長編21
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しつこい女(後編)

ふとしたきっかけで知り合った澤井美香子に異常なほどしつこくつきまとわれていたが、彼女は事故で死んでしまった。しかし安心したのも束の間、彼女は幽霊になっても俺、工藤信二のところに現れ続けた。会社の同僚である三島早紀の助言で、盛り塩によりある程度澤井美香子の幽霊を避けられることが判ったのだが・・・

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◇◇◇◇

マンションに帰ると盛り塩の位置をドアの外の通路沿いに二か所、ベランダの隅に二か所と変えた。

これで俺の部屋全体が盛り塩の四角形の中に入ったことになる。

三島早紀と楽しく飲んだ余韻に加え、あの幽霊はノックすることもできないはずだという多少の安心感から、俺は鼻歌を歌いながらシャワーを浴びて冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

気分が良いままで眠ってしまっても良かったのだが、本当に澤井美香子が盛り塩の内側に入ってこられないのか確認したかった。

スマホで動画を見ながらゆっくりとビールを口に運んで時間を潰し、時計を見るともう間もなく二時になろうとしている。

カウチに座ったまま耳を澄ませてみるが、時折通り過ぎる車の音以外は何も聞こえない。

そのまま時計は二時を過ぎ、三分、五分と経過してゆく。

もう澤井美香子が現れてもいい時間だ。

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するといきなり外から男性の声が聞こえた。

「ああん?姉ちゃん、こんな夜中に俺んちの前に突っ立って何やっているんだ?」

隣の関口さんの声だ。

また酔っ払って部屋を間違えているに違いない。

やはり澤井美香子は玄関ドアの向こうに立っていたのだ。

今日ばかりは玄関を開けて関口さんに文句を言える状況ではない。俺はじっと固まったまま外の様子を窺った。

「んん?どこかで見たことがある顔だな。俺に用があるなら中に入れよ。今日は女房もいないし。」

おそらく関口さんも同じ不動産会社でこのマンションを契約したため、澤井美香子に見覚えがあるのだろう。

関口さんのその声に続いてカリカリという微かな金属音が聞こえ始めた。

ドアの鍵穴にキーを差し込もうとしている音だ。

「あら?あれ?鍵が開かねえぞ・・・あっ、ここ隣じゃねえか。また間違っちまったぜ。」

そして外の通路から関口さんの部屋の方に千鳥足で移動する足音が聞こえた。

「おい、姉ちゃん、俺の部屋はこっちだ。」

自分が部屋を間違えたと分かった時点で彼女が自分の客ではないことに気づけよ、と思ったが、関口さんが彼女を俺の部屋の前から移動させてくれることを期待した。

先程今日は奥さんがいないと言っていた。それで今日は一段と帰りが遅かったのだろう。

そのために澤井美香子とかち合ってしまったのだ。

そして奥さんがいないことで、酔ったスケベ心から彼女を部屋に招き入れようとしているのは容易に推測できる。

しかし澤井美香子は彼についていくのだろうか。

普通に考えれば彼女の目的は俺なのだからついて行くはずはない。

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関口さんの部屋のドアの開く音が聞こえた。

「ほら、入って。」

関口さんのその声と共にドアが閉まる音が聞こえた。

意外にも声と音を聞く限り、彼女は関口さんの部屋に入ったようだ。

少しほっとした気分になったが、関口さんは大丈夫だろうかと気になり、ベッドの上で関口さんの部屋との間の壁に耳をつけた。

しかしそれほど安い造りのマンションではない。

若干の物音と何かしゃべっているような声がぼそぼそと聞こえるが会話の内容は全く分からない。

そしてしばらくすると何の物音も声も聞こえなくなってしまった。

時計を見ると二時二十分。長い時間に感じられたが関口さんが帰宅してから十分程しか経っていない。

そのまま壁に寄り掛かってウトウトしかけた時だった。

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「ぎゃ~っ!」

