱かれた赤ん坊と目が合う。真っ白で短い足をぶらぶらしながら僕の方を見てにこにこ笑ってる。ああ、僕はこの子に"踏まれ"たんだ。人の頭に靴をぶつけて、母親の申し訳なさそうな顔色も知らずに、それでもこの子は笑っている。「ごめんなさい」ともう一度母親が謝る。いいですよと今度は笑って答える。最近自分が笑っていないことに気づく。目の前に自分よりも椅子に座るべき人がいたことにも。「座ってください」僕は席を立って断る母親をなんとか座らせる。決して人のために何かをしようとしたかったのではない。

ただ自分の顔を見られたくなかった。どうしようもなく涙が溢れて止まらない。本当に、どうしてかわからない。「座ってください」別の車両に移ろうと歩き出した僕の後ろから僕が言ったのと同じセリフが聞こえる。振り向くと、母親が膝に乗った赤ん坊と同じ顔で手招きしている。「隣、ちょうど空いたので」そう言われて彼女の隣の席を見ると椅子の上で伸びた足の小さな靴が乗っている。「あら、ごめんなさい」彼女は恥ずかしそうに可愛い足を優しく閉じる。僕は笑う。彼女も赤ん坊も笑う。まるで本当の家族のように三人で笑い続けた。これが、波瑠との馴れ初めだった。(ドラマ「赤に踏まれる」第一話あらすじ)

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……その時、警告音とともに速報のテロップが画面の上に表示される。

「速報 M県警A署にて勾留中だった原田良太被告(39)が逃走。面会中に仕切り壊して現在も逃走中」

ああうざい。以前から楽しみにしていたドラマをテロップで邪魔されることも、一緒に見ようって約束したのに仕事に彼を横取りされたことも。何もかもが私の敵で、あの時から降り続けた雨は少しずつ私の心を穿つ。

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もう二週間も彼に会えていない。どうして命を救う人たちが、命を殺した凶器を探さないといけないのだろう。殺した犯人も、殺された被害者も、みんな消えてなくなればいい。私の世界を晴らすためのてるてる坊主をニュースで見た男の顔で作りあげる。ぽっかり穴の空いた胸の前で手を合わせて私は神様にお願いする。原田良太を死なせてください。大好きな恋人に早く会わせてください。

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「……続いてのニュースです。昨日午後三時ごろ、強盗殺人罪の容疑で逮捕されM県警A署で勾留中だった原田良太被告が、面会中にアクリル板の仕切りを壊して逃走しました」……テレビの音をかき消すように休憩室にどよめきが広がる。僕は誰かと驚きを共有したかったが、この工場内で話し相手なんてもう数年もいなかった。原田良太。この前まで隣で作業していた男が、今では人を殺した挙句脱走犯として指名手配されている。たしか元マラソン選手だと自己紹介の時に言っていたっけ? 道理で、逃げ足が速いわけだ。

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なんて、悠長に言ってられない。彼のことを気にかけていた工場長のことを思うと笑えない。面会中に逃げ出したらしいが、その相手は工場長だったという。人の好意を踏みにじるなんて許せない。結局この仕事をやるのはそういう人が多いのかな。休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。僕の気分は沈んだまま。作業場に戻る足取りは重い。

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久しぶりの外の空気は少し冷たく、ランニングシューズが地面を蹴る音は思っていたよりも低音で鈍い。たとえ同じ1分間でも、あの頃と比べて走ることのできる距離は明らかに短くなっている。それでも、走っている時の楽しいという感情は変わらない。俺は昔から走ることが好きだったんだ。毎日顔を合わせてる工場の人たちすら俺が選手だったことを覚えてなかったのに、今ではある意味日本で一番注目されるランナーとなった俺。自分は悪役になることでしか目立てないのかと呆れてしまう。でも、どうせまたすぐに忘れられてしまうのだろう。人の噂も七十五日。じゃあせめて三ヶ月は逃げ切ってみようか?

三ヶ月といえば、先週から始まった新しいドラマがちょうど最終回を迎える頃だろうか。俺は柄にもなくドラマを見るのが好きだった。画面の中でいろんな人間の人生が混ざり合う虚構は、どの現実よりも現実っぽかった。単調な工場生活のささやかな癒しは、今では手に届かない夢でしかない。あのドラマを見るの楽しみにしてたのにな。それでも俺は足を止めない。もう二度とペース配分でミスなんてしないよ。今回のマラソンはコースもゴールも、自分で決められるのだから。

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「これからだって時に二人とも現役を引退して、しかしあの時はこんなことになるとは思わなかったね」専門家気取りのコメンテーターが誰でも言えることを朝のニュース番組で言っている。ここ最近のニュースは永井正樹と原田良太の話題で持ちきりだ。でも、こんなに注目されなければいけないことなのかなと思う。そんなことより、急がなくちゃ。今日は占いを見る時間もない。今週は忙しいからいつもより三十分早く出勤してと言われていたのにすっかり忘れていた。遅刻確定だから朝ごはんも食べれず。あーあ、また痩せてしまう。占いの結果がどうであろうと、今日はきっとついてない。

