長編46
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八月二十日の公衆電話

『八月二十日の公衆電話』

序章『奏でる旋律、響き渡る戦慄』

―――八月十九日 深夜十一時半―――

 一寸先すら見えぬ程の雨が窓に打ち付けられる。時折車内を照らし出す道路沿いのオレ

ンジ色の街灯。旅愁を感じさせるこの街灯の色は嫌いでは無い。しかし、今の僕には時間

が残されていない。約束の時間までもはや半刻も残されていない。時計から目を離し、込

み上げて来る感覚を必死で抑え込む。震える手で必死にハンドルを握り締める。あまりに

も早過ぎる鼓動のせいで、妙に息切れをしている自分に気付いた。胸元はじっとりと汗ば

んでいると言うのに喉はカラカラに渇き切っている。飲み物を取ろうと手を伸ばすが手に

したのは空のペットボトルだけだった。一刻も早く英明を発見しなければ取り返しのつか

ないことになってしまうと言うのに。空虚な容器を放りながら、僕は逸る気持ちを必死で

抑え込んだ。

「まただ……一体、どうなっているの?」

 これで三回目だ。交差点に近付くと必ず信号が赤になる。まるで僕の行く手を阻むかの

ように。そう定められていたかのように。

「悪いけれど、死者が生者を連れ去るのを許すことなんて出来ないから」

 急がなくてはならないのだ。一刻も早く、あの公衆電話に向かわなければ。英明は夕方

にはあの公衆電話に向かい家を出た。今日は『あの少年』の命日とされる日。日が変わる

まで残り十数分しか残されていない。時間だけが空しく刻まれてゆく。

気持ちを落ち着かせようと深呼吸するが、酷く渇いた喉が痛んだ。一筋の雨粒がフロント

ミラーを駆け抜ける。誰かの涙の様に思えて思わず息を呑んだ。運命はあくまでも僕の行

く手を阻む。否……それさえも『あの少年』の仕業に違いない。途方も無い力を持つに至

った少年の霊ならば、この位のことは容易く出来るだろう。

助手席には永徳和尚に貰った数珠が空しく散らばっている。災いを察知し、持ち主の身代

わりとなって散ると聞かされた数珠……百八粒の数珠が期せずして散ったのはまさに数分

前の出来事であった。そしてまた僕の行く手は阻まれる。明滅する赤い光が目に眩しい。

「今度は道路工事か……」

 零れ落ちる溜め息。推測は確信に変わる。間違いない。『あの少年』の仕業としか思え

ない。唐突に降り出した大雨も、行く手を阻む信号も、全て彼の仕業なのだ。

「君の好きにはさせないっ!!」

 額から汗が吹き出す。誰に向かって叫んだのか、自分でも判らない。ただ、焦りが、苛

立ちが、形になって噴き出してしまったのだ。どうにも抑え切れなかった。

「お急ぎのところご迷惑お掛けします」

 誰かが運転席の窓を叩く。途切れた意識を手繰り寄せながら、そっと顔をあげる。

「ひ……英明!?」

「え?……あの……」

「人違いでした。すいません」

 一瞬だった。ほんの一瞬だったが雨合羽の青年が英明の顔に見えたのだ。戸惑った表情

を浮かべる青年から目を背けると、僕は何事も無かったかのようにハンドルを握り締めた。

「聞こえているのだろう?」

 窓を閉めながらそっと言葉を放つ。不意に背筋を冷たい汗が走り抜けたが怯みはしない。

「君は一体何人連れて行けば気が済むのさ? 英明は連れては行かせない。絶対にね」

 その言葉に呼応するかの様に、一気に雨足が強くなる。僅かな先さえも見えないほどに

叩き付ける強い雨に変わっていた。上等だ。意地でもあの少年の計画を阻止してみせる。

込み上げてくる恐怖心を抑えながらも必死でハンドルを握り締めた。

 この場所の地名を知らない人は殆ど居ないだろう。誰もが一度は名を聞いたことがある、

避暑地として知られるこの地は夏になると多くの観光客が訪れる。雄大な八ヶ岳の景色

を臨み、美しい白樺の木々に囲まれた別荘地。多くのペンションを抱えるこの地を駆け抜

ける、とある国道沿い。その国道沿いにある古ぼけた電話ボックス。携帯電話が普及した

今、小さな公衆電話を使う者は殆どいない。

 この公衆電話に電話が掛かって来ることがある。決まって夏の夜。まとわりつくような

湿度の高い、雨の夜という極めて限定された条件の中でのみ起こる。そして、この辺りで

は怪死事件が相次いでいる。

 皆一様に、公衆電話で『誰か』と会話をしていたであろう状態で死んでいたのだ。彼ら

の表情は恐怖に慄く表情では無かった。愛おしい誰かと語らっていたかのような笑顔を浮

かべて死んでいた。

 何よりも驚かされるのは、その死因である。夏の蒸し暑い晩に、ずぶ濡れの状態で『凍

死』するという奇怪な死に方。確かに雨は降っている晩であることを考えれば、全身ずぶ

濡れなのは不思議では無いのではあるが。奇妙な共通点はそれだけでは無い。彼らは皆二

十代前半の男性ばかり。人当たりが良く、誰からも慕われる者達ばかりであった。死亡推

定時刻は概ね八月二十日零時過ぎ。多少の前後はあるが、個人差を考慮に入れれば誤差の

範囲内となる。

 繰り返される事件は連続殺人事件として捜査本部が置かれたが、不可解な死因の説明が

つく訳も無く、結局のところ形だけのものとなってしまった。

 英明はあの日、電話に出てしまったのだ……噂を知らなかった訳が無い。わざわざ危険

だと判っていることに首を突っ込むような真似はしない慎重な彼が、何故、そのような行

動に出てしまったのかは判らない。

 もうひとつの共通点。死んだ青年達は皆一様に八月二十日のうちに死んでいる。今日は

八月十九日……現在時刻は十一時五十分。もう僅かな時間しか残されていない。

 八月二十日は白井達矢君が交通事故で亡くなった日である。彼は轢き逃げに合い、この

公衆電話近くで亡くなっている。果たして偶然なのだろうか? あまりにも条件が重なり

過ぎてしまっている。偶然とは思えない。現在時刻は十一時五十二分。信号が赤になる…

…僕は夢中でアクセルを踏み込んでいた。

「時間が無い!!」

 件の国道に入った。後は直線。時刻は十一時五十五分。頼む!! 間に合ってくれ!!