いきなり壁から大きな悲鳴が聞こえ、はっと微睡みから現実に引き戻され、反射的に反対側の壁まで転がるように移動した。

声は男性だった。関口さんだろうか。

その後はしんと静まり返った。

五分経っても十分経っても何の音も聞こえない。

そのまま様子を窺い、壁に寄り掛かったままじっとしているうちにいつの間にか眠ってしまったようで、はっと気がつくと部屋の中は明るくなっていた。

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◇◇◇◇

「何それ、その女の幽霊、隣の男の人の部屋に入っていったんですか?」

眠い目をこすりながら何とか出社すると、昼休みに休憩スペースで三島早紀に話をした。

「ああ、ちょっと理解できないよね。」

三島早紀はしばらく何かを考えている様子だったが、また俺の方に顔を寄せてきた。

「聞いていいですか?マンション以外でその幽霊を見たことがありますか?」

考えて見れば、彼女が生きている間は様々な場所でその姿を見掛けていたのに、今はマンションだけだ。

「工藤さんがマンションを契約した時に、他に開いている部屋はありましたか?」

「いや、いい部屋なのでなかなか空かない、ラッキーでしたねってその時の担当の人が言っていたから空はなかったと思うよ。」

「ふう~ん・・・」

彼女が何を考えているのかよく解らないまま昼休みが終わり午後の仕事に戻ったのだが、夕方近くになってマンションを管理している不動産会社から電話があった。

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電話では詳細を話して貰えなかったがマンションで事件が起こり、警察が俺に話を聞きたいと言っているので出来ればすぐにマンションへ戻ってくれないかということだった。

俺は上司に許可を貰い、不安そうな目で俺を見ている三島早紀に、大丈夫だと目で答えるとマンションへ戻った。

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マンションの前には数台のパトカーが停まっている。

黄色いテープを張ってマンションの入り口を警備している警察官に事情を話すとすぐに通してくれた。

部屋の前まで戻ると、隣の部屋、つまり関口さんの部屋の入り口周辺にブルーの養生シートが張られマンションの外から見えないように隠されており、その影には何人もの警察官や捜査員が慌ただしそうに動き回っている。

どうやら事件があったのは、関口さんの部屋のようだ。

近くに立っていた警察官に隣に住んでいる者だと名乗ると、無線で誰かと連絡を取っていたが、すぐにスーツ姿の男性ふたりが関口さんの部屋から出てきて小走りに近寄ってきた。

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ふたりは刑事で、中村、佐伯と名乗った。ふたりとも四十前後で精悍な雰囲気だ。

「すみません、お仕事中にお呼び立てして。」

丁寧に頭を下げるふたりに、俺も何が起こったのか詳しく話を聞きたかったため俺の部屋へと招き入れ、ダイニングのテーブルに座った。

何が起こったのかと聞くと、申し訳ないが、と前置きして何も知らされないまま昨夜の行動を聞かれた。

俺は本当のことを言ってもどうせ信じて貰えないだろう、しかし出まかせを言って何かを誤魔化しているのではないかと思われても困ると思い、澤井美香子のことは伏せて、昨夜は会社の同僚と飲んで、十一時前に部屋に戻るとそのまま寝たとだけ簡潔に話し、再度何が起こったのか尋ねた。

ふたりの刑事は顔を見合わせた後、中村と名乗った刑事が話してくれた。

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今日のお昼前に関口さんの奥さん、真弓さんが実家から帰宅し、全裸で死亡している関口さんを発見し警察に連絡したそうだ。

関口さんは居間の床にほぼ大の字で仰向けに倒れており、特に外傷は認められなかったことから当初は心臓発作などの病死と思われた。

しかし確認に訪れた警察官が念のために彼の昨夜の行動を確認しようとマンションの防犯カメラを確認したところ、午前二時過ぎにマンションの通路に突然髪の長い女性が現れ、帰宅したと思われる関口さんと共に部屋へ入っていくのが確認されたのだ。