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電車で二人と出会ったあの日から時計の針はペダルを踏んだ自転車のタイヤみたいに回転し、平坦も坂道も乗り越えて波瑠と春を迎えるのも今年で五度目になる。波瑠の娘、千夏は幼稚園に入園したばかりで、時が経つのは本当に早いと感じる。彼女に父親はいない。千夏が産まれてすぐに波瑠と元夫は離婚したという。だから僕は千夏の本当の父親になったように感じ、入園式だけでなくこれからいろいろな式に出られることを密かに楽しみにしている。波瑠の話によると、離婚した元夫は働かない人だったらしい。「あなたは違うわ」と波瑠は僕が何か言うよりも先に言葉を投げる。僕はブラックだった最初の会社を辞めてそれからは職を転々としていた。

どこに勤めても長続きしない。波瑠の部屋に住まわせてもらっている以上毎月まとまったお金を入れようと思っても、自分の分の生活費すら稼げなかった月だって一度や二度ではない。そんな自分に焦りを感じる一方、まったく働こうとしなかった男に比べれば自分はまだマシだと考えて惨めな気持ちになる。部屋の中でかつて別の男が住んでいたという証拠を見つけては苛立っている自分に腹が立つ。僕は自分に自信を持てないでいる。でもそれに気づかないフリをしながら、千夏の成長のほとんどを自分が見届けているという喜びを噛み締める。それだけが僕の生き甲斐で、いつしか自分の子どもも欲しいと思い始める。

それならもっと稼がないといけない。しかし忙しくなるのは波瑠ばかりで、僕はせめて二人を誰よりも好きでいようと思う。お金では買えない何かを二人に与えたいなんて言い訳して、仕事よりも難しい何かをしている気持ちで毎日を過ごしている。このままずっといられたらいいのにと思う。波瑠と千夏と過ごす時間が僕のすべてだ。それ以上は何もいらない。時計の針が進む一分間が惜しい。時計の針が進む一分間が愛おしい。(ドラマ「赤に踏まれる」第二話あらすじ)

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彼女に勧められて初めて恋愛ドラマを見てみた。俺は彼女が好きだけど、主人公のような感覚にはなったことがない。そんなこと言ったら怒るだろうな。でも、共感できるセリフもありました。時計の針が進む一分間が愛おしい。こんな気持ちになるなんて、たぶんバチが当たったんだ。「今度は一緒にドラマ見ようね」そう言ってくれた彼女の優しさが今では俺の心を削っていく。俺の心はいつだって海にあった。でもその海は今自分を飲み込もうとしている。荒れ狂う水面に手を伸ばしながら彼女の存在は空だったのだと気づく。いつも自分を優しく見てくれていた、大きな大きな空だったのだと知る。気づいた時には手遅れだった。俺はスマホを手に取った。

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時を同じくして、私もまた同じドラマを見ていた。

そのドラマの途中、「速報 逃走中の原田被告のものとみられる遺体発見。M県I山で首吊り」警告音とともにテロップが現れる。驚いた。私の想いが通じたのかな。偶然を偶然と思えずに自然と頬が緩んでしまう。こんなどうでもいいことに運を使いたくなかった。私の気持ち、どうして彼には伝わらないのだろう。でも、私は神様を信じてる。彼を信じてる。その時、着信音が突然鳴る。スマホを見ると彼から「来週は一緒に見よう」っていう返信。やっぱり神様っているんだね。偶然が続くと少し怖い。どうか悪いことが起こらないといいけど。……なんて、私は少しも思ってないよ。

それにしても、首吊りだって。てるてる坊主が本当にできちゃったってことか。ああ、私って不謹慎。でも、怪談自体がそもそも不謹慎だよね。私が悪いなら、この世界にはどれだけ悪人がいるのかっていう話。ただの偶然を理解するためにもっともらしい意味を持たせる。それが怪談っていうものなら、不謹慎なんていちいち言ってられない。人の不幸もドラマみたいに楽しんじゃえばいい。来週の今日が、とても楽しみだ。

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時計の針を自転車のタイヤに例えたところでその自転車からは降りられないわけで、それならせめてペダルをゆっくり踏もうと思ってもそこが下り坂ならどうしようもない。僕と波瑠の関係もまた長い下り坂にあって、うまくいかない時は楽しい時以上に時間が早く過ぎ去っていくように感じる。まるで使い捨てのカイロみたいに僕は時間を捨てていく。幾多もの春を彼女の隣で迎え、春と同じ数だけ冬を乗り越えてきたけど、今年の冬の寒さは物事にはいつかは終わりが来るということを嫌でも僕に教えてくれた。

