中編4
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鍋のフタ

私は都内で保育士をしています。

私が受け持つ5歳児のキリン組にひとり、気になる男の子がいます。

毎日髪も服もみすぼらしく、毎朝洗っていない様なすすけた顔をしています。

服は年中ほぼ一緒で、夏でも長袖・長ズボンです。

保育所での生活の中でも常に落ち着きが無く、じっとしていることはまずありません。

女の子にちょっかいを出しては泣かせたり、男の子同士でのケンカをしたりするのは日常茶飯事です。

彼のおかげで、クラスの和が乱れることも多く、問題児といわざるを得ません。

ただ、怒ってばかりではクラスの雰囲気も悪くなるし、彼がクラスで孤立してしまうのもよろしくないので、彼を叱るときにはとても気を遣います。

たいていのトラブルは当事者同士の子どもたちを呼んで、時間をかけてじっくり話せば解決するのですが、彼にはひとつだけ、何度注意してもやめてくれない癖の様なものがありました。

それは、おままごとで使う鍋のフタを舐め回すことです。

フタは大小4つありますが、いつも彼が隠し持って教室の隅で舐め回していたり、道具箱から出すと舐め回した形跡があったりして、女の子たちが嫌がります。

なぜ、彼がそんなものにこだわるのか、全くの謎です。

衛生的にも問題があるため、何度もきつく注意しましたが、いっこうにやめてくれません。

さすがの私もついには堪忍袋の緒が切れ、クラスの子が全員いる前で、かなりきつく叱りつけました。

彼は最初はとても惨めそうな表情をしていましたが、私のあまりの迫力に、そのうち泣き始めました。

それでも私は「ここは一貫して毅然とした態度をとるべき」と判断して、徹底的に彼に反省させました。

その日彼は帰りの時間まで、教室の片隅でひとり泣き続けていました。

次の日、彼は保育所を休みました。

家に電話連絡を取ってみましたが、誰もでません。

その2日後、彼が救急車で病院に運ばれ、そのまま亡くなったことを知らされました。

その時の事情はマスコミを通じて知ることになりました。

両親によって幼い頃から酷い虐待を受けていたことを。

全身にアザがあり、それを隠すために、けなげにも彼自身があえて一年中長袖・長ズボンを着ていたことを。

あの日、家に帰ってからの彼の様子も、逮捕された両親の供述によって明らかになりました。

保育所での出来事により、悲しみで心が押しつぶされていた彼は食事が進まず、なかなか食べ終わることができなかったそうです。

それに腹を立てた両親は「しつけ」と称して彼に殴る蹴るの暴力をふるった後、冷たい水のはった浴槽に彼を沈め、フタをしたそうです。

翌日の朝、浴槽に浮かんで動かなくなった彼を見た両親は驚いたそうですが、「温かいところに寝かせておけば目を覚ますだろう」と丸一日放置。

翌朝、異変に気付いた両親が病院に搬送しましたが、すでに死亡しいていたそうです。

診断にあたった医師が虐待の疑いがあるとして警察に通報したことで、全てが明るみになりました。

両親はすでに逮捕され、おそらくは実刑判決になるであろうと噂されています。

私は彼が亡くなる一因をつくってしまった自分の行動を悔やみ、しばらく自責の念に駆られていました。

しかし、時の流れと共に平穏な生活に戻っていきました。

そんなある日、ふとした光景を見て私はある重大なことに気付かされました。

女の子がふたり、おままごとをしていました。

鍋のフタが舐め回されることがなくなったため、はやりの遊びとなっていました。

ひとりがおふざけをして鍋のフタをふたつ手に取り、胸に当てました。

「おっぱ~い!おっぱ~い!お母さんみたいでしょ!きゃははは!」

鍋のフタ・・・。それは見ようによっては乳房にも見えます。

私の心の中で、疑問だったことが弾け飛び、一つの明白な答えが導き出されました。

乳房は母性の象徴です。彼が求めていたのは母親の愛情だったのです!

どんなに求めても得ることができない母親の愛情。

その空しさを少しでも埋めるために、鍋のフタを舐め回していたのでしょう・・・。

なんのぬくもりもない、ただのおままごとの鍋のフタに・・・。

彼の気持ちを理解してあげるどころか、藁をもすがる思いで心のよりどころにしていたものすら、私は奪ったのだ。

そんな自分の行動が今になって悔しくてたまらない。

「母親の愛情というものを一度も受けることないまま、短い生涯を閉じざるを得なかった彼の人生とは何だったのだろう・・・。ごめんね・・・。本当にごめんね・・・。」

「先生、何で泣いてるの?」

子どもたちが不思議そうに見つめる中、我を忘れて私は泣いた。

(脚色していますが、核心部分は真実です。保育士は架空の人物です)

怖い話投稿:ホラーテラー 匿名さん  

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そういうことか…ホラーではないけど辛い

酷いハナシだけど、怖くはないよね。