「関口さんは自分の部屋へ入る前にあなたの部屋の前で女性と何らかの会話を交わし、まずあなたの部屋のドアを開けようとした。しかしすぐに自分の部屋へ移動するとドアを開けて女性を招き入れたんです。あなたはこの時の物音に気付きませんでしたか?」

警察に対し嘘をついてはいけないと思い、中村刑事の質問に対しそれを認めた。

「ええ、気がついていました。でも関口さんが酔って帰ってきて部屋を間違えることは時々ありますから、そこで玄関に出ていくことはせずに無視して寝ていました。」

それを聞いてふたりは再び顔を見合わせ、今度は佐伯刑事が問いかけてきた。

「その後、隣の部屋から何か声や物音を聞きませんでしたか?」

この問いに対し返事をせずに黙っていると、肯定していると受け取ったのだろう、中村刑事がポケットから手帳を取り出して中に書かれていることを確認しながらさらに質問してきた。

「実は管理人室で防犯カメラの映像を確認している時に、このマンションの管理人が映像に映っている女性は、三日前の朝にあなたが見せてくれと言って確認した女の幽霊に違いないと言っていたんだけど、これは間違いない?」

「ええ、三日前に防犯カメラの映像を見せて貰ったのは事実です。」

俺が頷くと中村刑事はさらに続けた。

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「防犯カメラの映像を確認すると、昨夜十一時過ぎに帰宅したあなたはすぐに玄関から出てきて廊下に小皿をふたつ置きましたよね?あれは何ですか?」

「盛り塩です。ご存じですか?」

ここまで確認されているのなら、信じて貰えそうもないなどと黙っている方が間違いだと思い、澤井美香子との出会いからこれまでのことを掻い摘んで話をした。

「あの幽霊が部屋に入ってこないようにしたのがあの盛り塩です。」

そして昨夜のことは思い出せる限り詳しく話をした。

「その悲鳴が聞こえた時に他に物音などは聞こえませんでしたか?」

「いいえ、悲鳴が聞こえた途端に驚いて壁から離れてしまいましたから、していたのかもしれませんが全く気がつきませんでした。」

そしてふたりの刑事はしばらく沈黙した後、佐伯刑事が口を開いた。

「実際、二時過ぎに関口さんがその幽霊と思しき女と部屋に入ってから奥さんが帰ってくるまでの間、いくら防犯カメラの映像を確認しても誰もあの部屋から出た形跡がないんです。ベランダに出る窓には内側から鍵が掛かっていました。そうだとするとまだ隣の部屋の中にあの女はいるはず、いなければならないのですがもちろん誰もいない。」

佐伯刑事の言葉に中村刑事が続けた。

「刑事という立場では幽霊の犯行と結論付けにくいのですが、今回は部屋の状況や防犯カメラの映像を見てもそうとしか思えません。でもね、もしそうだとしても何が起こったのか事実が知りたいんです。君をストーカーしていた女性が死んで幽霊になったとして、隣の男に誘われて部屋にのこのこ入っていくなんて、そしてその部屋の住人を殺すなんて不自然だと思いませんか?」