波瑠が死んだ。僕が、波瑠を殺した。彼女が僕のことを好きじゃないと言うから。経済的にもそれ以外のことでも弱者の僕をそれでも部屋に住まわせくれたのは、赤ん坊の千夏が初めて屈託なく笑いかけた男の人が僕だったから。波瑠は父親のいない千夏のために好きでもない僕と同棲し、セックスをし、僕は波瑠の気も知らずに千夏の本当の父親でいたいなんて思っていても外でお金を稼いでくるのはいつも波瑠で、千夏も心の奥底では僕のことを父親だとは認めてなくて、自分がこの家には相応しくない存在だということがある日突然露呈すると僕はまるで居場所を守るみたいに千夏が中学校に行っている間に波瑠を殺した。

そう、僕は波瑠を殺した。彼女が、僕に殺して欲しいと言うから。中学生になったばかりの千夏が電車で痴漢にあったという話を聞いた波瑠はある時僕に打ち明けた。僕たちが初めて出会った電車で波瑠もまた痴漢にあっていたこと。そして、自分がその恐怖から逃れるために千夏を利用してしまったこと。彼女は助けを求めるためにわざと千夏の足を僕の頭にぶつけて、そのことを今日までずっと後悔していた。波瑠が自分を責めて泣いているのを見て、その瞬間僕はこの部屋に自分の居場所なんてないと思った。自分が男であることに嫌気がさした。誠実に頑張って生きている人が平気で踏みにじられる世の中を壊したいと思った。

そして自分もまたそのような男の一人であることを知って気が狂いそうになった。波瑠は過去の罪悪感を思い出してすでに気が狂っていた。殺してと言われたからその通りに殺した僕もまたとうに正気を失っていた。苦しまないように世界一優しい刃物で波瑠を殺した僕はその後自分も死ぬつもりだった。自分に向けられた刃物は死ぬ気も失せるほどの恐怖感を与えるただの鋭いものでしかなかった。僕は結局死ねなかった。ただ人を殺しただけになった。学校から帰ってきた千夏に人殺しと呼ばれた。お父さんと呼ばれたことなんて、ただの一度もないことに気づいた。

僕は波瑠のことが好きだったから殺した。波瑠も自分のことを好きなのだと信じたかった。でも、この時の僕はまだ知らなかった。幽霊となった波瑠の見えない足に、踏まれ続ける未来の日常を。波瑠は僕のことを好きではなかったという、覆しようのない真実を。(ドラマ「赤に踏まれる」第三話あらすじ)

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今日の休憩室の雰囲気は少し異様だ。工場の検査課は僕を含めて十人で構成されているが、僕以外の九人はみんな四十歳を超えた女性だ。彼女らは普段から徒党を組んで四人と五人に分かれて行動している。でも今日は五人のところから一人溢れていた。名前は忘れたけど、今朝遅刻してきたパートの女性だ。遅刻を責める心意気は悪くないが、たかが遅刻しただけで仲間外れにしてしまう人間の恐ろしさよ。恐ろしいのはそれだけではない。彼女たちは原田良太の訃報のニュースを話題に散々盛り上がった挙句、辛気臭いからとチャンネルを変えて今では何事もなかったかのように昼ドラに夢中になっている。

たとえ空想世界の惨劇を見て涙を流せても、現実の人の死には誰も本気で目を向けない。工場なんてこんな奴らばっかりだ。そんなところに五年もいる僕もまた非情な人間なのだろう。そう思うと無性に泣きたくなってくる。情けない感情を誤魔化すようにくしゃくしゃの退職届を作業服のポケットから取り出し誰にもバレないように握りしめた。何年間も渡せないでいるそれは作業服と同じ色に薄汚れている。ふと誰かの視線を感じて顔を上げると、仲間外れにされている例の女と目が合った。僕はわけもなく恥ずかしくなって、ゴミのように丸めたそれを、再びポケットの奥に押し込んだ。

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仕事に初めて遅刻したあの日から、周りの私に対する態度は見るからに素っ気なくなった。たしかに遅刻したことは簡単に許されるべきことではないと思う。ましてや部品の出荷が先週の二倍もある特別に忙しい週の初日に遅刻したのだから誰だって怒りたくなるのも十分理解できる。それでも、どうして原田良太よりも?って思う自分はおかしいのかな。そもそもあいつが工場を辞めなかったら一人一人の仕事は少なかったわけだし、なによりも、人を殺してるんだよ?人殺しの話は笑いながらできて、遅刻の話の時はどうしてあんなに真剣な顔になるのか。思い出したら、笑えてきた。こんなの、真剣になる方がおかしいよ。