神にも祈る気持ちでアクセルを一気に踏み込む。雨足が少し弱まる。対向車線は時折すれ

違う車以外は何も居ない。行く手を阻むものは残されていない。目に流れ込む汗の痛みに

堪えながら、じっとりと濡れた手でハンドルを握り締める。十一時五十六分……公衆電話

が見えてくる。予想通り、英明の姿が目に飛び込む。嬉しそうに笑いながら誰かと語らっ

ている。電話の向こうの『達矢君』と。急がなければ……もう、時間は残されていない。

十一時五十九分!! もう四の五の言っている場合では無い。僕は乱暴に車を止めると、

力一杯ドアを開いた。そして、そのまま英明の手から受話器を乱暴に奪い取る。

「英明、目を覚ましてっ!!」

 力一杯、その頬を殴った。英明が力無く崩れ落ちる。時計を見る……零時丁度。彼は生

きている。

「み、光生? そうか……来てくれたのか」

「遅くなってごめんね。でも、良く耐えてくれた」

「当たり前だろう? お前がきっと助けてくれるって信じてなければ、こんな行動に出ら

れる訳が無い」

 英明は家族を巻き込み始めたことに責任を感じていたことを告げた。この場合は不可抗

力だ。そもそも話の通じる相手では無い。

「はは……安心したら、何か一気に力が抜けちまったよ」

 崩れ落ちそうになる英明に肩を貸しながら車へと向かう。話したいことはたくさんある

が、とにかく今は一刻も早くこの場所を離れる必要がある。既に彼の命日は始まっている

のだ。

 今一度、ことの始まりからの経緯を紐解く必要がありそうだ。何の情報も聞かされてい

ない以上は対抗策を講じることなど出来る訳も無い。

「英明、ことの経緯を話してくれる? 僕は詳しい事情を知らないから」

「それもそうだな」

「解決の糸口が見つかるかも知れないから、詳細に教えて欲しい」

「判った」

 小さく呼吸を整えながら、英明はこれまでの経緯を語り始めた。呼応するように雨足が

再び強くなる。車内には妙な冷気が充満し始めていた。

第一章『英明編:冷たきアリア』

―――八月十七日 深夜十一時五十分―――

 友人の家で飲み明かし、気が付けば日付も変わろうとしていた。明日は一限から講義が

入っているというのに無謀なことをしたものだ。少々自分の愚行を悔いながら俺は自転車

を力一杯漕いでいた。ガッツリ飲酒した上で車を運転した日には減点は免れられない。先

日も飲酒運転で事故を起こした会社社長がでっかく新聞に名を載せられていた。地方紙な

んてものはネタが少ないものだから、取るに足らない事件、事故でも大々的に載せられる。

そんな目に遭うのは避けたかったので、友人の自転車を借りて国道沿いを走っていた。

自転車でも飲酒運転はご法度なことくらいは知っている。だからと言ってタクシーで帰る

程に裕福でも無かった。厚い雲に覆われた夜空はまとわり付くような気候。汗ばむ胸元を

はだけさせながら、時計を確認する。

「もう一時かよ。こりゃ、明日の一限は光生に期待を託すか」

 背筋に悪寒を覚え、周囲を見渡す。やはり酔っているのであろうか? 普段は通らない

国道沿いを駆け抜けていることに気付いた。周囲は不気味なまでに静まり返っている。虫

の声さえ聞こえない程に。

「これは明らかにおかしい……」

いくら静かな道とは言え、虫の声が聞こえないのは奇異だ。やはり噂は本当だったのだろ

うか? だとしたらなおのこと、あの公衆電話をさっさとやり過ごすとしよう。自転車を

漕ぐ足にも無意識のうちに力が込もる。

 街灯も殆ど存在しない国道沿いにぼんやりと浮かび上がる公衆電話。いつ見ても不気味

な公衆電話だ。誰が手向けたのか、公衆電話前には花束と線香が手向けられていた。線香

から立ち上る煙。

その時、俺は奇妙な違和感に気付いた。煙を放つ線香が示すものは、この場所に誰かが線

香を手向けたことになる。手向けられてから殆ど時間は経っていないことは線香の長さか

らも窺える。この周囲には別荘以外には殆ど家も存在しない。じゃあ一体誰が? そう考

えると背筋が寒くなる。その瞬間のことであった。

「!!」

 俺は自分の耳を疑った。目の前の公衆電話が鳴っているのだ。つまりは誰かが、この公

衆電話に電話を掛けていることになる。

「じょ……冗談だろ?」

噂は本当だったとでも言うのか? だとしたらなおのことだ。決してその電話には出ては

ならない。この場所で死んだ白井達矢の霊に連れて行かれるからだ。俺は迫り来る恐怖か

ら逃れようと考えた。だが気が付くと俺はあり得ない行動に出ようとしていた。操り人形

にでもなったかの様に、俺の体が勝手に動く。馬鹿な!! 駄目だ、止めろ!! 俺の想

いとは裏腹にゆっくりと受話器に向かい手が伸びる。

「な、何で体が勝手に動くんだよっ!?」

公衆電話の呼び出し音だけが静寂の闇夜に響き渡る。止せ、止めろ!! 思惑とは裏腹に

ゆっくりと手を伸ばす。

「だ、駄目だ、止せ……止めてくれ……」

手は無情にも受話器を持ち上げる。受話器が外れる音が聞こえ、同時に呼び出し音も鳴り

止む。心臓が破裂しそうな鼓動。背中から一気に汗が吹き出す。あまりの恐怖に腰から崩

れ落ちそうになるが、何故か体は硬直したまま動かない。そっと受話器を耳に近づける。

嫌だ、嫌だ!! 止めろ、止めてくれ、頼む!! そんな想いとは裏腹に受話器を耳に宛

がわれた。

「……?」

 何の音だろうか? 不可思議な音が聞こえて来る。テレビ放送が終わった後の砂嵐の音

と良く似た音。だが、その音は雨がアスファルトを叩き付ける音だと気付いた瞬間、心臓

がさらに締め付けられた。恐怖のあまり息が出来なくなっている。このまま死んでしまう

のだろうか? 諦めにも似た想いを抱いた瞬間のことであった。

「……うっ、ううっ」

 子供がすすり泣く声が聞こえてきた。受話器の向こうから聞こえて来る声。

「寒いよ……寒いよ、助けてよ……助けて……」

「うわああああっ!!」

 一体、どうやって家に帰り付いたのか、あの瞬間からの記憶は殆ど残されていなかった。

家に帰り付いた俺を見てお袋は酷く驚かされたと、後から聞かされた。擦り剥いた膝か

らは血が滲み、服のあちらこちらに土が付着していた。その姿を見た瞬間、強盗にでも遭

ったのかと勘違いし、危うく警察に電話を入れるところだったそうだ。

どうやって家に帰り付いたのかは謎ではあったが、家に帰り付いた俺はそのまま二階の自

室へと向かうと、ベッドに転がり込み寝てしまったようだ

―――八月十八日 早朝六時五十分―――

あれから何時間経ったのだろうか? 窓から差し込む朝日で目覚めた。定まらない焦点で

周囲を見渡す。昨日の出来事は夢だったのだろうか? 今何時だろうか? 時間を確認し

ようと、何気なく携帯を手にした俺は一気に目が覚めた。着信が数十件、いずれも非通知

であった。それだけでも堪らなく恐ろしかったが、さらに恐ろしいことに留守電が三件入

っていた。震える手で留守電を再生した。

「寒いよ……寒いよ、助けてよ……助けて……」

「ひっ!!」

 思わず携帯を放り出した。夢なんかじゃない……忘れることも出来ない、あの少年の声。

何故だ? 何故、俺なんだよ!? 意味が判らない。何の関わりも無いはずだろうし、

何故こんな目に遭わなければならないのかも理解不能だった。茫然自失になりながら俺は、

窓の外に広がる何時もと変わらぬ日常を見つめていた。何も考えられなかった。その時

であった。携帯から流れ出す着信音。心臓は破れんばかりに鼓動を刻み込んでいる。まさ

か、と思いながら携帯を拾い上げる。震える手では、まともに掴むことすらままならない。

このまま電話を切ってしまうことも出来る。いや……もしかしたら違うかも知れない。

でも、再びあの電話だったら? 考え込んでいる間にも電話は健気に鳴り続けている。小

さく深呼吸をし、意を決し目を開く。

「!!」

 ナンバーディスプレイに表示されていたのは間違いなく「非通知」の文字であった。再

び携帯を放り投げる。ベッドの隅に追いやられた携帯が空しく佇む。やがて静かに留守電

に切り替わる。

「はい。上田です。ただいま電話に出ることが出来ません。発信音の後にメッセージを入

れてください」

 留守電用に入れて置いた応答メッセージ。腰が抜けそうになりながら、後退りする。聞

きたくない……駄目だ、止めろ……止めてくれ、頼む!! だが願いは空しく退けられる。

「寒いよ……僕の声聞こえているでしょ? ねぇ、お兄ちゃん助けてよ……助けて……」

 気が狂いそうだった。一体、自分の身に何が起こっているのか理解出来なかった。一体、

あの少年は何を求めているというのだ? 何故、俺なのか? 噂が真実であるならば二

十日のうちに俺は死ぬことになるというのか?