三島早紀もそう言っていたが、誰でもそう思うだろう。

「ええ、その点は僕も強い疑問を抱いています。先程お話ししたように会話からすると関口さんは顔を知っているようでしたが、それにしても不自然ですよね。」

俺の言葉にふたりは頷いた。

「とりあえず今日のところはこのくらいにして引き揚げます。もし気がついたことがあれば連絡してください。」

腕時計に目を落とした中村刑事はそう言って名刺を差し出した。

「それから、工藤さんは今夜どうされますか?ここにいますか?」

関口さんが澤井美香子の幽霊に殺されたのだとすると、俺だって命の保証があるわけではない。

「いえ、これから考えますが、とりあえずビジネスホテルか友人の家にしばらく泊まろうかと思います。刑事さん達から僕に何か用があれば携帯に電話してください。」

中村刑事に番号を伝えると、ふたりの刑事は立ち上がり一礼をして出て行った。

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◇◇◇◇

とにかくここにはいられない。

三島早紀にも言ったが、澤井美香子の幽霊が俺自身に憑いてくる可能性が否定できない以上、友人の家には行けない。

やはりビジネスホテルに泊まって様子を見るしかないだろう。

数日分の衣類をバッグに詰めて部屋を出ると、佐伯刑事がまだ関口さんの部屋の前に立っていた。

「工藤さん、今夜、僕と中村刑事で今夜ここに張り込むことにしました。ちょっと怖いですけどね。」

そう言って苦笑いする彼に対し、身の回りに盛り塩をしておくことを勧め、エレベーターで一階へと降りた。

「工藤さん。」

エレベーターを出てエントランスを抜けようとしたところで後ろから呼び止められた。

突然の女性の声にビクッとして振り返ると、立っていたのは関口さんの奥さん、真弓さんだった。

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彼女も警察の事情聴取を終え先ほど解放されたのだが、旦那の遺体は司法解剖の為に運び出されているものの、当然自宅には居られず、今夜は友人のところに泊めて貰うことにしたと言い、足元には大きな旅行用のバッグが置かれている。

「主人が一緒に部屋に入ったという女は最初、工藤さんの部屋の前に立っていたそうですね?その女の人についてもう少し詳しく教えて貰えないでしょうか?私、主人に何があったのか知りたいんです。」

彼女は、真剣な眼差しでまるで俺のことを問い詰めるように言い寄ってきた。

俺自身も関口さんの遺体が発見された時の状況をもう少し詳しく知りたかった。

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俺は真弓さんとマンションのロビーに置いてある長椅子に並んで腰を下ろし、まずは俺の知るところを話した。

すると彼女は、このマンションは関口さんと結婚する前に彼女が契約しており、関口さんは澤井美香子のことは知らないはずだと言った。

そうすると関口さんはなぜ澤井美香子を見知っていたのだろうか。

「ご主人は全裸で床に倒れていたそうですね。」

今度は俺の方から真弓さんに話を振った。

彼女の話によると、昨日は知人の葬儀で実家に帰っており、今日の昼前にここへ戻ってきたのだが、鍵を開けて部屋に入るとカーテンの閉まった薄暗い部屋の中、全裸で仰向けに倒れている旦那の姿があった。

慌てて駆け寄ると既に冷たくなっており、事切れてからかなりの時間が経っていることが伺えたが、その表情は大きく目を見開いて口を半分開け、何かに驚いているような怖い表情だったという。

そのような表情のまま死んでいくというのはどのような状況なのだろうか。

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「ご主人が全裸だったのは何故でしょうかね。普段からそんな習慣があったのですか?風呂上りは裸でいるとか。」

「いいえ、たとえ酔って帰ってきても浴室には必ず着替えを持って入り、裸で部屋の中を歩き回るようなことはありませんでした。やっぱり、その女性と・・・そう言うことなんでしょうか。」

俺に聞かれてもわからない。

関口さんの衣類は下着も含めてベッドの上に脱ぎ捨ててあり、女性のものはなかったそうだ。

「そうですか。奥さんの方からまだ何かお聞きになりたいことはありますか?」

外はもう薄暗くなっており、彼女は首を横に振って突然引き留めたことを詫びた。

俺もいろいろ話を聞かせて貰ったことに対する礼を言うと長椅子から立ち上がり、彼女に一礼してマンションを出た。

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駅に向かって歩いているとスマホが鳴った。三島早紀からだ。