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初めて恋愛ドラマを見たあの日から、俺は彼女のことをずっと考えていた。俺は約束通り、彼女の家であのドラマの続きを一緒に見た。内容はほとんど覚えてない。その日はどうしても伝えたいことがあったから。でも、俺に身体を預けて時々喋りながらテレビに向かい合っている彼女を見ると、どうしても別れようなんて言い出せない。言えるわけない。最近は仕事も手につかない。頭の中は彼女のことばっかりで、これはおそらくまだ彼女のことが好きということなのだろう。それでも俺は彼女と別れたかった。ドラマは先週の内容とは一転、愛がゆえに殺してしまったなんて俺には到底理解できない展開になっている。

その部分だけは覚えている。でも、自分も似たようなものなのかと思う。俺もまた、好きだから彼女と別れようとしている。もっとも俺の口からはドラマみたいにセリフがすらすら出てくるわけもなく、ただ別れたいと思っているだけの嫌な奴。嫌な奴というのが俺の配役なら、最後まで全うするしかないと腹をくくる。そんなことを考えているうちにいつのまにかドラマは終わっていた。

テレビは消された。俺は声をかけた。こちらを振り向いた彼女が主人公。そんな新しいドラマが、静寂の中で始まろうとしている。

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神様を信じ始めたあの日から、私はますます彼のことが好きになった。今日は待ちに待った家デートの日で、彼と一緒に見たドラマは予想外の展開でびっくり。でも実は、内容はほとんど覚えていない。私の背もたれは筋肉質でカッコよくて、時々自分の話に笑ってくれるからそっちにばかり気が向いてドラマになんか集中できない。私の彼は完璧だ。それでもひとつだけ不満があるとすれば、彼の胸からは心臓の音が全然聞こえないこと。きっと筋肉が分厚いから聞こえないだけで、ドキドキしてるのは私だけってことはないよね?一ヶ月ぶりに会えて部屋に二人きりで、それでもどきどきしないなんて、それは悲しいよ。

いつのまにかドラマは終わっていた。私はリモコンを手に取ってテレビを消した。ここからは自分たちだけの時間。彼は優しい声で私の名前を呼ぶ。

今この瞬間に神様は消滅した。私は神頼みなんてしないと誓う。これから始まるドラマにシナリオはいらない。私たちが役者兼作家のドラマが、静寂の中で始まろうとしている。

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退職届を握りしめたあの日から、僕は仕事が楽しくなった。いつでも辞めてしまえばいいという開き直り? いや違う。僕はその日の午後、工場長の推薦により検査課のチーフに任命されたのだ。まさか自分に特別な役割が与えられるとは思ってもいなかった。いつもの工場がこれまでとまったく違う景色に見える。単調な点検作業だってなんだか楽しい。ここまで辞めずに続けてきて本当によかった。たかが工場なんてもう思わない。僕がこの職場をみんなにとっていいものにしてやる。そんな大それたことも、今なら思っていい気がする。現に、僕を頼ってくれる人もいる。頼られるということがこんなにも嬉しいとは。自分を見つめる瞳の中で、僕の胸は大きく高鳴る。

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つまらない日常に一大事件が起きた。まさかこんな気持ちになるなんて。いつぶりかもわからない胸の高鳴りを目の前の相手に悟られないよう必死に隠す私は、やっぱり異次元にいるのかな。若かりし頃に抱いた青春なんて言葉が似合うこの感情を、タイムスリップさせて四十歳の体に宿した私はきっと世間的には許されないことをしようとしてる。きっかけは職場での悩みを年下の男の子に相談したこと。彼は最近私の属する課のチーフに選ばれて、それまではただの内気な人だと思っていたのに急にたくましく見えてしまった。だからなのか、優しく相談に乗ってくれる彼に夫にも抱いたことのない感情が湧きあがってくるのを私は抑えきれないでいる。

まるで昼ドラみたい、なんて、死んでも周りには言ってはいけない。彼もまた私に好意的だと思うのはいくらなんでも自意識過剰かな? 今はまだなんてことないけど、もし不倫なんかに発展したらきっと周りの女たちは遅刻した時以上に私を責め立てるのだろう。でも、あの人たちに私の人生を踏みにじる権利なんてないと思う。人の命を笑い話にできる人たちより、私の方がよっぽど健全だ。今では毎朝工場に行くのが楽しみでしょうがない。私の悩みはとっくに解決しているのに、彼と一緒にいたいから、今日も悩んでいるフリをする。夫にも彼にも、私の隠し事はまだバレていない。いつかバレてしまったらいいのに。そう思っている自分がいる。

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「俺、基地長に褒められたんだ」静寂を切り裂くには程遠い覇気のない声で、俺は彼女にそう囁く。「この前デートに行けなくなった日、殺人に使われた凶器が海に捨てられたっていうからそれを探しに出動してさ。それで、俺が一番に見つけたんだ。思いのほか早くその日の任務を終えられて、みんなにも喜んでもらえたよ」