 俺は慌ててカレンダーを握り締める。今日は十八日。二十日までの時間は決して長くは

無い。一体どうすれば良いのだ。まだ死にたく無い……不思議なもので、人は恐怖が限界

まで達すると、恐怖を恐怖と感じられなくなってしまうものなのかも知れない。携帯電話

を握り締めたまま、俺は薄ら笑いを浮かべていた。

―――八月十八日 早朝七時半―――

 結局、その日は体調が優れずに一日休むことにした。光生にはメールで連絡を入れて置

いたから、後で講義のノートを見せて貰うことにすれば良い。問題はそこには無い。俺は

携帯を握り締めながら考え込んでいた。一体どうすれば良い? 朝の電話には昨晩とは違

うメッセージが入っていた。彼は自分の存在を認めて欲しいのかも知れない。

「助けてくれ、か……出来ることならば助けてやりたいさ」

 轢き逃げに遭い、今も成仏出来ずにいる幼い少年。自分を頼ってきた少年の想いに応え

てやりたいのも事実であった。このまま見捨ててしまうのも忍びない。面倒な性分だと自

分でも思う。面倒見が良いと言えば聞こえは良いが、悪く言えばお節介焼き。ついでに面

倒な性分。

 あれから電話は一度も掛かってこない。その静寂が逆に不気味にも感じられた。気のせ

いだろうか? 誰かの視線を絶えず感じている。明らかに人の気配を感じる。嫌な感じだ。

蝉が鳴く声が聞こえるにも関わらず、妙にひんやりした空気が流れ込んでくる。

「喉が渇いたな。アイスコーヒーでも飲むか」

 考え込んでいても何も答は出ない。朝から何も食べていないし、腹も減った。ベッドか

ら起き上がり一階へと向かおうと、廊下に出た瞬間、再び戦慄を覚えた。

「……な、何だよコレ?」

 廊下に残されていたのは手の跡。大きさから考えて自分の物では無い。子供のものだ。

何故か窓の前から、泥にまみれた小さな手の跡が始まり、英明の部屋に向かう様に続いて

いる。背筋を冷たいものが伝う。同情なんかした自身の甘さを悔いていた。

「お兄ちゃん、優しいんだね」

「!!」

 不意に耳元で聞こえる声。囁く様な小さな声ではあったが、湿気を孕んだ冷気を感じる。

背後に誰かが居る。微かな息遣いが聞こえる。水滴が廊下に落ちる音が聞こえる。決し

て後ろを振り返ってはいけない。どうする? 俺は一気に階段を駆け下りようと考えた。

その時であった。

「ひっ!!」

 思わず悲鳴を挙げてしまった。誰かに手首を掴まれた。じっとりと濡れた冷たい手。明

らかに生きている人間の肌の色では無い、青白い腕。恐ろしい程に力で手首を握り締めて

いた。少年の力とはとても思えない程の力。ぐいぐいと細い指が食い込んでくる。そして

次の瞬間、耳元で再び声が聞こえる。笑うような吐息を混じりの声。

「……逃げられないよ?」

「うわああああっ!!」

 地の底から響き渡るような低い声を聞いたのと、俺が階段から転げ落ちたのはほぼ同時

のことであった。いや……正確には突き飛ばされたのだ。薄れ往く意識の中で誰かが階段

を降りながら近付いてくる気配を感じていた。どこかで死を覚悟した瞬間であった。

―――八月十八日 昼前十一時―――

 あれから一体何時間経ったのだろうか? 階段から落ちた時にあちらこちらをぶつけた

のか、体に鈍い痛みが走る。此処は一体何処だろうか? 気が付くと俺は雨の降る道路に

横たわっていた。何時の間にか辺りはすっかり暗くなっていた。

「ここは何処だ? 階段から転げ落ちたのは昼前……何時間もここに倒れていたのか?」

 いや、そんなはずは無い。人通りが多くは無いとは言え、全く誰も通らない訳では無い。

国道沿いに何時間も倒れていて、誰も気付かない訳が無い。では、一体何が起こったと

言うのだろうか? 降り付ける雨は妙に冷気を孕んでいた。八月だと言うのに、真冬の雨

の様な冷たさを感じ、思わず身震いした。それにしても不可解なまでに静か過ぎる。何故

だ? 一台も車が通らないというのも可笑し過ぎる。それにしても寒い……段々と体の芯

まで冷え切ってゆく感覚に嫌が王にも気持ちが焦り始める。本当にここは自分の知ってい

る国道沿いなのだろうか? そう思った時に初めて気付いた。

「夏の夜だというのに、何故、虫の声が聞こえない?」

 まただ。あの時と全く同じ状態だ。虫の声だけでは無い。あらゆる音が消え去ったかの

様に、何の音も聞こえてこない。一体何が起こっていると言うのだ? そう考えた刹那、

目の前を一台の車が猛スピードで駆け抜けて行った。明らかに制限速度を大きく超過した

スピードであった。だが、重要なのはそんなことでは無い。この不可解な状況下で初めて

出くわした自分以外の存在。暗夜航路の最中でようやく出会うことの出来た存在に一縷の

救いを求めて、俺は必死で走った。猛スピードで駆け抜けていった車に追い付くのは不可

能に近い。それでも僅かな望みを託して走り続けた。

 意外にも車はさほど遠くには行っていなかった。確かに、車は停まってはいた。だが、

その光景に英明は再び絶望させられた。

 運転席から居り、必死で誰かに声を掛け続ける青年。事故、それとも誰かを跳ねたか?