歩きながら彼女に状況を簡単に説明して、これからビジネスホテルを探すところだというと、約束なのだから自分のアパートへ来いという。

しかし澤井美香子の霊が憑いて来ないという確証がない以上はそこへは行けないと言うと、おそらくその心配はないから来いと言い張って聞かない。

何故そう思うのかと聞いても、来たら話すの一点張りだ。

俺は根負けして三島早紀のアパートへ向かうことにした。

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◇◇◇◇

彼女のアパートは俺と似たような間取りだが、女性らしく白とピンクを基調とした家具でまとめられている。

「急だったからこんなものしかないけど、ごめんね。」

三人掛けのローソファーに並んで腰掛け、彼女が用意してくれたレトルトのカレーをぱくつきながら、何故俺に憑いてこないと言い張るのかを尋ねた。

「もし俺が納得できないような理由なら、これをご馳走になったら出て行くからな。」

「うん。」

昼休みに俺の話を聞いて三島早紀はある考えに至ったという。

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それは、澤井美香子が執着しているのは俺ではなく、俺が住んでいるあの部屋ではないかということだ。

最初にそう思ったのは、会社に来ている俺からは妙な気配がまったく感じられなかったということ。

やはり彼女はある程度の霊感を持ち合わせており、自分でも自覚しているようだ。

そして俺に執着しているはずの彼女が、なぜ幽霊となってからはあのマンションにしか出てこないのかというところから、考えを進めて至った結論は次のような内容だ。

澤井美香子は俺の住んでいるあの部屋に何かを隠しているのではないか。

それが何かは分からないが、俺が入居する前、あの部屋が空き部屋だった時にそれをどこかに隠した。

おそらく緊急避難的にあの部屋を使ったのだろうが、彼女の知らない間に同僚が俺とあの部屋の賃貸契約を結び、転勤で時間のなかった俺がさっさと入居してしまったのだ。

困ったことになったと思った彼女は、部屋に自由に立ち入れるよう俺に対し強引に接近してきた。

賃貸契約から俺が独身であることを知っており、そもそも美人であった彼女は俺に取り入ることはそれほど難しい事ではないと鷹をくくっていたのかもしれない。

しかしその高慢な性格が災いして俺はなかなか彼女になびかなかった。

彼女は焦ってこれでもかと脅すような手段まで使ってアプローチするのだが、全くの逆効果で俺は彼女をメンヘラ女だと決めつけ、逃げ惑うようになってしまった。

そんな矢先に、これは全くの偶然と思われるが、彼女が交通事故に遭ったのだ。

あの世のルールがどうなっているのか解らないが、初七日を過ぎたあたりから彼女の霊が彷徨い始め、その何かを回収しようとマンションのあの部屋の前に現れるようになったというのが彼女の考えだ。

「なるほどね。かなり事実に合致していそうな説得力のある推論だな。」

「そうでしょう?さっき刑事さんが今夜マンションで張り込むって言っていたわよね?工藤さんがいないあの部屋の前にやっぱりその幽霊が現れて、工藤さんがいるこの部屋に現れなかったら、絶対間違いないと思うな。」

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三島早紀の話に納得した俺はスマホを手に取ると中村刑事に連絡をした。

俺の話を黙って聞いていた中村刑事は、分かった、もし今夜彼女の幽霊がマンションに現れたら連絡すると約束してくれた。

そして俺は、もしそうだった場合には警察の手で明日にでも俺の部屋を調べて貰えないか、自分で探してとんでもないものが出てきても困るからと依頼すると、こちらも了承してくれた。

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◇◇◇◇

「残された謎は関口さんよね。なぜ彼が殺されたのかしら。」

三島早紀は冷蔵庫からビールを取り出してくると俺の前に置いた。

「実はさっきマンションから出てくる時に関口さんの奥さんから話し掛けられたんだ。」

俺は真弓さんと話した内容をそのまま三島早紀に伝えた。

「関口さんが下心を持って澤井美香子を部屋に招き入れたのは間違いないよね。真弓さんが鍵を開けて部屋に入ったということは、関口さんは部屋に澤井美香子を招き入れた後自分でドアをロックしたっていうことになる。」