俺はできるだけ棒読みにならないように言葉を繋げていく。

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「でさ、本当は午前中には仕事終わってたんだよね。本当は、デートできたんだ。それでも俺はなんだかめんどくさいって思ってさ。結局そのまま家に帰ったんだ」

自分を見ていたはずの彼女はいつのまにか前を向いていて、さっきまで俺に預けていた小さな体はまるで葬式の参列者のように背筋を伸ばしている。

「俺その時思ったんだけど、俺にとって仕事がいちばん大切で何よりも好きだからさ、

だからもうお前のことはいらないから、今日で俺と別れてくれない?」ああ、言ってしまった。もう後戻りできない。俺から言い出したのに、彼女に別れたくないと言って欲しい自分が死ぬほど情けない。でも、何年も同じ時間を過ごしてきたのに終わりは一瞬なんて虚しすぎる。「だから今日もドキドキしていなかったんだね」彼女はちらりとこっちを見て、それを最後に決して振り向いてはくれない。自分の心臓の音が少しずつ小さくなっていく。それは自分でもわかってる。それがわかるということはすごく辛いんだ。でも、特別な理由も伝えられず別れてなんて言われた彼女の方がもっと辛いよね?

本当は今でも、大好きなんだけどな。彼女が顔を手で覆いながら部屋を出ていく。ここは彼女の部屋だから自分はいつまでもここにいられない。でも、一度部屋から出てしまえばもう二度この場所には戻ってこれない。彼女が帰ってくる前に自分は消えないといけないのにそれでも足が動いてくれない。部屋の中を見回すと、泊めてもらうたびに自分が置いていった物ばかりが目に入る。もし俺がただの空き巣ならこんなつまらない部屋すぐにでも立ち去るのに。こんなにも楽しいで溢れていた部屋、できることなら、すべて自分のものにしたかった。

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私は走った。ゴールなんてわからない。きっといつかはあの部屋に戻るんだけど、ゆっくりとできるだけ遠回りして帰るつもり。いっそ途中で力尽きて倒れてしまえばいいとも思う。でも今の私は走っているのに全然疲れなくて、頭の中ではなぜかこれまでの思い出ばかりが流れてくる。まるで私は自分の頭の中を走っていて、体はずっとその場から離れられない感じ。死ぬ時って、こんな感じなのかな。ああ、私って今、ものすごく不幸なんだろうな。せめて誰かが笑ってくれたらいいのに。自分で自分を笑うことなんて、この世でいちばん虚しいじゃん。

別れようと彼は言うのに、特別な理由なんてないんだね。本当は二時間でも三時間でも別れたくないって言いたいけど、どきどきしていない彼の胸の音が私にすべてを諦めさせる。彼が見せた久しぶりの表情は、嘘つく時の顔だって本当はわかってる。でも私はそれに気づかないフリをする。私たちはもう終わったのだから。そう、彼にフラれたんだ。ただの日常を特別なものにするためにもっともらしい意味を持たせる。それもまた怪談というものなら、この世は怪談で溢れてる。私の日常は平凡で、それでも毎日が特別だった。それも全部、あなたのせいだよ。心の中で降り続けた雨が、初めて外の世界にこぼれ落ちる。決して演技ではない大粒の涙が、恋した私の本気の証。

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最近何もかもがうまくいく気がする。普段と大して変わらない日常がこれまでとまったく違うものに見える。だとしたらそれは周りではなく僕の方に原因があって、きっと役職という眼鏡をかけた僕が彼女の隣で見ているからこんなにも世界が綺麗に見えるのだと思う。誰と見るか、どうやって見るかでこんなにも世界は鮮やかに色づく。言っておくけど、既婚者の彼女と不倫関係にあるわけじゃない。しかし、嫌でもあの昼ドラのストーリーが今の自分と重なるのは僕だけだろうか?僕はなんとなく自分と彼女の身を守るために体を鍛え始めたりしてみる。筋トレをするからポジティブになるのではなく、ポジティブだからこそ筋トレをしようと思えるのだと気づく。

心も体も健康というこれまで当たり前と思っていたことに感謝する。筋トレと言って思い出すのは、高校の時仲の良かったあいつのことだ。高校卒業後は連絡をとっていなかったけど、風の噂によるとどうやら海難救助隊になって夢を叶えたらしい。高一の頃から付き合ってた彼女と今も仲良くやってたらいいと思う。誰かのことを応援できるような、こんな穏やかな気持ちは初めてだ。生きていたらいいことあるなんて、何の苦労もなくいいことに恵まれてる奴の自慢話だなんて思っていたけど、今の自分は心からそう思っている。日本とはいわず世界の人口の全員にいいことが降り注いだらいいのに。そんな幸せな気持ちに包まれながら、今日も僕は工場へ向かう。