 英明はつりそうになる足を必死で引き摺りながら駆け寄った。

「どうかしましたか? 警察を呼びましょうか?」

「あ……ああ、君、しっかりしろ!!」

 俺の声が聞こえていないのか? その青年は俺のことなど見えていないかのように、必

死で幼い少年を抱き抱えて声を掛けていた。少年は青白い顔色をしており、頭からは血を

流していた。一目で危険な状態であることは判った。

「と、とにかく俺、救急車呼びますから」

 あまりの事態に動揺仕切っているために、声を掛けても気付かなかったのだろう。そう

考えた英明は携帯を取り出すと、急ぎ119番に電話を掛けた。

「お掛けになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめの上……」

「どういうことだ?」

 お掛けになった電話番号は……という聞き覚えのあるアナウンスが流れてくる。そんな

訳があるものか。携帯の画面を覗き込めばアンテナは三本とも表示されている。焦りばか

りが先行してしまう。相変わらず青年は、壊れたテープレコーダーの如く「大丈夫か、し

っかりしろ」を繰り返すばかりであった。もっと先にやることがあるだろうが。苛立ちを

覚えながらも繰り返し電話を掛け続ける。公共機関の番号が使われていない訳が無い。俺

は諦めずに何度も、何度も、しつこく掛け直し続けた。何度目かにしてようやく繋がった。

「あ、もしもし、事故が発生しています。場所は……」

 おかしい? 何故、何にも応答が無い? それに聞き覚えのある音が流れている。テレ

ビが終わった後の砂嵐の画面。あの画面から流れる音……そこまで考えた瞬間、電話の向

こうから声が聞こえた。

「寒い……寒いよ……」

「なっ!?」

 驚いた英明は、思わず携帯を落としてしまった。慌てて携帯を拾い上げようとした瞬間、

驚くべき光景を目の当たりにした。

「悪くない……お、俺は悪くないんだ……この子が勝手に飛び出してくるから悪いんだ」

 声を震わせながら、そう言い残すと青年は再び、物凄いスピードを出して車を走らせて

行ってしまった。

「お、おいっ!! ちょっと待てよ!!」

 後に残されたのは少年だけであった。空が唸りをあげる。大きな雨粒が少年の瞳に落ち

る。涙を流すかの様な表情。

「まさか……これは、過去に起こった事故の一部始終だと言うのか?」

 だとしたら犯人を捕まえることは不可能では無い。あの青年の顔を忘れはしない。だが

果たして、そんな話を警察にしたところで信じて貰えるだろうか? 自分が置かれている

状況をさて置きながらも、英明は少年の無念を晴らすことを考えていた。

「可哀想に……痛かっただろう? 悔しかっただろう? 何とかお前の無念を晴らしてや

りたいものだな」

 英明はそっと、少年を抱き上げてみた。氷の塊に触れたのでは無いか、と思える程に冷

たかった。気が付くと、雨はすっかり土砂降りになっていた。英明は涙を流していた。見

知らぬ少年とは言え、こんな寂しい場所に置き去りにされたまま死を迎えた。それも、あ

まりにも理不尽な理由で命を奪われた。少年の気持ちを考えると、止め処なく涙があふれ

出してきた。

「お兄ちゃん……僕のために泣いてくれるの?」

「え?」

 冷たくなった少年が静かに口を開いた。生きているのか!? 英明は驚いて少年の表情

を覗き込む。堅く閉ざされた瞳が静かに開く。

「お兄ちゃんは優しい人なんだね。僕、お兄ちゃんのこと気に入っちゃった」

「な……」

「一緒に行こう? 独りぼっちは……寂しいんだ……」

 何時の間にか少年の表情は一転して、恐ろしい表情に変わっていた。一体どうやったら

こんなに開くのかと思える程、見開かれた目。口元を酷く歪ませて嘲笑っていた。

「だ、駄目だ。俺はまだ、死にたく無いんだ。許してくれ」

「嘘だったの? そっか……でもね」

 少年は悪魔の様な笑みを浮かべながら、英明の腕を掴んだ。

「もう逃がさないから」

「……明……英明……英明!!」

「!?」

 頬に走る鋭い痛み。一体何が起こったのか、理解出来なかった。

「しっかりしなさい、英明!!」

「か、母さん!?」

 土砂降りの雨の中で、何でお袋がいるのか? そんなことを考えながら、ふと周囲を見

渡す。そこは雨の国道沿いでは無く、風呂場であった。

「あんた、一体何しているんだい? 買い物から帰ってみれば、突っ立ったままで、おま

けに服を着たままで冷水のシャワーを浴びているんだもの。びっくりしたわよ」

 驚かされるのはこっちの方だ。そう考えながらも、英明はシャワーを止める。

「ほら、今日は暑かっただろ? だからさ……」

 意味不明な言い訳しか出来なかった。母は怪訝そうな顔をしながら去って行ってしまっ

た。一体、どうなってしまったと言うのだ? 先刻見た光景は、決して幻では無い筈だ。

何故なら、俺の手首にはくっきりと指の跡が残されていたのだから……

―――八月十九日 早朝六時―――

 結局、昨日は殆ど一睡も出来なかった。何時、電話が鳴り響くのか気になって仕方が無

かった。それ以上に、あの少年……つまりは白井達矢の事件のことが気になって仕方が無

かった。インターネットで事件のことを調べてみたら、意外に簡単に事件の詳細が判明し

たのだ。

 確かに、白井達矢は数年前の八月二十日、あの公衆電話の傍で轢き逃げ事件に遭い、亡

くなっている。当日は折からの台風の接近に伴い、酷くじめじめとした暑い晩であった。

当日の天気は昼過ぎまでは曇り。夕方過ぎから雨が降り始め、事件の起こった時間帯には

警報が出るほどの記録的な大雨になっていた。

 達矢は近所の友達の家に遊びに行っていたが、大雨に阻まれてしまったために帰ること

が出来ずにいた。達矢の父、白井孝蔵は病気のために入院していたが、奇しくもこの日の

晩に容態が悪化。危篤状態になってしまった。そのことを電話で聞かされた達矢は母の制

止を振り切り、あの悪天候の国道を走っていたのだろう。そこから先は、あの時見た光景

通りの展開になってしまったのだろう。

 救われない話だ……皮肉にも達矢も、孝蔵もほぼ同時刻に息を引き取ったと記録には残

されている。

「犯人は未だ捕まって居ない、か」

 可笑しな話だ。身勝手な犯人は、結局は自分だけが大切だったのだろう。そのせいで達

矢は成仏出来ずに、あの場所を彷徨っているのだろう。

「だけど、それとこれとは別の話だ。俺は犯人では無い。憎まれる謂われは何処にも無い」

 光生から聞いたことがある。非業の最期を遂げたために成仏出来ずにいる霊は、自らに

同情してくれる人に救いを求めることがあるのだと。救いの求め方は、千差万別であろう

が、達矢の場合は孤独な寂しさを紛らわす為に、と言ったところだろう。

このままだと俺は間違いなく、連れて行かれてしまうだろう。達矢の命日である八月二十

日に。だが、一体どうすれば良い? 完全に魅入られてしまった今、何が出来るだろうか?