そして女を部屋に連れ込み、その場の勢いで押し倒したのであれば、着ていた服はその周辺に散らかっているのではないか。

下着まで含めてベッドの上に脱いだ服を置く余裕があるということは、それなりに相手との合意が成立していると考えるのが自然だ。

しかし合意が成立していたのであれば、なぜ倒れていたのはベッドではなく床の上なのか。

ベッドの上に衣類が置いてあるという事はそもそもベッドを使うつもりがなかったとも受け取れる。

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「その辺になると、経験のない私にはちょっとイメージし辛いけど・・・」

「え?三島さん経験ないの?」

「悪かったわね。二十代後半で処女なんて珍しいでしょう?好きでそうしているわけじゃないんだけどね。」

この際三島早紀が処女かどうかはどうでもいい。

時計を見ると間もなく午前二時になるところだ。

三島早紀の部屋に来てからもう五、六時間経つが、話に夢中になりあっという間に時間が過ぎた。

缶ビールもそれぞれ三本目に入っている。

「澤井美香子が現れるとすればそろそろね。あ~怖い。もし出てきたらどうしよう。」

三島早紀はそう言いながら俺にすり寄ってくると俺の腕に抱きついた。

しかし彼女の顔を見ると、怖い怖いと言いながら俺の顔を見上げている目が笑っている。

「お前、本当は怖いなんて思ってないだろう。」

「え~っ、怖いわよ。とてもひとりじゃ座っていられないわ。工藤さんがぎゅって抱きしめてくれると安心できるんだけどな~」

霊感のある三島早紀は、ここへは来ないということをもう確信しているのだ。

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「そろそろ時間だな。」

俺はそう言うと三島早紀の肩に腕を回してぎゅっと抱きしめた。

すると三島早紀は”くふふっ”とくぐもった笑い声を出して俺の胸に頬を寄せて抱きついてきた。

二時になった・・・五分・・・十分・・・十五分

何も起こらない。

「大丈夫みたいだな。」

返事が返ってこない。

見ると三島早紀は俺に抱きついたまま穏やかな表情ですやすやと寝息を立てていた。

起こしてベッドに移動させようかと思ったが、この状態もそれなりに心地良い。

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このままでも良いかと思い、俺もそのままウトウトし始めたところで、ブーンッとスマホのバイブが鳴った。

三島早紀を起こさないようにスマホに手を伸ばし、画面を見ると中村刑事からのショートメッセージだった。

この時刻を気にして電話ではなくメッセージで送ってきたのだろう。

詳細はわからないが、やはり澤井美香子の幽霊は今夜もマンションに現れ、俺の部屋の前にじっと立っていたと記されている。

思い返してみれば盛り塩を片付けた記憶はない。

それゆえ澤井美香子の幽霊は昨日と同じように部屋の前で立ち尽くすしかなかったのだ。

そして中村刑事達が近寄ろうと通路へ出た途端こちらを振り向き、すっと消えてしまったらしい。

中村刑事に連絡をくれたことに対する謝礼のメッセージを返し、ほっとした俺は三島早紀を抱きしめたまま眠りに落ちていった。

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◇◇◇◇

午前中から俺の部屋を調べたいという中村刑事からの連絡を受け、俺は会社を休んでマンションへ戻った。

朝、ソファの上で目を覚まし、処女を捨てるチャンスを逸して悔しがる三島早紀に、今日はどうするか確認したが俺のマンションへは来たくないと言って彼女はいつも通り出勤していった。