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最近私は朝食を抜いている。少しでも痩せて見えるように、そして一分でも早く職場に行けるように。ラッキーアイテムが食パンの時は仕方なく食べようとは思うけど、いつからか私は占いを見ていないことに気づく。

……毎日うんざりさせられたあの事件のニュースのことを、私はすっかり忘れていた。

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彼女には隠してたけど、俺本当は病気なんだ。もうとっくに救助活動なんてできない体で、明日には仕事も辞めようと思ってる。基地長に褒めてもらえた時は、最高に嬉しかったな。

……自分を喜ばせたナイフは人を殺しているという事実を、俺はすっかり忘れていた。

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最近新しくできた年上の彼氏とのデート。この人の前では思考が蕩けて世界のすべてが夢心地に感じる。ベッドの上で彼の胸に頬をつけると力強い心臓の音が聞こえてくる。

……神様に殺してもらった男の名前を、私はすっかり忘れていた。

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僕は今日も数多の部品を手に取る。工場にいる時間こそ僕が僕でいられるというこれまでになかった不思議な感じ。今では仕事が大好きでやり甲斐を感じている自分がいる。

……かつて隣にいた男のことを、僕はすっかり忘れていた。

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私はすっかり忘れていた。

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俺はすっかり忘れていた。

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私はすっかり忘れていた。

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僕はすっかり忘れていた。

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みんなすっかり忘れていた。

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もう、誰も覚えていない。

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もう、誰も興味がない。

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人の死は、あっけない。

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それなら最後くらい、自分で決めようか。

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物語の終わりも、人生の終わりも。

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僕は作者なのだから。

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僕が死んだら、もう誰も続きを書けない。

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速報 「赤に踏まれる」他、制作側の都合により打ち切りに。次回以降の放送は未定

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最終話 : 原田良太が自殺した時のこと

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首吊りはどうやら苦しくないらしい。よくすぐには死ねないとか絞首刑者は床が落ちてから1分間くらい苦しむとか言われてるけど、実際のところは首を吊った瞬間に意識は遠のいてその過程で苦痛は感じないらしい。ちなみに人間は自分で自分の首を締めて死ぬことはできない。それは窒息死する寸前にどうしても意識を失い、首を絞める力を緩めてしまうからであって、首吊りの時も同様にして苦痛を感じる前に脳が酸欠を起こして意識を失う。首吊り死体の見た目の悲惨さについて吐き気がするような言葉の羅列でよく説明がされているけど、それもまた迷信だという。もちろん実物を見たことがないから、何が真実かなんてわからないけど。

もし首を吊って一瞬で死ぬのだとしたら、人の体から魂が離れるのにかかる時間はどれくらいだろう。原田は走りながらそんなことを考えていた。自分で決めたマラソンのゴールは贖罪のための死に他ならない。贖罪とは自分の罪を償うために善行や金品を差し出すという意味であるが、果たして死ぬことが善行にあたるのか、または金銭的な価値をもつのかなんてわからない。だからこれは永井への贖罪という名目で実は自分が死にたがっているだけなのかもしれない。それでも、彼は己の無意識が魂となって言葉を残すことを信じたかった。そして、死に際の意識を失う寸前に最期の言葉として吐き出された謝罪の言葉にこそ罪を償うための価値が備わっていると信じていた。

原田は永井を殺したことを悔やみながら毎日走った。一歩ずつ足を踏み出すたびに彼の背中を刺した時の手の感触がなぜか足裏に蘇って、まるで針の山を登っているように苦痛を感じる一方、肺と心臓は少しも疲労していないことを不思議に思った。原田は警察から逃げるためではなく自分のゴール地点を探すために昼夜を問わず走った。そのゴールとは自殺であって、それなのに死のうとしている自分の体が日に日にたくましくなっていくことに快感を覚えた。戦争に駆り出される直前の青年たちは死の予感を全身に帯びていて、その色気は凄まじいとどこかで聞いたことがある。

自分もまた死を目前にすることによってそのような魅力を纏えていたらと思うと、やはり原田は友の死に対してではなく自分のために死のうとしているのだと思わざるを得なかった。事実、彼は劇的な死を望んでいた。永井が起こしたあの逆転劇ような、誰かの心を揺さぶり、魅了し、憧れを持たれるようなそんな死に方をしたかった。その一方で、例の無意識による最期の言葉は、決して自分よがりのものではなく必ず永井に対する謝罪の辞になると確信していた。彼はこれまでの間永井のことを忘れた日はなかった。夜眠ればうなされ、昼はずっと後悔してきた。永井という男は死んでしまってなお、いつも自分の前を走っていた。