夕暮れ時の空を眺めながら、俺は呆然としていた。もっと動揺するものなのかと思っ

ていたが、人はどうすることも出来ない問題に直面した時、こんなにも冷静になれるもの

なのだと、自分でも驚いている。まだ「死」をリアルなものとして認識出来ていないのか

もしれない。不意に携帯が鳴る。どうやらメールが来たらしい。ベッドの上に放置して置

いた携帯を手に取る。

「光生か……二日も休んでいるから心配するよな」

 英明は光生からのメールを開いた。風邪でも引いたのかと、心配するような文面を想定

していただけに、その内容に驚かされた。

『英明の傍に嫌な気配を感じる。何か妙なことは起こっていない?』

「……さすがだな。既に異変を見抜いているって訳か」

 光生とは幼い頃からの付き合いだ。奴は昔から霊感が強く、あの公衆電話の近くを通っ

た時も険しい表情を見せていた。あの公衆電話には非常に強い霊が住み着いているから近

付かない方が良いと言っていたのを思い出していた。そんなことを考えていると、再び光

生からメールが届く。

『英明、英明自身と部屋が写るようにシャメを撮って送って欲しい』

 普段の俺ならば、俺に惚れちゃったのか? なんて笑い飛ばせるけれど、今の状況を考

えると、とても笑えない。俺は光生に指示されたように部屋の中心に立ち、自分自身を写

してみた。写し出されたシャメには予想通り、妙なものが写っていた。青白い手だ。俺の

手首を握り締める青白い手。それもハッキリと。俺は救いを求める気持ちで、その不気味

なシャメを光生に送った。すぐに光生から電話が掛かって来た。

「英明、聞こえている?」

「ああ」

「嫌な予感が当たってしまったみたいだね。何か可笑しなことが起こっていない?」

「可笑しなことなんて可愛いレベルのもんじゃ無いぜ。このままじゃ、俺は間違いなく連

れて行かれるだろうな」

 連れて行かれる、という表現に反応したのか、電話の向こうで光生が唸るのが判った。

どうやら俺の予測に間違いは無さそうだ。

「僕はこれから永徳住職に相談に行ってくる。大丈夫。君を連れて行かせはしないから」

 力強い光生の言葉に涙が毀れそうになった。諦めつつあったけれど、微かな希望の光が

見えて来た気がした。だが、光生の声はどこか重く感じられた。

「ただ……子供の霊は厄介でね。経文は意味を正しく理解出来る相手にこそ意味がある。

まだ幼い達矢君が相手では、苦戦は免れられないかも知れない。英明、良いかい? 何時

も言っているけれど、何があっても相手に同調しては駄目だよ」

「同調? 同情とどう違うんだ?」

「相手の思惑に呑まれてはいけないということだよ。達矢君は……君を……」

不意に電波状態が悪くなったのか? 妙に声が途切れる。

「おい、光生、良く聞こえないぞ?」

「……むい」

「あれ? もしもーし?」

「寒い……」

「!!」

 聞き覚えのある声。英明の表情が一気に険しくなる。怯えているだけじゃ事態は変わら

ない。みすみす連れて行かれて溜まるものか。自分を救ってくれようとしている親友の想

いに報いるためにも、生き延びなければならない。

「白井達矢、俺はお前とは住む世界が違う。悪いがお前の願いを叶えることは出来ない」

「……どうして?」

「良いか? お前はもう死んでいるんだ。死んだ奴が何時までも彷徨っていてはいけない」

「……さない」

「え?」

「許さない……絶対に許さない!!」

 断末魔の様な叫び声を上げると電話は一方的に切れた。これで引き下がってくれれば良

いのだが……だが、そんな甘い考えは瞬時に打ち砕かれた。

「!!」

 誰かが凄まじい勢いで窓を叩いている。泥まみれの手形が、次々と窓に付けられてゆく。

英明は慌てて窓の鍵を閉めた。それと同時に、母が血相を変えて階段を駆け上がって来た。

「ひ、英明……」

「そんな血相を変えてどうしたの?」

「あ、あの電話は一体何なの!?」

 電話……そうか。家には固定電話も置かれている。普段は携帯しか使わないから、家の

電話の存在をすっかり忘れていたが、固定電話に電話を掛けて来たのだろう。

「男の子の声で、許さない、許さないって、とても気味の悪い声で」

「電話線は抜いた?」

「え? 電話線を抜く? 何のことなのか、母さんには意味が判らないわ」

 取り乱す母をベッドに腰掛けさせると、英明は階段を駆け下りた。電話はなおも激しく

鳴り響いている。英明は受話器を抑え付けると、力一杯電話線を引き抜いた。だが、それ

でも電話は執念深く鳴り続けている。

「ど、どういうことなの!? 電話線を抜いたというのに電話が鳴っているなんて」

 母は気を失いそうになりながらも、気丈に自分自身を保とうとしていた。とうとう家族

まで巻き込むことになってしまう結果になるとは……英明は考えた。全てが始まったのは

あの公衆電話だ。ならば、あの公衆電話に解決の糸口があるのかも知れない。

「達矢、聞こえているか? お前の願い通り、公衆電話に行ってやる。俺の負けだ。だか

ら家族を巻き込むのは止めろ!!」

 英明の声に呼応するかの様に、家中の窓を叩いていた音が止んだ。鳴り止まなかった電

話も止まった。

「な、鳴り止んだ?」

 英明は腰が抜けそうになる母に向き直る。

「母さん、電話線を指して光生に伝えて欲しい。俺はあの公衆電話に向かった、と」

「え? 公衆電話? 何を言っているの?」

「とにかく今言った通りに伝えてくれ。俺の命が掛かっているんだ」

 それだけ言い残すと俺はあの公衆電話を目指してひたすら走り続けた。みすみす命をく

れてやるつもりは無い。だが、このままでは家族さえも巻き込んでしまう。勝算なんて考

えていなかった。ただ、親友の言葉を信じる以外には非力な自分には何も出来ない。

「頼むぞ光生……何とか俺を助けてくれ」

 一縷の期待を胸に抱き走り続けた。時刻は夕暮れ時。今まさに日が沈もうとしていた。

第二章『光生編:月明かりの舞踏曲』

―――八月二十日 深夜零時―――

 思わず溜め息が毀れてしまった。一連の話を聞かせて貰ったが、事態は予想以上に深刻

であることが判った。電話の途中で妨害してきた辺りからも、強い霊気を感じていたが、

これ程までとは思っていなかった。何よりも霊の姿を見ることの出来ない英明が克明に達

也君の姿を捉えている。そのことが意味するのは、それだけ深く魅入られてしまっている

ということになる。果たして英明を救うことが出来るだろうか? 不安な気持ちは拭い切

れなかったが、立ち向かうしか無い。

 夕暮れ時に家を飛び出したことを聞かされてから、すぐにでも公衆電話に向かいたかっ

た。しかし、僕の力では達矢君の霊には太刀打ち出来るとは思えなかった。そのための準

備として、まずは永徳住職の下へと向かった。

「とまぁ、僕の方はこういう感じだった訳」

 力尽きたかの様に項垂れる英明に、僕はここに至るまでの経緯を手短に説明した。きっ

と、英明は最後の瞬間まで、希望を捨てなかったのだろう。だから、こうして助け出すこ

とが出来たのかも知れない。

「英明、永徳住職に状況を報告するから一旦車を止めるね」

「あ、ああ……」

 未だに雨足は留まる所を知らない。窓に叩き付けるような雨の音が車内にも響き渡る。

「お掛けになった電話は、電波の届かない場所に……」

 聞き覚えのある音声メッセージだけが空しく返される。

「あれ? どうしたことだろう? 電波が届いていないみたいだね」

 またしても妨害しようという訳か。なるほど。予想通り、一筋縄で行くような相手では

無いということだろう。考えてみれば、達矢君が亡くなったのは八月二十日の夜九時頃。

一日は二十四時間ある。零時から始まることを考えれば、まだ彼の命日が終わった訳では

無いのだ。一旦、油断させておいて……という狡猾な作戦を考えているのかも知れない。

その証拠に永徳住職に電話が繋がらない。

「英明、良く聞いて。永徳住職は君の家に向かっているはずなんだ。あれだけ深く霊に関

わってしまった以上、浄霊をしておかない訳にはいかないからね。ただ、ひとつ言えるこ

とがある。まだ達矢君は諦めた訳では無いと思うよ」

 予想に反して英明は冷静な表情で僕の言葉を受け止めていた。英明の方が達矢君とは近

しい状態にある。肌で感じ取ることが出来たのかも知れない。

「やっぱりそうか。さっきから妙な寒さを感じていてな」

「……気を確かに持って。彼はあの手、この手で君の心を挫けさせようとする。だけど、

絶対に屈しては駄目だ。永徳住職が来てくれるまで逃げ延びることが出来れば、きっと助

かるはずだから」

 僕は英明に嘘をついた。永徳住職は言っていた。この一件に関しては、そうそう容易く

解決できるとは考えていない、と。自分の力だけで通用するのか、とも。ただ、心が挫け

てしまっては助かるものも助からなくなる。英明は散々恐ろしい体験をさせられて、心が

揺らぎ始めているはずだ。だからこそ、確実に繋ぎ止めておく必要がある。とにかく、一

度英明の部屋に戻って永徳住職から託された結界を使って、何とか時間稼ぎをしなくては

ならない。

「英明の家に向かうよ。大丈夫、僕がずっと一緒にいるから」

「すまない」

「ま、昼飯だけじゃあ足りないだろうから、呑み代を奢って貰うというので手を打とう」

「はは、底無しの光生の呑み代とは、お高く付きそうだ」

「それだけの口が利けるなら大丈夫。心配は要らないよ」

 病は気からと言うけれど、霊との接し方も同じこと。気を強く持つことは、自身を守る

城壁を築き上げることと同じ意味合いになる。永徳住職程では無いけれど、これでも心得

は持つ身。こんなにも早く実践投入することになろうとは思っていなかったけれども。

「雨足は相変わらず強いみたいだから、安全運転で向かうよ」