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その”何か”はすぐに見つかった。

居室にあるクローゼットの天板を外して上を調べていた警察官が配管の陰にあった黒いビニール袋を発見したのだ。

「これは工藤さんの物ではないですか?」

佐伯刑事の質問に俺は大きく首を横に振った。

「開けてみよう。」

それは長さ五十センチ程、幅二十センチ程の塊りだ。

何枚も重ねられたビニール袋を開けてみると、獣のような匂いが一気に立ち上がり、乾燥剤と消臭剤と思われる大量の錠剤が流れ出て、そこに何か干からびたような薄茶色の物体が覗いている。

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佐伯刑事が袋から取り出したもの、それは人間の赤ん坊だった。

へその緒がついたままであり、大きさからしても生まれた直後だろう。

澤井美香子が産んだ子供なのだろうか。これが彼女の取り戻したかったものに間違いない。

引っ越してきてからずっとこの赤ん坊の亡骸の下で生活していたのかと思うとぞっとする。

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◇◇◇◇

「工藤さん、関口さんの件、私なりに考えてみたんだけどね。」

俺の部屋から赤ん坊の遺体が見つかったことで更なる事情聴取を受けた後、再び三島早紀のところへ戻り、ワインを抱えて嬉しそうに仕事から帰ってきた彼女と夕食を食べていた。

「何の証拠もなくて単なる私の想像なんだけど・・・」

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三島早紀の推測によれば、その夜ドアの前で立ち尽くしていた澤井美香子は、盛り塩の位置から関口さんの部屋には結界がない事に気がついた。

そして結界の切れ目を探して関口さんの部屋へ入って行ったのではないか。

しかし関口さんの部屋に入ったものの、盛り塩の結界は俺の部屋との壁沿いにずっと続いており、澤井美香子は壁の前で立ち尽くしていた。

一方、関口さんはすんなり部屋に入ってきた彼女に対して、すべてを許容しているものと思い込み、ベッドの横で衣類を脱ぎ捨てて壁に向かって立ち尽くしている澤井美香子の幽霊に抱きついた。

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「そして関口さんは澤井美香子の怒りを買う結果となったの。具体的に何が起こったのか分からないけど、結果的に関口さんは驚きの表情を浮かべたまま瞬時に息絶えたんだわ。」

「なるほどね。」

真実かどうかは別にして、今回の事件において俺自身が関口さんの身に起こったことについて納得するには充分だ。

とにかく俺自身には大きな影響がなさそうだということが何よりだが、あのマンションにはもう戻る気になれない。

「どこかまた住むところを探さなきゃ。今回は引っ越し費用を会社が出してくれるはずがないからとんだ散財だな。明日にでもまた不動産屋巡りしなきゃ。」

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◇◇◇◇

そして一週間が過ぎ、会社帰りに不動産屋で新しいマンションの契約のハンコを押した後、夕食がてら三島早紀と居酒屋に入ったところで俺のスマホが鳴った。

電話は中村刑事からだ。

「もしもし、・・・・ええ、・・・今ですか?駅前の『みかさ』っていう居酒屋にいますが。・・・いいえ、僕の彼女とふたりだけです。・・・はい、そうです。その彼女です。・・・ええ、いいですよ。・・・はい。それじゃ、お待ちしています。」

電話を切ると三島早紀は自分の顔を指差した。

「彼女?」

「他にどう説明するんだよ。嫌なら単なる友達に格下げするぞ。そんなことより中村刑事が事件について話したいからここに来るって。」

彼女と言われて機嫌を良くした三島早紀はにこにこしながら空いたビールジョッキのお替りを注文している。

しかし澤井美香子の事件については、少なくとも俺の心の中ではほぼ決着しているのだが、中村刑事の話とは何なのだろうか。

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◇◇◇◇

中村刑事は三十分程してから現れた。そして三島早紀に対し簡単に自己紹介をすると早速話を始めた。

結局関口さんは心臓発作による突然死として処理されたとのことだ。

酒に酔って帰宅後、入浴しようとしたところで発作を起こしたというのが警察の表向きの見解だそうだ。

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「もちろん、僕や佐伯君はそうでないことを百も承知しているが、澤井美香子の幽霊が犯人だという報告はできないことは理解してもらえるよね?」