原田の無意識は常にあの日の血みどろの背中に向いていて、死ぬまでそれから逃れられないことを悟った。罪深き夢追い人として死んでからもその背中めがけて走り続けなければならないだろうか。原田は死後の世界なんて信じていなかったが、死ぬ直前の生と死の境目に人間と幽霊の間のような、いわゆる魂として存在することができるのではないかと考えていた。彼は怨念としての言葉が宙を飛ぶという妄想をし、その言葉が誰にも言えない本音として、姿も形もなくあわよくばこの世に漂い続けるということを真面目に望んでいた。妄想とは願望であり、もしかしたら永井正樹の怨念もすぐ近くで漂っているかも知れない。

そう思うとなぜか気が楽になるのだ。あるいは幽霊になってたらいいのになんて思う。自分もいっそのこと死んだら幽霊になりたい。なんたって足がないのだからこれまでみたいに走らずに済んで楽そうだ。もちろん幽霊どころか魂すらたしかなものではない。しかし、魂の存在を認めた上で言うならば、生と死の境目に立つ何かとしてこの世に留まることは、自殺によってもっとも容易に達成されるだろう。自殺は認識された死であるがゆえに特にそれが可能なのだ。死ぬタイミングがわかっているから心の中に遺書を準備できる。では他の死に方ではどうだろう。考えたところでそれはわからない。死ぬ方法は一つしか選べないから、試すこともできない。

ただ、永井のような人は心の中に常に遺書を準備しているようなものである。何かに夢中になっている人間が死に際に抱える未練は誰よりも大きなものであって、その未練こそが魂や怨念の正体なのではないだろうか。そう考えると永井の死に比べて自分の自殺がいやに浅ましく思えてしまう。劇的な死なんてものは自殺よりもむしろ、生きたいと強く願っている奴の望まない死のことをいうような気がする。かといって、原田の場合はあくまで贖罪のための死なのである。自分が殺した命の手向けとして差し出す命の最期が生きることに夢中だというのもおかしな話だ。

ちなみに、自殺の方法は首吊りに決まっている。他に思いつく方法としては入水自殺、焼身自殺、一酸化炭素中毒、線路への飛び込み、断食、感電なんてものもあるが、やはり首吊りがもっとも目的を達成する手段に適っていると原田は思った。劇的な死を演出し、かつ、この世とあの世の狭間に宙ぶらりんになれそうではないか!逆に、薬物による中毒死なんてもってのほか。というのも原田、薬物による死に対して並ならぬ畏れを抱いていた。これには彼の友人の話が関係する。彼にはかつてAという友人がいた。Aは病気で、それも一般的ではない難しい病気によって長い間病院のベッドでの生活を余儀なくされていた。

体調のいい時は死ぬほど退屈なのに、少しでも悪化してしまうと永遠にも感じる苦痛と戦わなければいけない。そう言ってAは笑ったのだが、原田はどうしていいのかわからず、その時の気まずい時間もまたいつまでも続くように思われた。ある時聞いたAの処方箋の話を原田は忘れられなかった。「俺の飲んでるこの薬、普通の人が飲んだら毒なんだぜ」毒薬。目の前の男はそうまでして生きたいのかと原田は考え、その後一人になった時何度も頭を壁にぶつけた。自分がもしAの立場なら毒を薬にしてまで生きたいかと自問自答してみても、実際自分は健康で決してAと同じ立場に立てないのだから答えなんて出てこなかった。

原田は次第にAと顔を合わせるのが苦しくなった。たとえAが笑っても、自分も一緒に笑える自信がなかった。でも、原田は一度だけ心から病室で笑ったことがあった。それはAの体が現役のマラソン選手よりも痩せ細って面会の数も限られてきた頃の、ベッドからも起き上がれなくなったAと話をしていた時のことだ。「最期の瞬間こそ笑っていたいよなあ」Aがそう言って笑うから、原田もつられて笑ってしまった。人間は本当に感動した時、泣くのではなく笑うのだと思った。涙が主役になるのは悲しい時であって、感動による涙や嬉し涙は笑顔の副産物にすぎない。それから二日もせずに、Aは本当に笑いながらあの世へ逝った。その時原田は、初めて笑わずに涙を流した。

この時の体験が、原田を劇的な死に対して憧憬させるきっかけになったのかもしれない。彼はAの本当の強さのようなものを見て、感じて、感動した。畏怖というのもまた感動のひとつで、彼は初めて直面した人の死に対して恐れをなしてもいた。それでも、自殺なんてものはちっとも怖くないさ。本当に怖いのは生きようとしているのに訪れる死だから。それはつまり、Aに訪れた望まない死や原田が永井に与えた死であり、病気で死ぬにしろ誰かに殺されるにしろ、死ぬつもりもないのに死ななければいけない死ほど怖いものはない。気づかないうちに死んでいたなんて、死んだことのない奴の妄想だ。たとえ一瞬であれ永遠であれ、誰もが死を自覚し恐怖しながら死んでいく。