 英明が見えない性質で救わる。心からそう思う。僕は後部座席を振り返る勇気を持つこ

とが出来なかったから。今まで体験したことも無い程に、鋭い殺気を放つ存在が僕の背後

に佇んでいる。気配だけでも判る。凄まじい霊気を放つ存在。無事に英明の家まで辿り着

ければ良いのだが……

「英明、喉渇いたでしょう? 僕のかばんの中に小瓶が入っているから」

「小瓶? これのことか?」

 光生の言葉を受けた英明は、かばんの中から小さな小瓶を取り出した。小瓶の中には透

明な液体が入っている。瓶を開けると鼻に抜ける香りがする。日本酒の香りに似ていた。

「そう。その小瓶の中身を一気に飲み干して。味は……あまり美味しいとは言えないけど」

「は? そんな不味いもん飲ませようってのか?」

「良いから、文句言わない」

「へいへい……」

 英明は一気に飲み干した。その苦悶するような表情を見れば、途方も無い味であること

は言うまでもない。

「なんだこりゃ? 凄まじく不味いぞ?」

「お神酒に色々と混ぜたもの。多少の防御効果は期待できると思ってね」

 何を混ぜたかに関しては知らない方が幸せだろう。

とにかく僕は話を途切れさせないように細心の注意を払っていた。今の英明であれば、見

えなくても良い者達が見えてしまってもおかしくなかったからだ。英明の家に向かう途中

には、どうしても通過しなくてはならない場所がある。とある川に架かる大きな橋。その

橋もまた自殺者の絶えない場所である。達矢君の霊に刺激されて、多くの不成仏霊達がま

とわりついてくるのは予測済みだった。

「な……なぁ、光生、俺の目の錯覚だろうか?」

「何?」

 英明の声が震えている。やはり見えてしまっているのだろうか? 眉をひそめる僕には

構うことなく淡々と続ける。

「いや……この辺りは街灯なんか無いから暗いのは当然なんだけど、森の木々が妙に暗く

見えていてな」

「ふぅん。目の錯覚じゃない? 英明、疲れているでしょう? 少し寝た方が良いよ。夜

は長いからね」

「そうか? 悪いな。じゃあ、少し寝させて貰うよ」

 今ひとつ納得出来なそうな顔をしていたが、僕が何を考えているかは伝わったのだろう。

英明は背もたれに寄り掛かりながら眠りに就こうとしていた。

 達矢君、君が何を企てているのか判らないけれど、君の思惑通りにはさせない。不成仏

霊達を利用するなんて小細工なんか無駄だよ。そう心の中で告げながらも、僕自身、内心

動揺し始めていた。永徳住職に電話が繋がらなかったことは、少なくとも事態の深刻さの

証明でもある。明日の朝までが勝負となるだろう。太陽の光の無い時間帯は霊の活動が活

発になるのだから。明日の朝まで持ち堪えられれば、何とかなるかも知れない。僕は慎重

にハンドルを握りながら運転を続けていた。何しろ……青白い手がハンドルに手を伸ばし

てくるから気が抜けなかったから。

―――八月二十日 深夜一時―――

予想外に時間を要したが、取り敢えずは英明の家に着いた。予想通り、永徳住職は足止め

を喰らってしまっているのかも知れない。ある意味、想定通りとなっていた。

既に英明の家族には事情は説明してある。僕は英明の手を取り、部屋へと向かった。

「英明、お札を渡すから部屋の入口に張って。それから窓のように外部と繋がる場所も」

「あ、ああ……」

 その間に僕は香炉を用意すると、線香に火を灯した。次第に部屋に穏やかな香りが充満

し始める。英明がお札を貼り終えたのを確認し、これからの話を伝えることにした。何も

知らないのと、知っているのとでは大きな差が出てしまうからだ。

「英明、永徳住職には到着し次第、この部屋に入って来て貰うことになっているから」

「あ、ああ」

「強力な結界を張っているから、達矢君は自分からはこの部屋に入れない。僕達が結界を

破ってしまわない限りはね?」

「…………」

 英明の表情が険しくなった。不安に感じない方が可笑しいのだ。自分の命が奪われるか

も知れないという状況に直面しているのに、落ち着いていろという方が無理というものだ。

「それから、もう一点。何があっても、決して、同調してはいけない。彼はこの世界に居

てはならない存在なんだ。共存することは出来ない。良いね?」

「あ、ああ」

 強張った表情を崩さない英明に向き直ると、光生は笑顔を浮かべて見せた。

「ま、取り敢えず何かトークでもしよう」

「何かって言われても……」

「じゃ、魔女っ娘トークでも」

「しねーよ」

 時刻は深夜一時過ぎ。まだまだ夜明けまでは時間はある。何とか時間を稼がなくてはな

らない。窓の外には間違いなく達矢君がいる。空かない窓を何とかしてこじ開けようとし

ているのだろう。姿は見えなくても窓が軋む音は聞こえているのだから。

「な、なぁ……本当に大丈夫何だろうな?」

「何が?」

「窓がギシギシ言っているだろう?」

「さっきも言った通り、こちらから開けない限りは開けられないから」

「でも……」

「気を確かに持って。破られないはずの結界が、破られてしまうことになるよ?」

「そ、そうだったな……」

 英明がそう呟くと同時に、部屋の照明が唐突に消えた。

「ひっ!!」

「……英明、落ち着いて」

 英明を落ち着かせながら光生は考えを巡らせていた。部屋の照明が消える……つまりは

電気系統に何らかの手を加えていることになる。より踏み込んだ言い方をすれば、彼は部

屋に侵入し始めている、ということになる。想像以上に強い力を持っているのであろう。

万にひとつ、この部屋に完全に侵入したとしたら、まずは英明を守っている僕を殺すだろ

う。僕が居なくなってしまえば、英明は自分の思う通りに動かすことが出来るはずだから。

古典的な物の考え方でいうならば、牡丹灯篭の考え方に似ている。考えを巡らせながら、

僕はさらに数本の線香に火を灯した。

 何時しか風が吹き始めたようだ。強い風と、降り続ける雨。時折、激しい雨が窓に吹き

付けている。雷まで鳴り始めた。窓の外は大荒れの様相を呈していた。不意に、窓を叩く

音が響き渡った。凄まじい力で窓を叩いている。泥まみれの手形が次々と、窓に貼り付け

られてゆく。稲光が光るたびに青白い手が浮かび上がる。何とも異様な光景だ。

「あ……ああっ……」

 凄まじい力だ。窓を叩く音が部屋中に響き渡る。今度は部屋の入口のドアノブが回り始

める。何時こじ開けられても可笑しく無い程に、木製のドアが湾曲するのが見える。

 明かりの消えた深夜の部屋。窓を叩く手、ドアノブを回す手。外は大荒れの空模様。木

々の葉がざわめく音。車が雨水をかき分けながら走る音。雷鳴。稲光。心を揺さぶるには

十分過ぎる演出だ。

「まずいね……」

「お、おい、光生、まずいってどういうことだ?」

「僕達の想像を遥かに超える力を持っているってことだよ。あのお札は並大抵の霊には破

ることなんて出来ない代物なんだ。なのにも関わらず、少しずつ破られていってしまって

いる。時間との戦いになりそうだね……朝日が昇るのが先か、結界が破られるのが先か」

 正直、僕はあまりの恐怖に潰されてしまいそうだった。英明の手前、冷静さを保ってい

るように見せ掛けているが、今にも叫んでしまいそうだった。その時であった。

「!!」

 凄まじい音と共に、部屋のドアを青白い手が突き破った。

「うわああああ!!」

「と、とうとう破られ始めてしまったか!?」

 突き出された手は必死に指を伸ばして、何かを捕らえようとしている。その手からは、

真冬の様な冷気が吹き込んでくる。

「な、何か……部屋の中が寒くなって来てないか?」

「彼の仕業以外には考えられないね」

「寒い……いや、あり得ない位に寒い」

 急激な気温の低下に体力が奪われてゆく。まずい……このままでは僕達の方が先にやら

れてしまうことになり兼ねない。何か防寒具は無いのだろうか?

「ひ、英明、何か防寒具は無いの?」

「あ、ある訳無いだろ? 今は夏なんだぞ?」

 吐く息まで白くなってしまっている。八月に白い吐息。あり得ない光景だった。英明の

部屋にはゆっくりと霊界の空気が充満し始めていた。だが、恐怖はまだ始まったばかりで

あった。窓を叩く手の形は何時しか拳の形になっていた。泥に塗れていた窓は、気付けば

真っ赤な血に塗れた禍々しいものになっていた。殴られ続けていた窓から、不意に軋む様

な音が聞こえて来る。既に窓は血塗れになっている。窓を伝う鮮血に吐き気を覚える。

「こっちも破られるのか!?」

「英明、窓から離れて!!」

 次の瞬間、窓を打ち破り青白い腕が突っ込まれた。それも、一本や二本では無い。何十

本もの青白い手が次々と窓を突き破り、何かを掴むかの様に必死で指を動かしているのだ。

入口のドアからも、同じ様に青白い手が次々と突っ込んで来られた。そのあまりにも異

常な光景に、二人の心は何時決壊しても可笑しく無い状況に追い込まれていた。

「ほ、本当に助かるのかよっ!?」

「とにかく、時間を稼ぐ意外に道は残されていないんだってば!!」

 蠢く青白い手の襲来。もはやお札は何の効果も示していない。完全に破られるまでは左

程の時間を要することも無いだろう。もはやこれまでか……僕達は死を覚悟し始めていた。

心を強く持つこと。それが身を守ることに繋がる。判ってはいるが、心と体の動きは完

全に乖離してしまっていた。波状的な恐怖と、急激な気温の低下で心身ともにぼろぼろに

なりつつあった。何時しか僕達の手足は蠢く彼の手足と同じ様に青白くなっていた。まも

なくドアも窓も打ち破られるだろう。死を受け入れようと本気で考えた瞬間であった……

「……?」

 不意に訪れた静寂。一体何が起きたのか。気が付けば窓の外からはうっすらと光が差し

込み始めている。慌てて手元にあった時計を見る。時刻は五時。朝が訪れたのだろうか?