俺と三島早紀は頷き、俺は関口さんの死に関する先日の三島早紀の推論を話した。

「なるほど。事実はそんなところかもしれないね。」

そして中村刑事は俺の部屋で見つかった赤ん坊の遺体について話してくれた。

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DNA鑑定の結果、やはりあのミイラ化した赤ん坊は澤井美香子の子供だった。死亡時期は半年ほど前。

しかし検死の結果、死に至るような外傷や病根もなく、おそらく死産だったのではないかというのが解剖医の見解だった。

「なるほど。俺があの部屋で生活していても、赤ん坊の泣き声とか、おかしな現象が何も起こらなかったのは、その赤ん坊が自然死だったからなのかな。そもそも命を持って生まれていなかったんだ。」

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そして警察が澤井美香子について調べてみると、彼女はあのマンションで俺の部屋の並び、二軒挟んだ部屋に住んでいたそうだ。関口さんはその頃に彼女を見掛けていたのかもしれない。

そして俺が引っ越してくる二日程前に、彼女は突然マンションを引き払って別のアパートに引っ越した。

この引っ越しの理由は全く分らないのだが、この時に引っ越し業者、そして退出時の立会検査などの目から逃れようと、そのときたまたま空き部屋になっていた俺の部屋に赤ん坊の遺体を一旦隠したのではないかというのが中村刑事の推測だった。

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「確かに俺は内見したその日に契約して鍵を受け取り、翌日には荷物を運び込んだから、誰にも知られずに赤ん坊を回収する時間はなかったな。」

その結果、あの雨の日の駅ビルで澤井美香子に声を掛けられることになったのだ。

「でも自分の手で殺したのならともかく、死産だったら遺体を隠す必要なんかないと思うのだけど。」

三島早紀の言葉に中村刑事は軽く首を横に振った。

「真っ当な妊娠ならそうかもしれないけど、死産の場合は病院に届け出の義務、そして埋葬の義務があるんだ。しかしこの周辺の病院のどこからもそれに該当するような届け出はなかった。」

「それって彼女は自分の部屋で産んだということですか?」

俺の質問に中村刑事は頷いた。

「でも死産から三か月も経っているのであれば、処分する時間はいくらでもあったと思うんだけど、何故そうしなかったのかしら。」

三島早紀の問い掛けに、今度は俺が答えた。

「処分できるものを処分しなかったということは、逆に考えると取っておきたかったということだよね。あのビニール袋に入っていた大量の乾燥剤を見た時は腐敗して匂いが出るのを抑えるためだと思ったけど、彼女はミイラ化して保存しようとしたということなのかもしれない。」

「何のために?」

「さあ、その子の父親との思い出のつもりなのか、それを使ってその男を脅そうとしたのか。」

幽霊となってまで執着するのであれば、前者の方が近いような気がする。

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◇◇◇◇

居酒屋を出て手をつないでアパートへ帰る途中、三島早紀が呟くように言った。

「中村刑事と話が出来て何が起こったのか何となくわかったわね。でももうこれ以上詮索するのは気分悪いし、何の得にもならないからもうこれでやめようよ。」

「そうだね。」

俺は歩きながら三島早紀と腕を組んだ。

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「でも今回のことがなければ早紀とこうなっていなかったと思うとちょっと複雑だな。」

「そうね。でも澤井美香子の幽霊はまだマンションにいるのかな。もう赤ちゃんはいないけど。」

「さあね。」

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するとゆっくりと歩く俺達のすぐ後ろから、俺には聞き憶えのある声が聞こえた。

(ここにいるわ。私の赤ちゃんを返してよ。)

驚いて振り返ったが、そこには誰もいなかった。

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しかしうっすらと柑橘系の香りが漂っていた。

◇◇◇◇ FIN

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