しかし結局それも空想に過ぎない。だってまだ、一度も死んだことなんてないのだから。妄想と空想と理想は違う。実現される可能性や願望の程度の差によって区別されるように思えるが、うまく言えないけど、理想というものは他の二つとはひと味違う感じがする。では理想の死とはどんなものなのだろう。やっぱり老衰だろうか。いや、穏やかな死を望まない自分にとっては理想的ではない。じゃあ殉職?たとえば消防隊員が火事の中から子どもを救い出して自分は死ぬみたいな。でも人の命を勝手に背負わされた子どもの人生を思うと理想とは程遠い。そもそも自分は犯罪者だ。理想って案外難しい。

どんな死であれ、走馬灯は存在するのかな。そうだ、もし神様がいて1分間だけ生き返らせてくれるとしたら、あのドラマの結末だけでも教えてもらおう。自分がドラマを好きな理由、それはさまざまな登場人物に感情移入できるから。全員が自分であり、そのくせ自分はどこにもいないようなふわふわとした感覚。そんな感覚の中で死ねたら理想的かもしれない。これまでにも小説やニュースなんかでたくさんの死に出会ってきたけど、今ではそれらすべてがただの空想上の死にすぎない。もし死んだら自分の人生というリアルを、最初から最後まで外側から見てみたい。走馬灯があるという妄想が、どうか事実でありますように。

ああ、だんだん走れる距離が減っていく。足に力が入らない。苦しい。走るということにふと違和感を抱く。生きてるだけで嫌でも伴う苦痛を考えれば、わざわざ積極的に自分を痛めつけなくてもいいではないかと思う。それでも、いつしか走ることは自分の人生そのものになってた。現実が空想を上回ることなんか滅多になく、現実にあるのはあまりにも呆気ないという裏切りだけで、では空想の中には現実以上に劇的な何かが眠っているのかと言われればそうでもない。どちらも対して差なんてない。どちらの世界も、いずれは終わりを迎えるだけ。理想の死とは、自分で終わらせる死なのだ。原田はいよいよ腹をくくった。死に場所を探すためにできる限り上を目指した。

もう時間がない。そろそろ死をもって永井正樹の死を償おうか。そう思いながら原田は山道を走る。どうしてわざわざ苦しいのに走るんだろうと彼は思う。考えてみれば走らなくてもいいじゃないか。でも、一歩ずつ踏み出すたびに同じ景色が違って見えたり、これまで気づかなかったことを発見したり、気づいたら自分の知らなかった世界にたどり着いていたり、それって生きることそのものなのではないか。生きてるだけで丸儲け。別に死ななくても善行して金を稼いで罪を償えばいいじゃん。やっぱり生きてた方がよくない? うるさい!生きられないんだよ馬鹿。薬効かねーんだもん。って、こんな覚悟じゃ天国のあいつに怒られてしまいそうだ。

自分はこれから死ぬんだ。そして声にならない声や舌や目玉や吐瀉物や排泄物なんかと一緒に本音の謝罪を絞り出して、死んで初めて永井に心から詫びるのだ。首吊り死体の見た目のイメージはやっぱりすぐには消えないな。どうしてもおぞましいものを想像してしまう。それならとことん汚してやろうか。一般的なイメージ以上の死体を自分の体で創り上げてやる。

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やがて原田は一本の大木に白羽の矢を立てた。木に登り、持ってきた縄を決して折れそうにない枝に結びつけ、縄を最低限の長さにして輪をつくり、その輪に首を通して、あとは枝の上から飛び降りるだけ。

おそらく1分後には汚物を降らせるてるてる坊主の完成だ。

……これって劇的?

結局、どうやって死んでも虚しいだけ。

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生きていなけりゃ、虚しいだけ。最後の最後にたどり着いた真理。

でも、もう手遅れ。彼の体はとっくに宙に浮き、縄が肌に食い込みわずかな空気すら外に漏れて喉がぐっと鳴る。

胃の中のものが腹からせりあがるが気道も食道も塞がれて外には出ない。ただ下半身にだけ汚物の伝う感触を感じる。そんな自分の醜態はまったく視界に入らない。

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白目を剥いて目を見開いたのが最後。原田はもう、目を覚まさなかった。

(彼の死によって、これ以降永遠に空白が続く)

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……本当はもっと走れたのに。

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僕だってもっと書けたんだよおおおおおおおおおおおオオオおおおおおおおオオオおおおおオおおおオオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおしおおオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおにおおおおおおおオおおおおおおおオオオオオオおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオおおおおおたおおおおおおオオオおおおおおおおオオオおおおおオおおおオオオオオオおおおくおおおおおおおおおおおおおおオオオオおおおおおおおおおおおおなおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオおおおおおおおオオオオオオおおおおおおいおおおおおおおお

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