だとしたら僕達は救われたことになる。

小鳥達のさえずる声が聞こえる。何時の間にか雨は上がったようだ。外は静けさを取り

戻していた。

その時であった。誰かがドアをノックする音が聞こえてきた。

「光生君、聞こえるか? ワシじゃ、永徳じゃ」

 ドアの向こうから聞こえる声は紛れも無く永徳住職の声であった。

「お、俺達……た、助かったのか?」

「そうじゃよ。ささ、英明君、このドアを開けてくれ。両手が塞がっているのでな」

 英明は永徳住職の声に嬉々とした表情で立ち上がった。

「ちょっと待って」

僕は英明を制する様に腕を掴んだ。英明が怪訝そうな顔で振り返る。

「何だよ、光生? 永徳住職が来てくれたんだろう?」

 僕は険しい表情を浮かべたまま首を振って見せた。

「……僕は永徳住職に、この家の場所は教えたけれど……英明のことは『僕の友人』とし

か話していない。なのにドアの向こうの何者かは英明のことを名で呼んだ。つまりは……」

 次の瞬間、けたたましい笑い声が響き渡った。

「あははははは。英明兄ちゃん、いい加減開けてよ!! 早く一緒に行こうよ!!」

 一瞬、外が明るくなったように見えたのは幻に過ぎなかったのか? 時計を覗き込めば

時刻は深夜三時。

「そんな馬鹿なことって!?」

 幻を見せられたのかも知れない。いずれにしても、このまま時間を要したところで恐ら

く朝日を迎える前に潰えることは間違い無いだろう。光生は静かに考えを巡らせていた。

「英明……良く聞いて。このままでは、僕達は間違いなく助からない。だから、一つの賭

けに出てみようと思うんだ」

「賭け?」

 英明はその言葉に戸惑いを隠し切れなかった。この後に及んで一体どんな賭けを仕掛け

ると言うのだろうか? だが光生が何の考えも無しに無謀な賭けに臨む訳も無かった。そ

れは長い付き合いだからこそ判ることが出来た。

「達矢君、聞こえているかい? 取引をしようじゃないか」

「…………」

 光生の言葉に応じるかの様に青白い手が一斉に動きを止める。

「知りたいとは思わないかい? 君を殺した憎い犯人のことを」

「…………」

 無数の手は変わらず動きを止めたまま佇んでいる。

「達矢君、君は犯人に対する強い憎しみを抱いている。それが足枷となってしまい成仏出

来ない。苦しいでしょう? 寂しいでしょう? こんなことをしたって天国に行った君の

お父さんは喜ばないし、君が誰かを連れ去るたびに君のお母さんは哀しみにくれてしまう。

本当にそれで良いのかい? 君の大切なお父さんを、お母さんを哀しませて良いのかい?」

 静かにドアが歪みながら膨れ上がる。やがてそれは、人の顔の様な形に変わった。

「僕を……救ってくれるの?」

「約束するよ。僕達は君を苦しめたい訳じゃない。それにね、達矢君、君も知っているだ

ろうけれども、悪行を積み重ねたらどうなってしまうか? 判っているよね」

「…………」

「成仏したいでしょう? だから、どうか道を開けて欲しい。あの場所で君に真実を伝え

ようじゃないか?」

 成り行きを見守るしかない英明に、大丈夫だよと目配せしながら僕は達矢君に語り掛け

続けた。やがて部屋の空気が変わり始める。真冬の様な冷気が消え、次第に真夏の暑さが

戻って来た。日の出まで逃げ切れれば何とかなるはず。何とかそれまでの時間を稼がなく

ては……無邪気な子供を騙すのは気が引けたが、何とか達矢君を納得させなければいけな

い。下手な経文で成仏させるよりも、嘘でも良いから、自分の中で納得出来る事実を作り

上げてあげれば良い。

 成仏を望まない霊なんていない。皆、満たされないから誰かに悪さをする。ならば要求

を満たしてやれば良い。そうすれば天から差し込む光に気付くはずだ。

「少し時間を欲しい。必ず君の下に向かうから」

「…………」

 僕の言葉に呼応するかの様に青白い手は静かに消えた。その様を見届けたところで僕は

英明に目線を投げ掛けた。

「英明、大丈夫? 立てるかい?」

「あ、ああ……光生、一体何をするつもりだ?」

「……生き延びたいなら余計な詮索はしないで、僕を信じて。全てが終わったら話すから」

 僕は英明を連れて再び車へと向かった。相変わらず永徳住職には電話が繋がらない。も

しかしたら永徳住職の身にも、何か起こっているのかも知れない……だとしたら、なおの

こと早急な事態の解決が望まれる。

「英明、急ごう」

「ああ」

 僕達は再びあの公衆電話へと向かい車を走らせていた。不思議なことに、空は雲ひとつ

無くなっていた。道路には雨が降った形跡は残されていなかった。もしかすると、あの雨

も……いや、余計な詮索は後回しにしよう。そっと空を見上げながら光生はハンドルを握

り締めた。

 僕達は再び公衆電話前に佇んでいた。空は白々と明るくなり始めている。僕達が到着す

るのと、公衆電話が鳴り響くのとは同時であった。僕は迷うことなく受話器を手にした。

「達矢君だね? 君を轢き殺した犯人の名は山崎学。君を轢き逃げした後も彼は悠々と暮

らしていた。だけど彼は既にこの世には存在していない。どういうことか判るかい? 彼

はあれから数ヵ月後に車の事故を起こしてこの世を去っている。つまりはもう、君が憎し

みを抱いたまま彷徨い続ける必要は無いということになる」

「…………」

 電話の向こうからは何かしらかの音も聞こえない。だけど、確かに僕の背後には人の気

配を感じている。無論、それは英明の気配とは異なる気配。達矢君は僕達の後ろで話しを

聞いているのだろう。

「独りぼっちで寂しかっただろうに。今すぐに、君の下へ向かうことは出来ない。だけど、

君のお墓に花を供え、線香を上げてあげることは出来る。君の成仏を願って供養のため

に祈りを捧げることは出来る。だから……もう、誰かを連れて行くのは止めにしないかい?」

「……時々は僕のお墓に来てくれる?」

「ああ、約束しよう。良いよね、英明?」

「もちろんさ。達矢、まぁ……こんな形とは言え、お前と出会えたのも何かの縁だからな」

「……うん、判ったよ。明るくなって来たし、僕、そろそろお父さんの所に行くよ」

「うん、それが良いよ」

「ありがとうね、お兄ちゃん達」

 その一言は受話器の向こうからでは無く、耳元で聞こえた。背後に佇んでいた気配も静

かに消えようとしていた。

「完全に成仏したかどうかは判らないけれど、もう達矢君が悪意を持って接することは無

くなると思う。後日、永徳住職を交えて本格的に祈りを捧げてあげれば、達矢君も天に昇

ってゆくことが出来ると思うよ」

「そっか。ああ……もう朝だな。朝日が眩しい」

「そうだね。とんでもなく恐ろしい体験をしたけれども、これで終わるはずだよ」

「ああ」

 英明は満足そうに頷きながら朝日を見上げながら、ふと何かを思い付いたのか光生に向

き直った。

「なぁ、一眠りしたら達矢の墓に行かないか?」

「場所判っているの?」

「判らないけどさ、達矢が案内してくれるさ。そんな気がするんだ」

「そうかも知れないね。取り敢えず、一度英明の家に戻ろう」

 あれだけの体験をした後だ。すっかり疲れ切っていた僕達は英明の家に戻ることにした。

道中、僕は英明に「賭け」の舞台裏を説明した。種を明かせば実に単純な話である。そ

もそも、犯人が誰か何て判っていないし、当然のことながら判りもしない相手のその後な

んか判る訳も無い。早い話、全て作り話だったということになる。英明は驚愕の余り、何

も言い返せなかったけれど、重要なのは真実を伝えることではない。成仏するための契機

を与えあげることだと考えている。少なくても達矢君は成仏を願うようになった。

 僕は思う。達矢君は元々成仏を望んでいたはずだったと。だけど、噂話だけが一人歩き

してしまい、気が付けば彼の存在は恐ろしい存在として描かれるようになってしまった。

そんな中、偶然彼の死亡現場で偶然が重なり過ぎた事故が起こってしまった。それを面白

おかしく達矢君の話を結びつけただけのことだろう。結果、達矢君は人々から恐怖の対象

として遠ざけられる様になってしまった。ただ、自分の存在を伝え、成仏したかっただけ

だったのに。真相は判らないけれど、少なくても僕はそうだと信じている。

―――八月二十日 朝十時―――

 英明の家で軽く寝た後、僕達は国道沿いを走っていた。英明が道案内をする中を僕達は

移動していた。途中、花屋で達矢君に供える献花を用意するのを忘れずに。

「それで、この先の交差点はどっち?」

「えっと……左だな。で、わき道に入って少し行けば達也の家があるはずだ」

「了解。ここを左だね」

 初めて訪れる場所を案内しているとは思えない程に的確なナビであった。やはり達矢君

が僕達を導いているとしか思えなかった。英明は一切の迷いも無く道案内を指示している

のだから。

「あ、あの女の人……何か感じるものがあるな。光生、車を止めてくれ」

「了解」

 僕は通行人の迷惑にならないように車を止めた。周囲は水田が広がる長閑な風景が広が

っている。時の流れがゆっくりと感じられる場所だった。家々もまばらな田舎街。市街地

から大体三十分程で着く場所だった。かくして英明の予想通り、彼女は達也君の母親であ

った。

 僕達はこれまでの経緯を説明したところ、最初は半信半疑に話を聞いていた彼女であっ

たが、次第にその表情が変わっていった。何時しか涙を流しながら、繰り返し頭を下げ続

ける彼女にこちらが恐縮してしまいそうになっていた。

「達矢が色々とご迷惑をお掛けしたようで、本当に申し訳御座いませんでした」

「いえ、僕達のことは気になさらないで下さい」

「達也も喜ぶと思います。あの子、ずっとお兄ちゃんが欲しいって言っていましたから」

「なるほど。それで兄貴になってくれそうな俺を選んだって訳か」

「まぁ、かなり選ぶ相手間違えていると思うけど」

 睨み付ける英明を横目で見ながら、達矢君の母は静かに微笑んでいた。

「達矢のお墓までご案内しますわ。この近くのお寺さんにありますので」

 この後、僕達は達也君の母に案内されてお墓へと向かった。花を供え、線香を焚き、三

人で達也君の成仏をひたすらに祈り続けた。後日永徳住職と再度訪れることを考えて、僕

は住所と周辺の状況等を克明に記録した。何しろ記憶力の無さでは右に出る者が居ないと

も言える英明ナビで割り出した道なのだから、慎重に記録する必要があることは間違いな

い。

 この後、僕は英明を家まで送り届け、帰路に就こうと運転を続けていた。さすがに昨日

から運転し続けているせいか、無性に疲れている。早く家に帰ってゆっくりと休みたいも

のだ。そう考えていたところで、丁度永徳住職から電話が掛かってきた。こちらから電話

しようとしていた矢先だけに、丁度良かった。一旦、車をコンビニの駐車場に止めて電話

に出た。永徳住職の口から告げられる真実に僕は本当の恐怖を味わうことになるとも知ら

ずに……

終章『終わらない楽曲』

―――八月二十日 正午過ぎ―――

「はい、もしもし、光生です」

「ああ、光生君か? 唐突で済まないが今何処にいるかね?」

「今ですか? 園光寺の近くまで来ていますよ。住職に電話が繋がらないから、直接ご報

告に上がろうかと思っていたところです」

 何時に無く住職の口調は落ち着きが無かった。嫌な予感は的中するもので、予想通り、

住職の口からは信じられない言葉が飛び出した。

「そうか……実はな、ようやく光生君の友人の家まで着いたのだが、英明君は家に戻って

きていないそうなのじゃよ」

「そ、そんな訳は無いです。ついさっき、確かに送り届けましたから……」

「……光生君、これから言うことを心して聞いて欲しい。途方も無く驚くことになるだろ

うが、どうか、取り乱さずに聞いて欲しい」

 それほどまでに念押しする内容とは、一体どのような内容なのか? 英明が家に戻って

いない。その上での、途方も無く驚く話……何となく想像は出来てしまった。だけど……

それは、間違いであって欲しい。そう祈るしか無かった。

「念のためにと思い、弟子の何人かをあの公衆電話に向かわしたのじゃよ。英明君は……

そこに居った。全身、ずぶ濡れで……凍死しておったそうじゃ……」

 そこから先は、殆ど聞こえていなかった。そんな馬鹿なことがあるのだろうか? 全て

が幻だったとでも言うのか?

「!!」

 そうだった……相手は朝日が昇って来たかのように見せ掛ける幻を創り出せる相手だっ

たのだ。そう考えれば、僕の話を受け入れたかのように見せ掛けたのも、いや……あの母

親の存在すらも幻だったのかも知れない。

 僕は取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだ。策にはめたつもりだったが、達矢

君はさらに一枚上手を行ったということだろう。彼の策にはまり、僕はまんまと英明を結

界の外に連れ出してしまった。その上、ご丁寧にも公衆電話まで運んでしまったのだから。

あのまま部屋にいれば助かったのかも知れない。英明を救うため? 違う……僕は一刻

も早く恐怖から逃げ出したかっただけだ。そのために英明を見捨ててしまったのと同じこ

とだ。僕が英明を殺したのと同じことだ。

「光生君、聞こえているかね?」

「……住職、英明の家にいらっしゃるのですね? 今すぐ向かいます」

「判った。気をつけて来るのじゃぞ」

 気が重かった。英明のご両親に何て説明すれば良いか判らない。

 やがて僕は英明の家に辿り着いた。突然の訃報を知らされた英明の両親は、まるで人形

の様に放心状態になっていた。どんなに堪えようとしても涙が止め処なく溢れて来る。

「ごめんなさい!! 僕が着いて居ながら、こんなことになってしまうなんて……」

「光生君、頭を上げてくれ」

 英明の父は努めて冷静に振舞っていた。だが、その哀しみは計り知れないであろう。

「光生君、朝を迎えた後何処に行っていたのか教えてくれないだろうか?」

 永徳住職は一連の出来事の背後に何かを感じ取っていたのだろう。僕は明け方、英明の

家を出てからの一部始終を説明したが、住職の表情は険しくなっていた。

「……光生君、その……白井達矢という少年のことだが……あの事件の被害者は、少年で

あるということ意外、身元は結局のところ判らなかったはずなのじゃが?」

「え? で、でも……」

「これを見て御覧なさい。轢き逃げ事件の記事じゃ」

 確かに、永徳住職が見せてくれた記事には轢き逃げ事件のことは記載されていたが、少

年の身元が判明しなかったことが記されていた。その理由として、少年は数百メートルに

渡り引き摺られた上に、遺体は付近の山中に投げ捨てられたとされている。発見された時

には腐敗が進んでおり、また同時期に出された捜索願の何れとも合致しなかったためと記

されていた。

 この事実から判断出来ることは、あの公衆電話と轢き逃げされた少年とは、何の繋がり

も無いということになる。では、何故、あの公衆電話にて変死事件が相次ぐのか? あま

りにも不可解過ぎる。僕達が体験した一連の出来事の説明がつかない。

 そんな馬鹿なことがあるのだろうか? では、一体……白井達矢とは誰なのだろうか?

 確かに僕は、英明と共に噂話を元に、以前ネットで調べたはずなのだ。実際に、噂話の

中にもその名前は度々登場していたはずなのだ。今度は僕が恐怖に沈まされる番だ。一体、

白井達矢とは何者だったのだろうか?

「な……なら、僕が訪れた場所、住所を控えてありますから」

 必死だった。素性すら判らない霊に振り回されたとは考えたくなかった。僕は震える手

で必死に携帯で住所を調べてみた。

「な……」

確かに、その住所は実在する住所であった。だが、そこにあるものは白井達矢の実家など

では無かった。

「公共墓地!?」

 先刻訪れた家の住所は、そもそも山奥になっていた。そこに存在するのは無縁仏を埋葬

するための公共墓地。一体どうやった、こんな山中まで車で入り込めたのだろうか? そ

れに……助手席に座っていた英明は、本当に英明本人だったのだろうか?

「光生君、この話にはこれ以上踏み込まない方が良いじゃろう。あの場所には……もっと、

もっと、途方も無く深い過去が隠されておるのじゃ。世の中にはな、知らない方が良い

こともあるのじゃよ。ささ、後のことはワシらに任せて、この事件のことは忘れなさい」

 これ以上首を突っ込むな。必要なことは全て答えた。だから……お前は蚊帳の外に戻れ。

そういわれて、はい、そうですか。とても、そう返せる気分にはなれなかった。英明を

失った哀しみ、怒り、憎しみ!! 忘れることなんて出来る訳が無いじゃないか!?

「納得出来ません!! 僕だって子供じゃありません。そんな説明で引き下がる訳には……」

 住職は哀しそうな表情で涙を流していた。英明の両親もハンカチで目頭を抑えている。

僕は驚きのあまり、思わず出掛かった言葉を飲み込んでしまった。僕の顔を見つめる永徳

住職は、尚も首を横に振りながら、ただ哀しそうに涙を流すばかりであった。これ以上詮

索してはいけない……僕は静かに、そう心に誓った。

「……僕はこれで帰ります。お邪魔しました」

 哀しみに暮れる英明の両親の悲痛な表情を見続けるのは、あまりにも酷だった。これ以

上、ここに居るのは辛過ぎる。僕は英明の家を後にした。

 家に戻ろう。そして、ゆっくり寝よう。もしかしたら……全部、悪い夢でしたってオチ

で終わるのかも知れない。明日になれば英明とも会えて、全部冗談だった。笑い飛ばして

くれるに違いない。そんなあらぬ期待を胸に抱きながら、僕は車を走らせていた。

道路は朝早い時間帯なのもあり、それなりに混雑していた。眠気に負けて事故を起こさな

いようにしなくては……そう考えていた矢先のことであった。一瞬、強烈な睡魔に襲われ

た。時間にしてみれば、ほんの数秒のことであった。

「あ……危ない、危ない。一瞬、寝ちゃったのかも知れない」

 事故を起こさないように注意しながら運転しなくてはいけない。そんなことを考えなが

ら、周囲を慎重に見回す。

「あ、あれ?」

 つい数秒前まで走っていた道とはまるで異なる道。いや……この道には確かに見覚えが

ある。つい最近も通った道だ。ここはどこだろうか? 考え込む僕の目の前に公衆電話が

飛び込んで来る。

「!!」

 背筋が凍り付きそうになった。

「こ、ここは……あの公衆電話じゃないか!? で、でも、全然違う場所を走って……」

 その時であった。静寂を打ち破るかの様に公衆電話が鳴り響いた。

「…………」

 気が付くと僕は静かに手を伸ばそうとしていた。ゆっくりと、ゆっくりと……

「だ、駄目だ!! じゅ、受話器を取っては駄目だ!!」

 だが、そんな想いとは裏腹に体が勝手に動く。

「あ……あ、ああっ……」

 ガチャ。受話器が外される。呼び出し音が止む。

「嫌だ……嫌、嫌だよ……し、死にたく無い……お願い、許して……許して!!」

 だが無情にも受話器はゆっくりと耳に近づけられる。

「あ……ああ………………」

『……寒い……マジで寒い……なぁ、光生、俺達親友だろう?』

「うわあああああああああああっ!!」

終わり

怖い話投稿:ホラーテラー のりさん  

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